第二章 くまの森の少女
第二章 くまの森の少女
エマは、青森県の白神山地にいた。
熊と話す少女が、この森にいるらしい。
世界自然遺産の森は、初夏の緑に覆われていた。
木々は深く、重なり合う葉が日の光を細かく砕いている。鳥の声も、沢を流れる水の音も、森の奥へ吸い込まれていくようだった。
歩いているうちに、エマは自分の輪郭まで薄くなっていくような感覚を覚えた。
その森の外れに、ぽつんと一軒の家が建っていた。
木造の古い家だった。軒先には山野草の鉢が並び、庭へ続く小道には、丸い石が敷かれている。
門のそばに立てられた木の看板には、手書きの文字で、
「農家民宿くまの森」
と書かれていた。
エマは、しばらくその文字を見つめた。
丁寧に筆を運んだ跡が残っている。宿泊客を招く看板というより、森の中にそっと掲げられた祈りのように見えた。
ここが、父の定宿だった。
父が何度も訪れ、そして、熊に襲われて命を落とした森。
エマは、ベネチアの夜に聞いた言葉を思い出した。
――雲母さんは、あの家の母親に、ずいぶん熱を上げていた。
目の前の家と、その言葉が、まだうまく結びつかなかった。
民宿の庭には、初夏の光が満ちていた。
花壇にはルピナスやシャクヤク、ヤマアジサイが咲き、庭の一角には家庭菜園が広がっている。
畝にはミズナ、サヤエンドウ、ラディッシュが並び、少し離れた場所では、トマトの苗が支柱に寄り添っていた。葉の間から、まだ青い実が覗いている。
野菜のそばには、ミントやレモンバームが植えられていた。
どの植物にも人の手が行き届き、それでいて、作り込まれすぎてはいなかった。人が自然を従わせるのではなく、自然の中に居場所を借りているような庭だった。
ブナの葉が風に揺れ、遠くで沢の音がした。
玄関の扉が開いた。
現れたのは、生成りの麻のワンピースを着た女性だった。
髪を後ろでゆるく束ね、首元には小さな木の実のペンダントを下げている。
エマは、思わず一歩下がった。
女性の姿があまりにもこの土地になじんでいて、森の中から人の姿を借りて現れたもののように見えたのだ。
「こんにちは」
エマが声をかけると、女性は少し目を細めた。
「こんにちは。宿泊のお客様ですか?」
「いえ……散策をしていたら、すてきな民宿が見えたので。お庭もきれいだったので、つい立ち寄ってしまいました」
エマは、自分が環境学者であることも、父の娘であることも伏せた。
まずは、この家を外から見てみたかった。
父の記憶を通さずに、ここに暮らす人たちを知りたかった。
「ありがとうございます。庭は、家族みんなで手入れしているんです」
女性が花壇へ目を向けた。
「あちらの花は、春から少しずつ植えたものなんですよ」
家族みんなで。
その言葉が、エマの胸に小さな灯をともした。
「とても、きれいですね」
女性は、少し照れたように笑った。
笑うと、目が三日月のような形になった。
「この辺りは、少し歩くと沢があります。今日は風も穏やかですし、散策にはちょうどいい日ですね」
女性は家庭菜園のそばへ歩き、レモンバームの葉を摘んだ。
「野菜の近くに香りの強いハーブを植えておくと、虫が寄りにくくなるんです」
指先で葉を軽く揉むと、爽やかな香りが立ちのぼった。
「よろしければ、お茶を飲んでいきませんか。このレモンバームで、ハーブティーをいれましょう」
あまりに自然な誘い方だった。
エマは断る言葉を見つけられず、頷いた。
「ありがとうございます」
女性に案内され、縁側へ向かった。
日に温められた木の床に、手編みの座布団が二つ置かれている。布には、小さな花の刺繍が施されていた。
女性が台所へ入っている間、エマは庭を眺めた。
ミントの葉が揺れている。
その向こうには、深いブナの森が広がっていた。
