第三章 死線を超える、究極の肉まん
永禄三年(一五六〇年)五月。五月雨が尾張の国を濡らすなか、熱田神宮のほど近くに建てられた織田軍特設ちゃんこ場兼大稽古場は、異様な熱気に包まれていた。「いい?貴方たち!今のまわしの締め方じゃ、立ち合いの瞬間に大臀筋のポテンシャルが死ぬわ!もっとキリッと、お尻の肉を中央に寄せるように締め上げなさい!」「へいっ! 親方様っ!!」満月の怒号に、地響きのような野太い返声が響く。信長が最大のパトロン(タニマチ)となってから数ヶ月。満月が作り上げた相撲部屋には、織田家一中の屈強な兵や志願兵が集まり、いまや「千人の力士を擁する一大勢力」へと膨れ上がっていた。「親方、まーたわけのわからねえ言葉で兵たちを限界化させてるだべ……。でも、みんな本当に見違えるほど強くなっちまったな」源太は、すっかり部屋の筆頭力士(関取)としての風格を漂わせ、巨大なちゃんこ鍋の灰汁をすくいながら呟いた。令和の極貧生活から一転、信長の資金力によって、力士たちは毎日極上の米と猪肉のちゃんこ鍋を食らい、現代の科学的・解剖学的な身体操作を叩き込まれていた。彼らの肉体は、当時の武士の常識を遥かに超える動ける巨体へと新生していたのである。
しかし、満月の心境は、これまでの呑気な印税生活とは少し違っていた。「……間違いない。この不穏な空気、そしてこの時期。歴史の教科書通りなら、もうすぐ来るわ。桶狭間の戦いが……」当時の相撲とは、すなわち武芸であり、勝敗の先には死が待つ実戦訓練。信長が満月の絵を最強の兵法書と勘違いした以上、この千人の力士集団は、織田家の決戦兵器として前線に投入されることを意味していた。「殿! 今川義元の大軍、二万五千、すでに尾張国境を越え、大高城へと向かっております!」伝令の悲痛な叫びが、織田の本陣に響き渡った。織田軍の総兵力は、かき集めても数千。対する今川は二万五千。圧倒的な絶望が家臣たちを支配するなか、織田信長だけは不敵に笑い、本陣に満月と源太を呼び寄せた。「しっぽ親方。いよいよ貴様の尻の兵法が、天下の趨勢を決める時が来た。これより、貴様が育てた千人の力士を率い、今川の本陣へと奇襲をかける!」「お、おらたちだけで二万の大軍に突っ込むだべか!? 死んじまう、やっぱりおら、怖いだべ……!」源太がその巨体を小さく丸め、ガタガタと震え出した。 周囲の兵たちの顔にも、死への恐怖が色濃く浮かんでいる。当時の死生観。戦場に出れば命はないという絶対的な恐怖が、力士たちの心を急速に締め付けていく。満月は、怯える源太の前に歩み寄ると、その褌をガシッと掴んで引き寄せた。「源太。貴方のお尻、今どうなっているか分かっている?」「え……? 尻……?」「恐怖に身をすくませて、溝がこれでもかってくらい深くなっているわ。それは死を恐れて緊張している状態。でもね、そんなガチガチの身体じゃ、敵の槍一本すら受け流せない。死線を超えるために必要なのは、力を入れることじゃないの。すべてを受け入れ、重力に身を委ねる無我の境地……それこそが、溝のないお尻(平和)よ!」「溝のない……お尻……」「我が、尊き尻・・・力士達よ! 必ず生きてこの地に足をつけよ!武器を捨て、己の肉体と大地を信じなさい!」満月のその言葉は、変態的なフェチズムの殻を突き破り、過酷な戦場を生き抜くための絶対の哲学として、源太たちの魂に深く突き刺さった。
激しい豪雨が、桶狭間の山間部を叩きつけていた。天をも味方につけた信長の号令とともに、織田軍の奇襲が始まる。しかし、先陣を切ったのは、刀を持った武士ではない。まわし一丁に、雨水を弾く見事な筋肉をまとった、千人の力士集団だった。「曲者だッ! 出会えッ!!」不意を突かれた今川軍の先鋒が、一斉に槍を突き出してきた。「おらぁぁぁーーーっ!!」先頭を走る源太の脳裏に、満月の言葉がリフレフレインする。「力を抜くんだべ……恐怖を捨てて、大地の重力を尻に集める……!」次の瞬間、源太の臀部から完全に緊張が消え去った。極限の脱力から生み出される、視認不可能なほどの高速の立ち合い。
ズガァァァァン!!!
源太のぶちかましが、今川軍の先頭集団に炸裂した。槍の穂先は、源太の鍛え上げられた大胸筋と、絶妙な重心移動による衝撃分散によって虚しく弾け飛ぶ。それどころか、源太の一撃によって、前線の兵十数人がまとめて後方へと吹き飛んだ。「な、何だあいつらは!? 刀が通じぬ! 物の怪か!?」「おらの尻は、もう逃げない……!これが親方の言っていた、究極の肉まんだべぇぇぇ!!」恐怖を克服し、無我の境地へと大覚醒を遂げた源太は、涙を流しながら猛烈な突っ張りを連打した。一発放たれるたびに、鎧を着た今川の武士がゴミのように宙を舞い、戦場に道が作られていく。「バ、バカな……! 予の精鋭たちが、褌一丁の男どもに蹂躙されるだと……!?」今川の本陣で、総大将・今川義元は我が目を疑っていた。数千の兵に守られていたはずの本陣が、たった千人の力士たちによる肉体の暴力によって、またたく間に崩壊していく。背後から迫る織田信長の本隊を前に、戦意を完全に喪失した今川軍は、我先にと敗走を始めた。「見たか! これぞしっぽ親方の究極の兵法! 天下は、この尻の理によって動くのだ!」信長が雷鳴のような高笑いを上げ、刀を抜く。
戦場に、勝利のどすこい三唱が響き渡る。泥と雨にまみれながら、完璧な溝のないお尻を完成させて立ち尽くす源太と、それを見て「ああ、なんて神聖な肉まんかしら……」と鼻血を拭う満月。桶狭間の戦いは、史実を遥かに超える圧倒的な相撲無双によって、織田軍の完全勝利で幕を閉じたのだった。




