表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
くまの森  作者: 海月繭


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/6

第一章 水の都から、森へ

第一章 水の都から、森へ


水の都ベネチアは、朝の光に包まれていた。


ゴンドラが水面を滑り、石造りの建物が淡い影を落としている。観光客のざわめきはまだ遠く、鐘の音が空に溶けていく。サンマルコ広場では鳩が舞い、その上をカモメが横切った。


ホテルのテラスでエスプレッソを飲んでいるのは、環境学者のエマだった。


36歳の誕生日を、昨日、この街で迎えた。誰かに祝われたわけではない。それでも、朝の光と水の匂いが、ひとりでいる彼女を穏やかに包んでいた。


専門は、エマが「動態生態惑星学」と呼ぶ新しい研究領域だった。動物の行動と地球環境の変化を、惑星規模で読み解いていく。


彼女の研究は、地球の鼓動を聴くことから始まる。


カップの縁に残った苦味を舌先で確かめながら、エマは運河を見つめた。


水面の下には、目には見えない時間が流れている。科学の言葉だけでは語りきれない、命の記憶が眠っている。


街は、まだ目覚めの途中だった。


前日から、ベネチアでは国際学会「地球惑星環境会議」が開かれていた。


世界各国の研究者が集まり、温暖化や海面上昇、生物多様性の崩壊について議論を交わしている。


その日の午前、エマは、日本で相次ぐ熊による人的被害について発表した。


スクリーンには、山間部の集落と、熊の出没記録を示す地図が映し出されていた。


「ヒグマやツキノワグマは、負傷すると警戒心が強まり、予測できない攻撃に及ぶことがあります。それは、恐怖と痛みが混ざり合った、極限状態での反応です」


エマはスライドを切り替えた。


「熊による被害の原因を、個体の性質だけに求めることはできません。生態系の変化、人間の生活圏との接近、気候変動による餌場の減少。いくつもの要因が複雑に絡み合っています」


会場を見渡し、一呼吸置く。


「熊が人里へ降りてくるのは、彼らの居場所が失われつつあるからです。人間が受ける被害もまた、自然が上げている悲鳴の一部なのかもしれません。私たちが聞こうとしなかった声の、最後のかたちです」


会場の空気が、わずかに張りつめた。


「このベネチアにも、温暖化の影響は街の呼吸にまで染み込んでいます。水位だけでなく、風の流れも、湿度も、建物の状態も変わり始めている。そうした場所で環境問題を語り合えることを、心から光栄に思います」


