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くまの森  作者: 海月繭


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第三章 母の奏でるリリック、ユーコンの星

第三章 母の奏でるリリック、ユーコンの星


「仮面家族」という言葉が、ひと昔前に流行った。


まさしく、うちはそれだった。


家族という名の舞台に、父も、母も、エマも、それぞれ仮面をつけて立っていた。


外から見れば、父は世界を飛び回る著名な研究者で、母はその夫を支える良妻賢母。

娘のエマも父と同じ研究の道へ進み、傍から見れば申し分のない学者一家に見えたことだろう。


けれど、家の中では、誰も本当のことを口にしなかった。


父が亡くなった直後、母は弔問客の前で、教授の妻らしく振る舞っていた。


背筋を伸ばし、静かに頭を下げ、夫を失った妻にふさわしい表情で、訪れる人々の言葉を受け止めていた。


エマには、それが演技に見えた。


父の死から5年が過ぎた今、母は「教授夫人」という仮面を完全に脱ぎ捨てていた。


窮屈な籠から放たれ、大空へ羽ばたいていく鳥のようだった。


月曜日は、即興演劇のワークショップ。


火曜日は、スパイス調合とインド哲学の講座。


水曜日は、ジャズボーカルのレッスン。


木曜日は、昼に古代文字の写経、夜はヒップホップダンス。


金曜日は、アフリカンドラム。


土曜日は、路上詩人の集い。


日曜日は、近所の公園で太極拳と気功を組み合わせた体操。


母のスケジュール帳は、市民講座の案内冊子というより、自由を手に入れた女の冒険地図のようだった。


静かに古代文字を書き写した数時間後には、キャップをかぶり、鏡張りのスタジオで音楽に合わせて踊っている。


その振り幅の大きさこそ、今の母らしさなのかもしれない。


大学教授の妻として、長い間かぶり続けてきた良妻賢母の仮面。


それを外した途端、母の中で眠っていたものが、いっせいに目を覚ましたのだろう。


抑え込まれていた創造力なのか。


長年の沈黙に対する反動なのか。


あるいは、残りの人生を自分のために生きようとする、遅れてきた決意なのか。


母がヒップホップダンスを習い始めたときは、さすがのエマも驚いた。


最初は、健康のために体を動かしたいだけなのだと思っていた。


ところが母は、レッスンで覚えたステップだけでなく、ヒップホップの文化や歴史にまで興味を持ち始めた。


今では、リビングで突然、ラップバトルを仕掛けてくる。


「Yo、エマ。研究ばっかで今日も深夜。あんたもそろそろ、自立しな」


「お母さん、それ、韻を踏めてないから」


「踏んでるのよ。人生の段差を!」


母は得意げに胸を張った。


「お父さんの仏壇の前で、ラップってどうなの」


「いいのよ。あの人、生きてるときから、人の話を聞くだけで何も答えなかったんだから」


