第一章 水の都から、森へ
第一章 水の都から、森へ
水の都ベネチアは、朝の光に包まれていた。
ゴンドラが水面を滑り、石造りの建物が淡い影を落としている。観光客のざわめきはまだ遠く、鐘の音が空に溶けていく。サンマルコ広場では鳩が舞い、その上をカモメが横切った。
ホテルのテラスでエスプレッソを飲んでいるのは、環境学者のエマだった。
36歳の誕生日を、昨日、この街で迎えた。誰かに祝われたわけではない。それでも、朝の光と水の匂いが、ひとりでいる彼女を穏やかに包んでいた。
専門は、エマが「動態生態惑星学」と呼ぶ新しい研究領域だった。動物の行動と地球環境の変化を、惑星規模で読み解いていく。
彼女の研究は、地球の鼓動を聴くことから始まる。
カップの縁に残った苦味を舌先で確かめながら、エマは運河を見つめた。
水面の下には、目には見えない時間が流れている。科学の言葉だけでは語りきれない、命の記憶が眠っている。
街は、まだ目覚めの途中だった。
前日から、ベネチアでは国際学会「地球惑星環境会議」が開かれていた。
世界各国の研究者が集まり、温暖化や海面上昇、生物多様性の崩壊について議論を交わしている。
その日の午前、エマは、日本で相次ぐ熊による人的被害について発表した。
スクリーンには、山間部の集落と、熊の出没記録を示す地図が映し出されていた。
「ヒグマやツキノワグマは、負傷すると警戒心が強まり、予測できない攻撃に及ぶことがあります。それは、恐怖と痛みが混ざり合った、極限状態での反応です」
エマはスライドを切り替えた。
「熊による被害の原因を、個体の性質だけに求めることはできません。生態系の変化、人間の生活圏との接近、気候変動による餌場の減少。いくつもの要因が複雑に絡み合っています」
会場を見渡し、一呼吸置く。
「熊が人里へ降りてくるのは、彼らの居場所が失われつつあるからです。人間が受ける被害もまた、自然が上げている悲鳴の一部なのかもしれません。私たちが聞こうとしなかった声の、最後のかたちです」
会場の空気が、わずかに張りつめた。
「このベネチアにも、温暖化の影響は街の呼吸にまで染み込んでいます。水位だけでなく、風の流れも、湿度も、建物の状態も変わり始めている。そうした場所で環境問題を語り合えることを、心から光栄に思います」
発表を終えると、会場に拍手が広がった。
頷く者、目を閉じる者、考え込むようにスクリーンを見つめる者。
エマは拍手そのものよりも、その場に生まれた空気の揺れを感じていた。
科学の言葉が、ほんの少しだけ、誰かの心に届いたような気がした。
夕暮れ。
サンマルコ大聖堂を望む高級レストラン「La Luce di Mare」のテラスでは、学会の懇親会が開かれていた。
空は薄紅に染まり、石造りの街並みが水面に溶けている。
テーブルには、海の幸のカルパッチョ、トリュフのリゾット、金箔をあしらったティラミスが並んでいた。グラスに注がれたシャンパンが、夕日の色を映している。
学者たちはワインに頬を染めながら、地球環境の未来について語り合っていた。
ところが、その優雅な食卓の下では、全員の足がくるぶしまで水に浸かっていた。
客たちは長靴を履いたまま、何事もないようにナプキンを膝にかけている。給仕が料理を運ぶたび、足元で水がちゃぷちゃぷと鳴った。
すぐ横では、一羽のカモメが泳いでいる。
エマは、その姿から目を離せなかった。
環境の未来について語る人々と、水に浸かったテーブルと、その横を平然と泳ぐカモメ。
どこまでが現実で、どこからが寓話なのか、分からなくなるような光景だった。
同じテーブルにいたベネチア大学の研究者が言った。
「数年前までは水没ばかりが心配されていましたが、最近は干ばつも深刻です。運河が干上がり、ゴンドラが運休することも増えました。水の都が、水を失いかけているのです」
エマは足元の水を見ながら答えた。
「沈んだり、干上がったり……水の都も、揺れているんですね」
その言葉を、水音とカモメの声が包んだ。
そこへ、ひとりの若い研究者が近づいてきた。
「エマ先生、本日はすばらしいご講演をありがとうございました」
「……どうも」
「僕は、お父様の雲母研究室の出身です」
「そうですか」
「雲母教授のことは、本当に残念でした。まさか、熊に襲われて亡くなるなんて……ご家族のお悲しみを思うと、胸が痛みます」
「お気遣い、ありがとう」
エマは微笑んで頷いた。
だが、その言葉は胸のどこにも届かなかった。