発表を終えると、会場に拍手が広がった。


頷く者、目を閉じる者、考え込むようにスクリーンを見つめる者。


エマは拍手そのものよりも、その場に生まれた空気の揺れを感じていた。


科学の言葉が、ほんの少しだけ、誰かの心に届いたような気がした。


夕暮れ。


サンマルコ大聖堂を望む高級レストラン「La Luce di Mare」のテラスでは、学会の懇親会が開かれていた。


空は薄紅に染まり、石造りの街並みが水面に溶けている。


テーブルには、海の幸のカルパッチョ、トリュフのリゾット、金箔をあしらったティラミスが並んでいた。グラスに注がれたシャンパンが、夕日の色を映している。


学者たちはワインに頬を染めながら、地球環境の未来について語り合っていた。


ところが、その優雅な食卓の下では、全員の足がくるぶしまで水に浸かっていた。


客たちは長靴を履いたまま、何事もないようにナプキンを膝にかけている。給仕が料理を運ぶたび、足元で水がちゃぷちゃぷと鳴った。


すぐ横では、一羽のカモメが泳いでいる。


エマは、その姿から目を離せなかった。


環境の未来について語る人々と、水に浸かったテーブルと、その横を平然と泳ぐカモメ。


どこまでが現実で、どこからが寓話なのか、分からなくなるような光景だった。


同じテーブルにいたベネチア大学の研究者が言った。


「数年前までは水没ばかりが心配されていましたが、最近は干ばつも深刻です。運河が干上がり、ゴンドラが運休することも増えました。水の都が、水を失いかけているのです」


エマは足元の水を見ながら答えた。


「沈んだり、干上がったり……水の都も、揺れているんですね」


その言葉を、水音とカモメの声が包んだ。


そこへ、ひとりの若い研究者が近づいてきた。


「エマ先生、本日はすばらしいご講演をありがとうございました」


「……どうも」


「僕は、お父様の雲母研究室の出身です」


「そうですか」


「雲母教授のことは、本当に残念でした。まさか、熊に襲われて亡くなるなんて……ご家族のお悲しみを思うと、胸が痛みます」


「お気遣い、ありがとう」


エマは微笑んで頷いた。


だが、その言葉は胸のどこにも届かなかった。


――悲しむ家族なんて、どこにいたのだろう。


父の雲母は、家にほとんど帰らなかった。たまに帰宅しても自室にこもり、妻との会話は表面をなぞるだけだった。


学会ではいつも笑顔を絶やさず、学生からの信頼も厚かった。特に女子学生からは、よく慕われていた。


国際学会や講演で、1年の3分の2以上を海外で過ごした。


そしてエマは知っていた。


父が、空の上でも地上でも、世界のあちこちに愛人を持っていたことを。


国際線の客室乗務員との関係は、母が一度だけ口にしたことがある。そのときの母の声は、冬の風のようにかすれていた。


女性研究者との関係も疑っていた。父の論文に、同じ女性の名前が繰り返し現れるたび、エマはため息をつき、ページを閉じた。


だから、父の死を知らされても、涙は出なかった。


若い研究者の言葉は、風のように耳を通り過ぎていった。


隣の席にいたフィンランド人の研究者が、ワイングラスを置いた。銀縁の眼鏡をかけた、穏やかな顔の男だった。


「フィンランドでは、熊による被害はトナカイの群れに集中しています。温暖化で餌場が変わり、熊が北へ移動してきた。人間より先に、トナカイが犠牲になっているのです」


エマは頷いた。


環境政策の先進国とされる土地でさえ、野生動物との境界は揺らいでいる。


「君の父親は、なぜ熊に襲われたんだい?」


唐突な問いだった。


エマは少し間を置いた。


「分かりません。今も、謎のままです」


男はグラスを置き、身を乗り出した。


「日本の山奥に、熊と話せる少女がいると聞いたことがあります。青森の……なんという場所だったかな。世界遺産になっている森だ」


「白神山地ですか」


「そう、そこです」


白神山地。


かつて父が、研究のために何度も通った場所。そして、熊に襲われて命を落とした場所でもある。


「熊と話せる少女」


寓話のようなその言葉が、エマの胸に引っかかった。


父の死と、熊と話す少女。


科学では説明できない何かが、遠い森から彼女を呼んでいるような気がした。


満月が、ベネチアの空に昇っていた。


その夜、エマは古い宮殿で開かれた仮面舞踏会に参加していた。


かつて貴族が暮らしたという宮殿の天井には、神話を描いたフレスコ画が広がっている。金箔の装飾を蝋燭の炎が照らし、磨かれた大理石の床に靴音が響いていた。


楽団が奏でるヴィヴァルディに合わせ、仮面をつけた男女が踊っている。


昼間、環境の危機を論じていた学者たちも、今は別の顔で誰かの手を取っていた。


エマは、背中の大きく開いた深紅のドレスをまとい、白い羽根の仮面をつけていた。


何人かと踊ったあと、最後に手を取った男と宮殿を出た。


父の元同僚だった。


ホテルのテラスで、エマは薄手のバスローブを羽織り、赤ワインを飲んでいた。


運河に満月が映っている。


自分の中に、父と同じ血が流れている。


そのことを、今夜はいつも以上に意識していた。


女関係に節度のなかった父を嫌悪しながら、自分もまた、妻子ある男との関係を続けている。


エマは小さく息を吐き、ワインをひと口飲んだ。


部屋のベッドから、男の声がした。


「風邪ひくよ。こっちにおいで」


男が布団を持ち上げ、手招きをする。


海外の学会で出会い、互いの気分が合ったときだけ体を重ねる。日本では一度も会わない。


その距離が、エマには都合よかった。


グラスを置き、ベッドに戻る。男の胸に手を添え、唇を重ねた。


やがて、ふたりは枕を並べて天井を見ていた。


男の呼吸を聞きながら、エマが口を開いた。


「白神山地に、熊と話せる少女がいるらしいの」


男の目が、わずかに動いた。


その反応を、エマは見逃さなかった。


「知ってるよ。民宿を営んでいる家の娘だ。僕が最後に会ったときは3歳だったから、今は8歳くらいかな」


「会ったことがあるの?」


「雲母さんが白神に通っていた頃、あの民宿を定宿にしていたんだ。研究室の勉強会も毎年そこで開いていた。僕も何度か参加したよ」


エマは男の横顔を見つめた。


「父は、そこで何をしていたの?」


男は天井を見たまま、答えなかった。


少し長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。


「……雲母さんは、あの家の母親に、ずいぶん熱を上げていた」


語られなかったものが、言葉以上の重さで残った。


窓の外では、月が運河に揺れている。


父の死と、熊と話す少女と、森の民宿。


離れていたはずのものが、一本の細い糸で結ばれ始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