第四章 紅葉の森、ふたつの再会
第四章 紅葉の森、ふたつの再会
秋、エマは再び白神山地を訪れた。
ブナの森は、初夏に見た姿とはまるで違っていた。
木々の葉は黄金色や琥珀色に染まり、ところどころに赤や橙が混じっている。
陽の光が差し込むたび、山全体が内側から光を放っているように見えた。
足元には落ち葉が幾重にも重なり、森の道を柔らかく覆っていた。
エマが歩くたび、乾いた葉が小さな音を立てる。
初夏には鳥の声や沢の音に満ちていた森が、今は冬を迎える準備を始めている。
音が少ないぶん、風の動きがよく分かった。
枝が揺れる音。
葉が落ちる音。
遠くで、何かが土を踏む音。
森は眠りにつく前に、ひとつずつ記憶をしまっているようだった。
エマは、しばらく足を止めた。
目の前に広がる景色を、言葉にすることができなかった。
ただ、そこに立っていた。
民宿に着いたのは、午後3時を少し回った頃だった。
庭の景色も、初夏とはすっかり変わっていた。
ルピナスやシャクヤクは姿を消し、花壇にはホトトギスが咲いている。
斑点のある花びらが、冷たい風に揺れていた。
家庭菜園では、夏野菜に代わって、大根や里芋、人参が育っていた。
土から少しだけ顔を出している人参は、東京の店で見るものより色が濃い。
朱色に近い赤が、陽の光を受けると、朝焼けのような橙色に変わった。
土の匂いがした。
どこか懐かしい匂いだった。
秋に衣替えをした庭の中で、変わらないものが一つだけあった。
門のそばに立つ木の看板。
「農家民宿くまの森」
手書きの文字が、初夏に訪れたときと同じ温かさで、エマを迎えていた。
エマは、母の旧姓である「響」という名前で宿を予約していた。
雲母の娘だと知られないほうが、都合がよいと思ったからだった。
父の名前を出せば、夫婦は警戒するかもしれない。
あの日、父に何が起きたのかを知る前に、この家の空気をもう一度感じてみたかった。
玄関の扉を開けたのは、初夏にも会った女性だった。
生成りの毛糸で編まれたワンピースを着ていた。
袖口には、小さな野花が刺繍されている。
季節は変わっても、森の中から現れた人のような佇まいは変わらなかった。
女性はエマの顔を見ると、三日月のように目を細めた。
「またお会いできて、うれしいです」
覚えていてくれた。
そのことに、エマの胸が少し温かくなった。
「予約していました、響です」
「響様ですね。お待ちしていました」
女性は、何も疑う様子を見せず、エマを中へ招き入れた。
リビングには、薪を燃やす匂いが漂っていた。
初夏に揺れていたレースのカーテンは、少し厚手の布に替えられている。
棚には、乾燥させたハーブや木の実が、ガラス瓶に入れて並べられていた。
チェックインを済ませると、女性がハーブティーをいれてくれた。
「今日は、レモンバーベナとリンデンです。秋の空気に合う、少し甘い香りがするんですよ」
カップから立ちのぼる湯気に、柔らかな香りが混じっている。
エマがひと口飲むと、冷えていた体が内側からゆっくりほどけていった。
そのとき、玄関の扉が開いた。
男性が、大きな米袋を抱えて入ってきた。
初夏にも会った、女性の夫だった。
「響さんが到着されましたよ」
女性が声をかけると、男性はエマの顔を見て笑った。
「おかえりなさい」
初めて宿泊する客に向けた言葉にしては、少し不思議だった。
けれど、その響きは、エマの胸にすんなりと入ってきた。
「ただいま……で、いいのでしょうか」
エマが答えると、男性は声を上げて笑った。
「もちろんです。一度来てくださった方は、みんな、くまの森のお客様ですから」
男性は抱えていた袋を床へ下ろした。
「さっき精米してきたばかりの新米です。今夜の夕食に出しますよ」
「今年の合鴨米は、よくできたんです」
女性もうれしそうに言った。
「楽しみです」
エマは自然に笑っていた。
この家に来るまでは、父の秘密を探ることばかり考えていた。
けれど今は、湯気の立つハーブティーと新米の話をしている。
外の風は冷たかったが、部屋の空気は温かかった。
夕暮れが近づくにつれ、森の色は深くなっていった。