母は父への不満を、今になって韻に乗せ、軽やかに吐き出していた。


言葉にしないまま胸の中へ押し込んできたものを、一つずつ外へ放り出しているようにも見えた。


エマは笑いながら、父の仏壇に手を合わせた。


「お父さん、お母さんは元気だよ。ちょっと暴走してるけど」


線香の煙が、ゆらゆらと揺れている。


その動きまで、母の刻むビートに合わせて踊っているようだった。


ある日、母が言った。


「エマ、ラップってね、祈りなのよ」


「祈り?」


「言葉にリズムを乗せて、自分の中にあるものを届けるの。誰かに、空に、土に。面と向かって言えなかったことも、音に乗せれば届くでしょう」


「お父さんにも?」


「もちろん。あの人、はっきり言葉にしないと、何にも気づかない人だったから」


母はそう言って、仏壇の方を見た。


その横顔に、怒りはなかった。


許したわけでも、忘れたわけでもない。

ただ、父に縛られていた時間から、少しずつ自由になろうとしているように見えた。


母は軽く膝を曲げ、ヒップホップダンスのレッスンで覚えたらしい動きで、左右に体を揺らした。


「人生は即興。間違えても続行。立ち止まっても、また進行」


「それは、少し韻を踏めてる」


「でしょう?」


母は満足そうに笑った。


仮面家族だった。


けれど今、母は仮面を外した顔で笑っている。


滑稽で、たくましくて、どこか愛おしい。


母はようやく、自分のリズムで生き始めたのだ。


9月の終わり、エマはカナダのユーコン準州へ向かった。


ホワイトホース郊外で開かれる国際環境学会に出席するためだった。


今回のテーマは、


「境界の森――野生動物と人間の共存」


会場は、森の中に建つロッジを改装した小さなホールだった。


窓の外には針葉樹が並び、遠くの尾根には薄い霧がかかっている。空気は乾いていて、風が吹くたび、アスペンの葉が細かく震えた。


初日の午後、地元の先住民コミュニティから招かれた長老が登壇した。


長老は、濃紺のシャツの上に手織りのストールを掛けていた。


話し始めると、会場の空気が変わった。


ゆっくりとした英語だった。


一つひとつの言葉を、遠い記憶の中から取り出しているような話し方だった。


「私が子どもの頃、祖父は、森へ入る前に必ず足を止めました」


長老は言った。


「そして、森に向かって、自分が来たことを告げました。熊に対しても、鳥に対しても、木々に対してもです」


会場の研究者たちは、身じろぎもせず聞いていた。


「祖父は、熊を森の番人と呼んでいました。熊は雪の匂いを嗅ぎ、風の変化を読み、人間よりも早く季節の移ろいを知る。だから、熊の動きを見れば、森に何が起きているのかが分かるのだ、と」


長老は、窓の外へ目を向けた。


「森へ入るとき、私たちは客です。そこが自分たちの土地だと思い込んだ瞬間、森の声は聞こえなくなる。恐れるだけでも、支配しようとしてもいけない。まず、そこに暮らすものへ敬意を払うことです」


