くまの声
くまの声
紅葉の季節、白神の山は、静かに色づいていました。
赤い葉。
黄色い葉。
まだ緑を残している葉。
ひとつひとつ違う色が寄り添い、森をやさしい光で包んでいました。
風が、少し冷たかったあの日。
わたしはひさしぶりに、夕日の木漏れ日の中を歩き、山を下りていました。
あの子に、会いたくて。
お庭を小さな裸足で走っていた、あの子。
わたしの子どもと、姉妹のようだった、あの子。
わたしの子どもは、もう大きくなりました。
ひとりで自分の道を歩いています。
ときどき思い出します。
あの子のかわいい笑い声。
わたしたちを怖がらず、追いかけず、ただ静かに見つめてくれたこと。
民宿の庭先に、あの子は立っていました。
風が、わたしたちの間を通り抜けました。
わたしは、ゆっくりと近づきました。
あの子も、一歩ずつ、こちらへ来ました。
しばらく見つめ合いました。
あの子は、三日月のような目で微笑み、静かにうなずきました。
おかえり。
そう聞こえた気がしました。
わたしも、鼻先を上げました。
ただいま。
心の声は、きっと届いたと思います。
その日、わたしは一度、山へ戻りました。
そして翌朝、もう一度、あの子に会いに行きました。
まだ森が目覚める前の、霧の深い朝でした。
窓辺に、あの子がいました。
母親に髪をとかしてもらっていました。
昔と変わらない、やさしい空気でした。
わたしは、木々の間から、そっと見つめていました。
気配に気づいたあの子が、外へ出てきました。
急がず、騒がず、静かに。
わたしは、伝えたかったのです。
わたしたちは、今も元気に生きています。
追いかけないでいてくれて、ありがとう。
誰にも言わずにいてくれて、ありがとう。
ありのままでいさせてくれて、ありがとう。
あの子は、そっと手を伸ばして、
わたしも、鼻先を近づけました。
静かに心を交わしました。
それは、とてもやさしく、穏やかなひとときでした。
わたしたちは、本当は、人間を傷つけたいわけではありません。
木の実を食べ、沢の水を飲み、冬が来たら眠る。
春になったら目を覚まし、また森を歩く。
ただ、静かに生きたいだけなのです。
けれど、森には人間の道が増えました。
人間の気配が、森の奥まで届くようになりました。
人間は、熊が里へ下りてきたと言います。
けれど、ときどき思うのです。
わたしたちが近づいたのでしょうか。
それとも、人間の暮らしが、わたしたちの森へ近づいてきたのでしょうか。
わたしは、今も生きています。
誰にも見つからない場所で。
あの子の笑顔を思いながら。
いつか、息をひそめなくてもよい森になることを願いながら。
これからも、ここで生きていきます。
風とともに。
木々とともに。
静かな森で。