エマは、カップを手に縁側へ出た。
民宿の裏手に広がるブナ林では、葉がひとひらずつ舞い落ちている。
落ち葉が地面に触れる音は、小さな足音のようだった。
そのとき、庭の奥に人影が見えた。
少女だった。
初夏に花壇の前で見かけた少女が、ブナの木の根元に立っている。
生成りのワンピースを着ていた。
長い髪が、風に揺れている。
少女の少し先に、黒い影があった。
エマは目を凝らした。
熊だった。
大きなツキノワグマが、木々の間に立っていた。
少女と熊は、互いに動かなかった。
声も聞こえない。
ただ、少女は熊を見つめ、熊も少女を見つめている。
エマは、息を止めた。
逃げなければならない。
家の人を呼ばなければならない。
頭では分かっているのに、体が動かなかった。
二つの存在の間には、恐怖とも緊張とも違うものが流れていた。
少女が、胸の前で両手を重ねた。
熊の鼻先が、わずかに動いた。
風が吹き、少女の髪と熊の毛を同時に揺らした。
次の瞬間、熊は森の奥へ顔を向けた。
ゆっくりと体の向きを変え、木々の間へ入っていった。
黒い背中は、紅葉の向こうへ溶けるように見えなくなった。
少女は、しばらくその場に立っていた。
やがて民宿のほうを振り返った。
エマと目が合った。
少女は驚かなかった。
初夏に見たときと同じように、まっすぐにエマを見た。
それから、ほんの少しだけ頭を下げた。
夕食の食卓には、山と畑の恵みが並んでいた。
炊きたての新米。
里芋の煮ころがし。
大根と人参の味噌汁。
きのこの天ぷら。
青菜のおひたし。
柿と胡桃の白和え。
「ほとんどが、ここで採れたものです」
女性が言った。
エマは、まず白いご飯をひと口食べた。
米の粒が、口の中で柔らかくほどけた。
噛むほどに甘みが広がっていく。
「こんなにおいしいお米、初めて食べました」
夫婦が顔を見合わせ、うれしそうに笑った。
「昼間は合鴨たちが田んぼで働いてくれますからね」
男性が言った。
「農薬をできるだけ使わずに済みますし、田んぼの中を動くことで、稲にもいい刺激になるんです」
エマは、夕暮れに見た熊を思い出した。
「今年は、熊が畑へ来ることはありませんでしたか?」
男性は箸を置いた。
「今年は、ブナの実が比較的多い年でした。森の中に食べ物があれば、熊が人里へ降りる必要は少なくなります」
「森が豊かなら、人と熊の距離を保ちやすいということですか」
「ええ。ただ、自然のことですから、絶対とは言えません。熊にも、それぞれの事情があります」
女性が、ほうじ茶を注ぎながら言った。
「人と同じですよ。お腹が空いているときもあれば、子どもを守っているときもある。怖い思いをした熊もいます」
「だから、熊は怖くない、と決めつけてもいけないし、すべての熊を危険だと決めつけてもいけない」
男性が続けた。
「姿を見かけたら距離を取る。それが、熊のためでも、人のためでもあります」
エマは頷いた。
少女と熊の間にあった距離を思い出した。
近づきすぎず、離れすぎず。
互いの存在を、確かめるための距離。
「先ほど、庭の奥に熊がいました」
エマが言うと、夫婦の手が止まった。
「娘さんも、そばにいました」
女性は、少女のほうを見た。
少女は黙ったまま、ご飯を食べていた。
叱られることを恐れている様子はなかった。
男性が尋ねた。
「どのくらい離れていましたか?」
「かなり距離はありました。熊は、しばらくしたら森へ戻っていきました」
「そうですか」
男性は、少しだけ息を吐いた。
「熊が近くにいるときは、外へ出ないでくださいね。娘にも、いつも言っているんですが」
少女は箸を置いた。
「ごめんなさい」
初めて聞く少女の声だった。
柔らかいが、よく通る声だった。
「でも、今日は来ると思ってたの」
「どうして?」
女性が尋ねた。
少女は窓の外を見た。
「風が、朝から違ってたから」
夫婦は、それ以上何も言わなかった。
エマにも、その言葉の意味は分からなかった。
けれど、分からないまま受け止めてもよいような気がした。
その夜、布団に入ってからも、エマは少女と熊のことを考えていた。