熊は、森の声を聞いている。


その言葉が、エマの中に残った。


白神山地で見た少女の姿が浮かんだ。


花壇の前にしゃがみ、森と同じ呼吸をしていた少女。


エマと目が合っても、驚くことなく、まっすぐに見返してきた。


民宿の夫婦は、互いの場所を守ることが大切なのだと話していた。


怖がりすぎず、近づきすぎず。


熊にも、森にも、人間にも、越えてはいけない境界がある。


学会の合間、エマはロッジの裏手をひとりで歩いた。


澄んだ空の下に、細い木々の影が伸びている。


そのうちの一本に、爪で引っかいたような跡が残っていた。


古い傷だった。


樹皮が深く削られ、幹の色が変わっている。


熊の爪痕かもしれない。


木は、アスペンと呼ばれるヤマナラシの仲間だった。


白神山地のブナとは違う。


けれど、細い葉が風に震える姿には、どこか通じるものがあった。


エマは手袋を外し、傷跡に触れた。


冷たい樹皮の奥に、長い時間が閉じ込められているようだった。


熊がここを通ったこと。


爪を立てたこと。


傷つけられても、木がその場所で生き続けていること。


傷跡は、消えてはいない。


けれど、その傷も含めて、木は成長していた。


その夜、懇親会でワインを飲んだエマは、酔いを覚ますためにロッジの外へ出た。


空には、数えきれないほどの星が浮かんでいた。


東京では見ることのできない密度だった。


針葉樹の黒い影の上に、光の粒が隙間なく広がっている。


空そのものが、星で織られた布のようだった。


エマは、しばらく立ち尽くした。


あの光は、何千年、何万年という時間をかけて、ここまで届いたものかもしれない。


100年も生きられない人間が、この長い地球の歴史の中で、何を変えることができるのだろう。


研究を続け、言葉を重ねることで、本当に何かを守れるのだろうか。


それでも、人は語らずにはいられない。


言葉を持ってしまった生き物の、宿命なのかもしれない。


背後で、砂利を踏む音がした。


振り返ると、父の元同僚の男が立っていた。


ベネチアで一夜を共にした男だった。


男はワイングラスを片手に、エマの隣へ並んだ。


「すごい星だね」


「ええ」


「人間が争っている間も、ずっとこうして光ってる」


男は空を見上げた。


「温暖化も、戦争も、資源の奪い合いも、結局は全部、人間の都合だ。地球が悲鳴を上げているのに、僕たちはそれを制御しようとする。まるで、自分たちが神様みたいに」


「神様じゃないからこそ、守ろうとするのかもしれない」


エマは答えた。


「全部は無理でも、自分の手が届く範囲だけは」


男は少し笑った。


「ちっぽけで、面倒で、でも愛しい。それが人間なのかな」


彼はワイングラスをエマへ差し出した。


エマは首を横に振った。


男は自分でひと口飲み、また星空を見上げた。


「僕たちは、これからどうあるべきなんだろうね」


その問いは、夜空へ投げかけられたように響いた。


エマは答えなかった。


そのとき、夜空を横切るように、ひとすじの流れ星が走った。


白い光が、空の端から端まで長い弧を描いた。


あまりにも大きく、あまりにも鮮やかで、二人とも息をのんだ。


言葉を持たない星が、男の問いに答えたようだった。


あるいは、


聞こえていますよ。


そう、地球が光で返事をしたようにも見えた。


男が、エマの肩へ腕を回した。


「ベネチア以来だね」


エマの体が硬くなった。


男は、その変化に気づかないまま、耳元で囁いた。


「今夜、どう?」


さっきまで空を満たしていたものが、急速に遠ざかっていった。


森。


地球。


人間の未来。


そんな大きなものを語った直後に、この男は、また同じように境界を越えようとしている。


エマは、男の腕を振り払った。


「やめて」


男が驚いた顔をした。


エマは一歩離れた。


胸の奥から、言葉が湧き上がってきた。


母の声が聞こえたような気がした。


ラップは、祈りなのよ。


面と向かって言えなかったことも、音に乗せれば届くでしょう。


エマは、砂利を踏んでリズムを取った。


「星に酔っても、私に酔うな


都合のいい夜を、もう選ばない


妻に隠れて、未来を語るな


越えていい境界だと、思うな


あなたと私の関係は終了


連絡先も、今夜で削除


私は私の道へ戻る


あなたは、あなたの場所へ戻る」


男は、何も言わなかった。


エマの声だけが、森の中へ響いた。


怒鳴ってはいなかった。


それでも、一つひとつの言葉には、これまで曖昧にしてきた時間を断ち切る力があった。


エマは、最後に男を見た。


「これで終わりにします」


男はしばらく黙ったあと、小さく頷いた。


「分かった」


「奥さんにも、自分にも、きちんと向き合って」


男は目を伏せた。


エマは背を向け、ロッジへ向かった。