遠くで鳥が鳴いた。
言葉ではないのに、誰かに呼びかけているような声だった。
やがて女性が、二つのカップを木の盆に載せて戻ってきた。
湯気とともに、レモンバームの香りが広がる。
「どうぞ」
エマはカップを両手で受け取った。
ひと口飲むと、摘みたての葉の青い香りが口の中に広がった。わずかな苦味のあとから、柔らかな甘みが残る。
「おいしいです」
「よかった」
女性の目が、また三日月になった。
しばらく、二人は庭を眺めながらハーブティーを飲んだ。
会話が途切れても、不思議と気まずくはならなかった。
「白神山地は、初めてですか?」
「はい。初めてです」
「いい季節にいらっしゃいましたね。今は、ブナの新緑がいちばんきれいな時期です。森の中へ入ると、風の音も、鳥の声も、少し違って聞こえるんですよ」
女性は、森の方へ顔を向けた。
「あの森には、ツキノワグマも暮らしています。カモシカが畑の近くまで来ることもあります」
熊。
その言葉に、エマの指がカップの上で止まった。
父は、この山で熊に襲われた。
けれど、その死の詳しい状況を、エマはほとんど知らされていなかった。
遺体が見つかった場所も、なぜ父が一人で森に入ったのかも、曖昧なままだった。
「熊が出ても、怖くないんですか?」
エマが尋ねると、女性は少し考えてから答えた。
「怖くないと言ったら、嘘になります。でも、熊も、いつも人を襲おうとしているわけではありません。できるだけ人を避けて、森の奥で生きています」
「昔から、ここでは熊と人が一緒に暮らしてきたんですか?」
「一緒というより、互いの場所を守ってきたんだと思います。山の奥には熊がいて、里には人がいる。近づきすぎないように、気配を感じながら暮らしてきたんです」
「熊も、森の一部なんですね」
「ええ」
女性は、ためらうことなく頷いた。
エマは、カップに目を落とした。
「熊と話せる少女がいると、聞いたことがあります」
女性の表情が、わずかに変わった。
驚いたようにも、何かを確かめているようにも見えた。
「どなたから、その話を?」
「フィンランドの研究者です。日本の白神山地に、熊と話す少女がいるらしい、と」
「そうですか」
女性は森へ目を向けた。
ブナの葉の間を、光が行き来している。
「その少女は、本当にいるんですか?」
エマが尋ねると、女性は静かに答えた。
「ええ、いますよ」
エマは、カップを持ったまま女性を見つめた。
「どんな子ですか?」
「森のことを、よく知っている子です。熊のことも、風のことも、花の名前も。大人が気づかないような小さな変化を、よく見ています」
「その子に会ってみたいです」
女性は、すぐには答えなかった。
庭を渡ってきた風が、二人の間を通り抜けた。
「きっと、会えますよ」
女性は、そう言って微笑んだ。
「会うべき時が来れば」
そのとき、庭の向こうから足音が聞こえた。
「今日は、よく晴れてるな」
低く、穏やかな声だった。
現れたのは、日焼けした男性だった。
農作業用のシャツに、土のついたズボンを履いている。麦わら帽子を手に持ち、額には汗がにじんでいた。
「田んぼの水、だいぶ落ち着いてきたよ。稲も分けつが進んでる。合鴨たちも、よく動いてるよ」
「そう。じゃあ、来週あたりに米ぬかを少し撒きましょうか。追肥は控えめにして」
「ああ。水も澄んできたし、虫も減ってる。あの子たちに感謝だな」
男性は、そこで初めてエマに気づいたように見えた。
しかし、驚いた様子は見せず、麦わら帽子を軽く持ち上げた。
「いらっしゃい」
「突然、お邪魔してすみません」
「いえいえ。遠いところから?」
「東京です」
「それは遠かったでしょう。ここは、いいところですよ」
男性は、山の方へ目を向けた。