月明かりが、障子を淡く照らしている。
森の奥から、フクロウの声が聞こえた。
落ち葉を踏む音もする。
夜行性の動物たちが、森の中を動き始めているのだろう。
少女は、熊が来ることを知っていた。
風が違っていたから。
科学者であるエマには、それだけで納得することはできなかった。
風向き。
匂い。
鳥の鳴き方。
動物の足跡。
少女は、そうした小さな変化を無意識に読み取っているのかもしれない。
熊と話すというのは、言葉を交わすことではないのではないか。
相手の気配を感じること。
人間の都合で意味を決めつけず、ただ、そこにいるものの声を聞くこと。
エマは、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、誰かが森の中から自分を見ているような気がした。
恐ろしさはなかった。
遠くから見守られているような感覚だった。
翌朝、エマは目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
部屋の中に、味噌と出汁の匂いが漂っている。
カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいた。
外は、まだ霧に包まれている。
エマは上着を羽織り、縁側へ出た。
冷たい空気が頬に触れた。
庭の奥に、少女がいた。
昨日と同じブナの木のそばに立っている。
そして、熊もいた。
霧の中に、大きな黒い体が浮かび上がっていた。
昨日よりも、少女との距離が近い。
エマの胸が高鳴った。
少女の唇が動いている。
声は届かなかった。
けれど、何かを語りかけている。
熊は、少女から目を離さなかった。
ときどき鼻先を動かし、空気の匂いを確かめている。
少女が一歩近づいた。
熊は逃げなかった。
少女が手を伸ばした。
小さな指先が、熊の鼻先に触れた。
その瞬間、風が止まった。
木々の間を覆っていた霧が、少しずつ薄くなっていく。
朝の光が差し込み、少女と熊の姿を照らした。
熊は、しばらく少女を見つめていた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
熊の目が、エマのいる縁側へ向いた。
エマは動けなかった。
遠く離れている。
それでも、確かに目が合ったように感じた。
熊はエマを見ていた。
敵意は感じなかった。
けれど、親しみとも違う。
何かを確かめるような目だった。
やがて熊は少女から離れ、森の奥へ歩き始めた。
少女は、その背中を見送った。
黒い姿が霧の中へ消えても、少女はその場を動かなかった。
エマも、声をかけることができなかった。
朝食の食卓では、少女も料理を運んでいた。
生成りのワンピースの袖口に、小さな野花が刺繍されている。
霧の中で熊と向き合っていた少女と、味噌汁の椀を運ぶ少女が、同じ人物だとは思えなかった。
「熱いので、気をつけてください」
少女が味噌汁を置いた。
「ありがとう」
エマの声は、少し上ずった。
少女は、母親とよく似た三日月の目で笑った。
その笑顔は、年相応の子どものものだった。
食卓には、なめこと豆腐の味噌汁、自家製の納豆、新米のご飯、産みたての卵で作った目玉焼き、青菜のおひたしが並んだ。
エマは白湯をひと口飲んでから、少女に尋ねた。
「今朝、熊とお話ししていたの?」
少女は、少し考えた。
「お話ししてたというより、聞いてたの」
「熊の声を?」
「声だけじゃないよ」
少女は答えた。
「目とか、匂いとか、歩き方とか。風が運んでくるものを、聞くの」
「私には、熊が何も話していないように見えた」
「人間の言葉では、話さないから」
少女は、当たり前のことを説明するように言った。
「今朝の熊は、何を伝えていたの?」
少女は、窓の外へ目を向けた。
「会いに来たよって」
「あなたに?」
「うん」
少女は頷いた。
「ずっと前に会った熊なの?」
「小さい頃から知ってる」
それ以上は、少女も夫婦も語らなかった。
エマは、熊の目を思い出した。
自分のことも見ていた。
そう感じたのは、思い込みだろうか。