振り返らなかった。


頭上では、先ほどの流れ星が残した光の余韻が、まだ夜空のどこかに漂っているような気がした。


翌朝、エマは目覚ましが鳴る前に目を覚ました。


胸の中が、驚くほど軽かった。


カーテンを開けると、朝の光が部屋へ差し込んだ。


窓を開ける。


冷たい空気が頬に触れた。


何かを失ったというより、自分の中にあった場所を取り戻したような感覚だった。


父のような人間にはなりたくないと思いながら、父と似た関係を続けていた。


嫌悪していたものから、目を背けていた。


昨夜、ようやく、その境界を引くことができた。


エマは鏡に映る自分を見て、少し笑った。


鳥が肩にとまっても驚かないような、清々しい朝だった。


その日の発表は、驚くほど順調に進んだ。


エマは、日本で熊が人里へ近づいている背景と、白神山地で受け継がれてきた人と森との距離について話した。


「共存とは、同じ場所に混ざり合って暮らすことではありません」


エマは会場を見渡した。


「互いの存在を知り、それぞれの場所を守ることです。近づくことだけが理解ではありません。距離を置くことが、相手を守る場合もあります」


話しながら、エマは白神山地の少女を思い出していた。


森と同じ呼吸をしていた、小さな背中。


発表を終えると、会場から拍手が起こった。


その後、ひとりの女性研究者が声をかけてきた。


ノルウェーから参加している研究者だった。


淡いグレーのセーターの胸元には、アスペンの葉と熊の刺繍が施されていた。


「あなたの発表が、とても印象に残りました」


女性は言った。


「日本にも、熊と共に生きる森があるのですね」


「はい」


エマは頷いた。


「そこでは、熊も、人も、ひとりの少女も、それぞれの場所で、同じ森の空気を吸っています」


学会の最終日、エマはホワイトホースの小さな工房へ立ち寄った。


そこで、手織りのスカーフを一枚買った。


柔らかな灰色の布に、白と銀の糸で、アスペンの葉が刺繍されている。


母への土産だった。


エマが帰国したのは、秋晴れの午後だった。


玄関の扉を開けると、リビングから低いビートが聞こえてきた。


母の声が、リズムに乗って響いている。


「ユーコン帰りの娘よ、おかえり


土産があるなら、まずはお披露目


返事はラップで、言い訳はなし


母は留守中も、進化のさなか」


エマは、思わず笑った。


母は黒いキャップをかぶり、オーバーサイズのパーカーとスニーカーという格好で、リビングの中央に立っていた。


渋谷のスクランブル交差点さえ、自分のステージに変えてしまいそうな風格だった。


ヒップホップダンスを始めた頃は、鏡の前でぎこちなく腕を動かしていたのに、今では立っているだけで拍を刻んでいる。


エマは靴を脱ぎながら、母のリズムに合わせた。


「ユーコンの森から、愛を込めて


母への土産を、選び抜いて


アスペンの葉が、風に揺れて


母の首元、優しく包め


遠く離れて、気づいたこと


言葉にしなきゃ、届かないこと


母の教えを、胸に刻んだ


娘は少しだけ、殻を破った」


エマは鞄からスカーフを取り出し、母へ手渡した。


母は、しばらく黙ってそれを見つめた。


指先で、銀色の葉の刺繍をなぞる。


「きれいね」


母はスカーフを首に巻いた。


「似合う?」


「うん。ラッパーというより、森の語り部みたい」


「それ、褒めてるの?」


「もちろん」


母はエマの顔を見つめた。


いつもの冗談めいた表情が、少しだけ変わった。


「あんた、一皮むけたね」


「分かる?」


「分かるわよ。何年、母親やってると思ってるの」


エマは、母の隣に座った。


窓から秋の光が差し込んでいる。


「お母さんの言ってたこと、少し分かった」


「何が?」


「ラップは祈りだってこと」


母は何も尋ねず、ただ頷いた。


エマが誰に何を伝えたのか、おそらく想像している。


「言えたのね」


「うん。やっと」


母は、エマの肩を軽くたたいた。


「それなら、よかった」


しばらく、二人は並んで窓の外を眺めた。


母の首元で、銀色の葉が秋の光を受けていた。


「それで」


母が言った。


「白神山地には、もう一度行くんでしょう?」


エマは母の横顔を見た。


「どうして分かるの?」


「森のことを話すとき、あんたの声が変わるから」


エマは、白神山地で見た少女を思い出した。


少女は、まっすぐにエマを見ていた。


あの目が、何を伝えようとしていたのか。


父はなぜ、あの森へ何度も通ったのか。


そして、なぜ熊に襲われたのか。


まだ、何一つ分かっていない。


「うん。もう一度行く」


エマは答えた。


「今度は、あの民宿に泊まってみる」


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