エマは、夫婦の間に流れる空気を見ていた。
必要以上の言葉を交わさなくても、互いの考えていることが分かっている。
父と母の間には、一度もなかったものだった。
「合鴨農法をされているんですね」
「ええ。昼間は田んぼで働いてもらって、夜は小屋へ戻します」
「熊に襲われることはないんですか?」
男性は、少し意外そうにエマを見た。
「この辺りの熊が、田んぼまで来ることは、めったにありません。人の匂いや音を感じれば、たいていは離れていきます。もちろん、こちらも油断はしません。夜は合鴨を小屋に戻して、戸をきちんと閉めています」
「最近は、熊が人里へ下りて人を襲ったというニュースが、毎日のように流れています」
「森に食べ物が少ない年もありますし、人の食べ物の味を覚えてしまう熊もいます。昔と同じようにはいかないことも増えました」
男性は、遠くの山を見つめた。
「それでも熊は、本来、人を避けて生きる動物です。だからこそ、こちらも、熊の暮らす場所へむやみに踏み込まないようにしなければならない」
女性が頷いた。
「人も熊も、怖がりすぎず、近づきすぎず。互いの場所を守ることが大切なんです」
近づきすぎないこと。
その言葉が、エマの胸に残った。
人と自然の間だけではない。
人と人の間にも、越えてはいけない境界がある。
けれど、父は何度も、この家を訪れていた。
そして、この家の女性に惹かれていた。
父は、どの境界を越えたのだろう。
エマは、夫婦の横顔を交互に見た。
目の前にいる二人からは、父の死につながるような暗いものは何も感じられなかった。
むしろ、長い時間をかけて築かれた暮らしの温度があった。
エマは、飲み終えたカップを盆の上に戻した。
「そろそろ失礼します。突然お邪魔したのに、お茶までいただいて、ありがとうございました」
「こちらこそ。秋にも、ぜひいらしてください」
女性が言った。
「紅葉の時期は、それはもう見事ですよ。山全体が、赤や金色に染まります」
男性も頷いた。
「次は、ゆっくり泊まっていってください。朝の森も、夜の森も、きっと気に入ってもらえると思います。その頃には、うちの合鴨米も食べ頃になっていますよ」
「はい」
エマは答えた。
けれど、宿泊の約束まではできなかった。
この家の中へ深く踏み込めば、今はまだ見えない何かに触れてしまう気がした。
夫婦に見送られ、玄関を出た。
木の扉が閉まる音が、背中に届いた。
庭の小道を歩きながら、エマは振り返った。
なぜ父が、この民宿を定宿にしていたのか。
少しだけ分かったような気がした。
ここには、父が自分の家では得られなかったものがある。
土の匂い。
食卓を囲む家族。
言葉がなくても通じ合う夫婦。
そして、森に抱かれているような安らぎ。
父は、この場所そのものに惹かれていたのか。
それとも、あの女性だけを求めていたのか。
その答えは、まだ分からなかった。
門へ向かう途中、エマは足を止めた。
庭の奥に、ひとりの少女がいた。
花壇の前にしゃがみ、花の枯れた部分を、小さな指で丁寧に摘み取っている。
生成りの麻のワンピースを着ていた。
母親とよく似た服だった。
少女はエマに気づいていない。
風が吹くと、長い髪とワンピースの裾が同じ方向へ揺れた。
その背中には、不思議なほど森の気配がなじんでいた。
まるで少女と森の間には境目がなく、同じ呼吸をしているようだった。
少女のすぐそばで、一羽の小鳥が地面へ降りた。
少女は振り返らない。
小鳥も逃げなかった。
エマは、声をかけることができなかった。
近づけば、少女も小鳥も、森の奥へ消えてしまいそうな気がした。
この子だ。
熊の声を聞く少女。
そう思った瞬間、少女がふいに顔を上げた。
まっすぐに、エマを見た。