少女が、再びエマを見た。
「熊は、響さんのことも見てたよ」
エマの手が止まった。
「私を?」
「知ってる匂いがするって」
食卓から、音が消えた。
夫婦が顔を上げた。
エマの胸が、強く鳴った。
「誰の匂い?」
少女は答えなかった。
ただ、エマの顔をまっすぐに見ていた。
エマは、もう偽名を使い続けることができなかった。
箸を置いた。
「ごめんなさい」
夫婦と少女が、エマを見た。
「響というのは、母の旧姓です。私の本当の名字は、雲母です」
女性の表情は変わらなかった。
男性も、驚かなかった。
エマは、その反応を見て気づいた。
「ご存じだったんですか?」
女性が、ゆっくりと頷いた。
「初めていらしたときから、もしかしたら、と思っていました」
「父に似ていますか?」
「目元が、少し」
エマは俯いた。
「父が、こちらに何度も来ていたことを聞きました。そして、この山で熊に襲われて亡くなったことも」
女性は、両手で湯呑みを包んだ。
「父に何があったのか、知りたくて来ました」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
男性が口を開いた。
「雲母先生は、森を熱心に調べていました。学生さんたちにも、丁寧に教えていました」
「ただ、この森を研究の対象として見るだけではなく、心から好きだったと思います」
女性が続けた。
「森に来ると、先生は、大学にいるときとは違う顔をしていました」
「父は、あなたにも惹かれていたと聞きました」
エマが言うと、女性は目を伏せた。
男性は、妻の横顔を見た。
けれど、責めるような表情は浮かべなかった。
女性は、しばらく考えてから答えた。
「雲母先生が、私に特別な気持ちを持っていたことは、分かっていました」
エマは息を止めた。
「でも、それは先生の気持ちです」
女性は、顔を上げた。
「私の気持ちではありません」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉には、はっきりとした境界があった。
「先生は、この家の温かさや森の静けさを求めていたのだと思います。でも、求めることと、相手が受け入れることは、同じではありません」
エマは、ユーコンの夜を思い出した。
越えていい境界だと、思うな。
自分が男へ向けて放った言葉が、胸の中へ戻ってきた。
父もまた、誰かの境界を越えようとしたのだろうか。
「父が亡くなった日、何があったのですか?」
女性の指が、湯呑みの上で止まった。
男性が、そっと妻の手に自分の手を重ねた。
「私たちが知っていることと、分からないことがあります」
女性は答えた。
「あの日、私は山へ入りました。先生も、あとから来ました」
「熊に会ったのですか?」
「熊の姿を見ました」
女性は、それ以上をすぐには話さなかった。
少女が、母親の袖に触れた。
女性は娘の手を包んだ。
「あの日のことを、全部言葉にするのは、まだ難しいんです」
エマは、問いを重ねることができなかった。
真実を知りたい。
けれど、そのために、目の前の女性へ無理に踏み込んではいけない。
近づくことだけが理解ではない。
ユーコンの学会で、自分が語った言葉だった。
「分かりました」
エマは言った。
「今、話してくださったことだけで十分です」
少女が、エマを見た。
「森は、忘れないよ」
「え?」
「人が忘れても、森は覚えてる」
少女は味噌汁をひと口飲んだ。
それ以上、何も言わなかった。
帰る時間になった。
夫婦と少女が、玄関の前まで見送ってくれた。
「また、いらしてください」
女性が言った。
エマは頷いた。
「今度は、本当の名前で予約します」
女性の目が三日月になった。
「お待ちしています」
エマは少女の前にしゃがんだ。
「熊に、また会えると思う?」
少女は、森のほうを見た。
「会おうとしなければ、会えるかもしれない」
「難しいね」
「追いかけると、逃げるから」
少女は笑った。
それは熊だけの話ではないように思えた。
エマは立ち上がり、森へ目を向けた。
