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くまの森  作者: 海月繭


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スピンオフ

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白神山地のふもとに、「くまの森」という小さな民宿がありました。


田畑を耕し、自然の恵みをいただきながら、森とともにつつましく暮らす夫婦が営んでいました。


ふたりは、とても穏やかで、気立てのやさしい人たちでした。


ある晴れた春の日、その夫婦のもとに、ひとりの赤ちゃんが生まれました。


それはそれは、妖精のようにかわいらしい女の子でした。


少女の産声は、民宿の天井を越え、春の風に乗って、森の奥まで届きました。


そのときです。


森の中で、一頭の熊が、そっと耳を澄ませていました。


春風に乗って届いたその声に、熊は静かに目を細めました。


それが、母熊が少女のことを知った、はじめてのときでした。


少女は、父と母に、だいじに、だいじに育てられました。


朝は、畑の野菜に水をやる父の背中を見て、


昼は、母の手伝いをしながら、野菜や山菜の名前を覚えました。


夜は、囲炉裏の火を囲みながら、絵本を読んでもらいました。


少女の笑い声は、民宿の柱にも、庭の草花にも、森の木々にも、やさしく染み込んでいきました。


季節はめぐり、少女は、庭の草の上を裸足でよちよちと歩くようになりました。


風とたわむれ、鳥に話しかけ、草花の香りをまといながら、少女は森の一部のように育っていきました。


ある日、森から、熊の親子がやってきました。


あのとき、少女の産声を聞いていた母熊と、そのあとに生まれた小さな子熊でした。


少女は、怖がりませんでした。


子熊も、怖がりませんでした。


少女が首をかしげると、子熊も首をかしげました。


少女が笑うと、子熊はうれしそうに鼻を動かしました。


ふたりは、すぐに仲良くなりました。


それから熊の親子は、ときどき、姿を見せるようになりました。


少女は子熊を、小さな妹のようにかわいがりました。


子熊もまた、少女のあとをついて歩きました。


ふたりは、まるで本当の姉妹のようでした。


少女の両親も、その様子をそっと、あたたかく見守っていました。


森と人とのあいだに、やさしい時間が流れていました。


けれど、ある年の秋のことです。


雲母という大学教授が、研究室の学生たちを連れて、民宿を訪れるようになりました。


雲母は、白神山地のブナ林を対象に、森林の更新過程と水循環、野生動物の生息環境との関わりを研究していました。

森へ入ると、熱心に記録を取り、学生たちにも丁寧に教えました。


何度も民宿を訪れ、少女の母親のやさしさに触れるうちに、


大学でのしがらみ、重圧や緊張がほぐれていきました。


あたたかな食事。


穏やかな笑顔。


森に抱かれた、静かな暮らし。


雲母は、そのすべてに心をひかれていきました。


そして、いつしか少女の母親にも、特別な思いを抱くようになりました。


少女の母親は、いつもと変わらず、穏やかに、丁寧に接していただけでした。


けれど雲母は、そのやさしさを、自分だけに向けられた特別なものだと思うようになりました。


しだいに、研究とは関係のない言葉を、何度もかけるようになりました。


少女の母親は、そのたびに困ったように笑い、そっと話を終わらせました。


その様子を、


母熊は、森の奥から静かに見ていました。


ある日のことです。


少女の母親は、山菜を採るため、ひとりで森へ入りました。


やわらかな木漏れ日の差す、静かな山道でした。


そのあとを、雲母がついてきました。


ふたりきりの山道でした。


雲母は、少女の母親に、何度も思いを伝えました。


母親は困り、足を止めました。


「もう、やめてください」


母親は、静かに言いました。


けれど雲母は、母親の手首に触れました。


「離してください」


母親は、もう一度言いました。


それでも雲母は、すぐには手を離しませんでした。


母親は雲母から離れようと、強く手を引きました。


そのはずみで足を滑らせ、地面に倒れてしまいました。


雲母は驚き、


「大丈夫ですか」


と言って、手を差し伸べました。


そのときでした。


木々の間から、大きな熊が現れました。


あの母熊でした。


雲母は驚き、その場に立ちすくみました。


母熊は、少女の母親を守りたかっただけでした。


雲母を傷つけようとしたわけではありません。


ただ、ふたりのあいだに、大きな体をそっと進めたのでした。


そのすきに、少女の母親は立ち上がり、民宿へ向かって走りました。


森の中には、母熊と雲母だけが残りました。


そのあと、ふたりのあいだに何があったのか、見ていた人はいません。


しばらくして、雲母は山の中で亡くなっているところを見つかりました。


そばには、熊の足跡が残されていました。


雲母は、ただ、森を愛する、研究熱心な人でした。


けれど、少女の母親のやさしさを、自分への思いだと思い込んでしまいました。


少女の母親は、誰かを傷つけようとしたのではありません。


いつものように、親切に、静かに暮らしていただけでした。


母熊も、少女の母親が困っていることに気づき、守ろうとしただけでした。


だれも、このような結末を望んではいませんでした。


ただ、ひとりの思い込みと、ひとりの戸惑いと、誰かを守りたい気持ちが重なり、悲しい出来事が起きてしまったのです。


それから、まもなくのことでした。


山のふもとの村に、ひとつの知らせが届きました。


「人殺しの熊がいる」


猟銃を持った人間たちが、母熊を探すため、森を歩き回りました。


森のなかに人間たちの声が響くようになりました。


森の静けさは、いっぺんに変わってしまいました。


母熊は子熊を連れて、森の奥へと姿を消しました。


誰にも見つからないように。


誰にも気づかれないように。


森の空気に紛れるように過ごしました。


少女と家族は、熊の親子の無事を祈りました。


どうか、誰にも見つかりませんように。


どうか、森の奥で、穏やかに生きていますように。


月がのぼる夜には、窓の外へ向かって、そっと手を合わせました。


「どうか、元気でいますように」


大切な命を守るための、やさしい祈りでした。


その祈りは、森の奥へ、そっとしまわれました。


熊の親子は、今も生きています。


誰にも見つからない森の奥で。


守りたいものをそっと胸に抱きながら。


静かに、静かに、生きています。


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