――悲しむ家族なんて、どこにいたのだろう。
父の雲母は、家にほとんど帰らなかった。たまに帰宅しても自室にこもり、妻との会話は表面をなぞるだけだった。
学会ではいつも笑顔を絶やさず、学生からの信頼も厚かった。特に女子学生からは、よく慕われていた。
国際学会や講演で、1年の3分の2以上を海外で過ごした。
そしてエマは知っていた。
父が、空の上でも地上でも、世界のあちこちに愛人を持っていたことを。
国際線の客室乗務員との関係は、母が一度だけ口にしたことがある。そのときの母の声は、冬の風のようにかすれていた。
女性研究者との関係も疑っていた。父の論文に、同じ女性の名前が繰り返し現れるたび、エマはため息をつき、ページを閉じた。
だから、父の死を知らされても、涙は出なかった。
若い研究者の言葉は、風のように耳を通り過ぎていった。
隣の席にいたフィンランド人の研究者が、ワイングラスを置いた。銀縁の眼鏡をかけた、穏やかな顔の男だった。
「フィンランドでは、熊による被害はトナカイの群れに集中しています。温暖化で餌場が変わり、熊が北へ移動してきた。人間より先に、トナカイが犠牲になっているのです」
エマは頷いた。
環境政策の先進国とされる土地でさえ、野生動物との境界は揺らいでいる。
「君の父親は、なぜ熊に襲われたんだい?」
唐突な問いだった。
エマは少し間を置いた。
「分かりません。今も、謎のままです」
男はグラスを置き、身を乗り出した。
「日本の山奥に、熊と話せる少女がいると聞いたことがあります。青森の……なんという場所だったかな。世界遺産になっている森だ」
「白神山地ですか」
「そう、そこです」
白神山地。
かつて父が、研究のために何度も通った場所。そして、熊に襲われて命を落とした場所でもある。
「熊と話せる少女」
寓話のようなその言葉が、エマの胸に引っかかった。
父の死と、熊と話す少女。
科学では説明できない何かが、遠い森から彼女を呼んでいるような気がした。
満月が、ベネチアの空に昇っていた。
その夜、エマは古い宮殿で開かれた仮面舞踏会に参加していた。
かつて貴族が暮らしたという宮殿の天井には、神話を描いたフレスコ画が広がっている。金箔の装飾を蝋燭の炎が照らし、磨かれた大理石の床に靴音が響いていた。
楽団が奏でるヴィヴァルディに合わせ、仮面をつけた男女が踊っている。
昼間、環境の危機を論じていた学者たちも、今は別の顔で誰かの手を取っていた。
エマは、背中の大きく開いた深紅のドレスをまとい、白い羽根の仮面をつけていた。
何人かと踊ったあと、最後に手を取った男と宮殿を出た。
父の元同僚だった。
ホテルのテラスで、エマは薄手のバスローブを羽織り、赤ワインを飲んでいた。
運河に満月が映っている。
自分の中に、父と同じ血が流れている。
そのことを、今夜はいつも以上に意識していた。
女関係に節度のなかった父を嫌悪しながら、自分もまた、妻子ある男との関係を続けている。
エマは小さく息を吐き、ワインをひと口飲んだ。
部屋のベッドから、男の声がした。
「風邪ひくよ。こっちにおいで」
男が布団を持ち上げ、手招きをする。
海外の学会で出会い、互いの気分が合ったときだけ体を重ねる。日本では一度も会わない。
その距離が、エマには都合よかった。
グラスを置き、ベッドに戻る。男の胸に手を添え、唇を重ねた。
やがて、ふたりは枕を並べて天井を見ていた。
男の呼吸を聞きながら、エマが口を開いた。
「白神山地に、熊と話せる少女がいるらしいの」
男の目が、わずかに動いた。
その反応を、エマは見逃さなかった。
「知ってるよ。民宿を営んでいる家の娘だ。僕が最後に会ったときは3歳だったから、今は8歳くらいかな」
「会ったことがあるの?」
「雲母さんが白神に通っていた頃、あの民宿を定宿にしていたんだ。研究室の勉強会も毎年そこで開いていた。僕も何度か参加したよ」
エマは男の横顔を見つめた。
「父は、そこで何をしていたの?」
男は天井を見たまま、答えなかった。
少し長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「……雲母さんは、あの家の母親に、ずいぶん熱を上げていた」
語られなかったものが、言葉以上の重さで残った。
窓の外では、月が運河に揺れている。
父の死と、熊と話す少女と、森の民宿。
離れていたはずのものが、一本の細い糸で結ばれ始めていた。