ブナの木々の間に、一つの影があった。
ニホンカモシカだった。
灰色の毛並みが、紅葉の中に浮かんでいる。
カモシカは、逃げることも、近づくこともなく、まっすぐにエマを見ていた。
エマは、何も言わず頭を下げた。
カモシカも、ほんの少し首を動かしたように見えた。
エマは歩き始めた。
背中に、森の気配がついてくる。
振り返らなかった。
東京へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。
車窓の向こうに、ライトアップされた東京タワーが浮かんでいる。
高層ビルの窓には、無数の光が灯っていた。
白神の森で見た月明かりとは、まるで違う光だった。
静けさではなく、速度を持った光。
物の輪郭をはっきりと照らす、人工の明るさ。
家に着くと、母がキッチンで紅茶をいれていた。
エマは荷物を床へ置き、しばらく何も言わずに立っていた。
「白神、どうだった?」
母が、湯気の向こうから尋ねた。
「きれいだった」
「それだけ?」
「熊を見た」
母の手が止まった。
「女の子が、熊と話してた」
「本当に?」
「本人は、話すんじゃなくて、聞いてるんだって」
母は紅茶をテーブルへ置いた。
エマは椅子に座った。
「お父さんが、どうしてあの森へ何度も行ったのか、少し分かった気がする」
「そう」
「あの家には、お父さんが自分の家では得られなかったものがあったんだと思う」
母は黙って紅茶を飲んだ。
「家族がいて、温かい食事があって、言葉にしなくても通じ合っている夫婦がいた」
「それで、あの人は、自分もそこに入れると思ったのね」
母の声には、わずかな苦みがあった。
「お母さん、知ってたの?」
「何を?」
「お父さんが、民宿の女性に惹かれていたこと」
母は、しばらくカップの中を見つめていた。
「知ってたわよ」
「どうして何も言わなかったの?」
「何か言えば、あの人が変わったと思う?」
エマは答えられなかった。
「大学教授の妻って、そういう役割だと思い込んでいたの。黙って、笑って、夫を支える。外で何があっても、家の中では気づかないふりをする」
母は、小さく息を吐いた。
「でもね」
母は、エマを見た。
「あの女性も、お父さんに惹かれていたとは限らないでしょう」
「うん」
エマは頷いた。
「彼女も同じことを言ってた。父の気持ちと、自分の気持ちは違うって」
「そう」
母は目を閉じた。
悲しんでいるようにも、安心しているようにも見えた。
「お父さんは、自分が求めれば相手も応えてくれると思っていたのかもしれない」
「自分の気持ちが強ければ、境界を越えてもいいって」
母は、何も言わなかった。
エマは、白神の朝を思い出した。
少女の指先に触れた熊の鼻。
エマを見つめていた目。
「熊がね、私のことを見てた」
「怖くなかった?」
「怖かった。でも、それだけじゃなかった」
「何かを伝えようとしてたの?」
「分からない」
エマは紅茶をひと口飲んだ。
「でも、あの子は、熊が私の匂いを知っていると言ってた」
母が顔を上げた。
「お父さんの匂い?」
「たぶん」
窓の外には、東京の夜が広がっていた。
遠くで車の音がする。
白神の森とは違い、街は眠る気配を見せない。
それでも、エマの中には、あの森の静けさが残っていた。
少女の言葉。
人が忘れても、森は覚えている。
父の死。
母が口にしなかった時間。
民宿の女性が言葉にできずにいる記憶。
そして、熊の目。
すべてが、森のどこかに残されている。
「もう一度、行くの?」
母が尋ねた。
エマは少し考えた。
「すぐには行かない」
「どうして?」
「追いかけると、逃げるから」
母は不思議そうにエマを見た。
やがて、ふっと笑った。
「少し、森の人みたいになって帰ってきたわね」
「それ、褒めてる?」
「もちろん」
母の首元には、ユーコンで買ってきたスカーフが巻かれていた。
銀色のアスペンの葉が、部屋の明かりを受けて揺れている。
エマは窓の外を見た。
東京の空に、細い月が浮かんでいた。
あの月は、白神の森も照らしている。
そして今夜も、森のどこかで、熊が生きている。




