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第二章 天下人と、溝のない芸術

 「ほう……。貴様が、おかしな絵で兵を鍛えているという、噂の『しっぽ親方』か」黒い馬の上から見下ろす織田信長の視線は、冷徹で、獲物の価値を正確に見定める商人のそれだった。周囲の家臣たちが殺気を放つなか、満月は物怖じするどころか、腕を組んで信長の姿をじっと観察していた。「ひ、ひえぇぇ……親方様、早く平伏してくだせえ! 首が飛ぶべ!」 源太がまわしを震わせながら、小声で必死に満月の着物の裾を引っ張る。だが、満月の目は信長の、いや、信長の「ある部分」に完全に釘付けだった。「ふん……」 満月はため息をつき、鼻で笑った。「何が天下のカリスマよ。織田の殿様、貴方、馬の上で偉そうに踏ん張っているけれど、重心が浮いている上に、お尻の使い方が完全に甘いわね」「なっ……!?」 信長の側近たちが一斉に刀の柄に手をかけた。静まり返った村に、キィンと不穏な金属音が響く。「控えよ、無礼者! 殿に向かって何たる口を!」「待て」信長は片手を挙げて家臣たちを制した。その顔には怒りではなく、奇妙な好奇心が浮かんでいる。「重心が浮くだと? 俺の相撲は、尾張の兵を鍛えるための最強の武芸。力なき者がいくら理屈をこねたところで、戦場では通用せぬぞ」「理屈じゃないわ、芸術よ」 満月は一歩も引かずに言い放った。「真の相撲とはね、完全に脱力した溝のない状態から、立ち合いの一瞬でどれだけ理想的な溝(闘志)を作り出せるかという芸術なの。貴方の連れているその強そうな家臣たち、筋肉は立派だけど、お尻がガチガチに緊張しっぱなし。そんなんじゃ、我が相撲部屋の『溝のない肉まん』たちには勝てないわ」「面白い」信長はニィと口元を歪め、馬から飛び降りた。「ならば、俺が直々に鍛えた織田家最強の力士・権左衛門ごんざえもんと、貴様の言う『肉まん』とやらを戦わせてみよ。もし負けたら、その生意気な首、胴体からおさらばしてもらうぞ」即席の土俵の周りに、異様な緊張感が張り詰めていた。



 織田軍代表として土俵に上がったのは、身長二メートルはあろうかという巨漢・権左衛門。丸太のような腕と、鋼のように鍛え上げられた肉体を誇る、文字通りの怪物だ。対するは、我が部屋の筆頭力士、源太。 ガタガタと膝を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で土俵に上がっている。「お、おら、やっぱり無理だべ……あんな化け物にぶつかったら、お尻どころか骨まで粉々になっちまうだ!」「弱気にならないの、源太!」満月は土俵の際から声を張り上げた。「相手はただの筋肉の塊よ。貴方のお尻には、私が描き込んだ完璧な骨格の設計図が染み込んでいるわ。構えなさい。満月の夜の肉まんになるのよ!」「親方、その肉まんの例えはやっぱり分からねえけど……やるしかないんだべな!」源太はゴクリと唾を飲み込み、腰を深く落とした。満月に叩き込まれた平蜘蛛の構え。足の小指を地面に絞り込み、大地の重力をすべて臀部で受け止める。その瞬間、源太の全身から余計な力みが完全に消え去った。「フンッ!!」 権左衛門が鼻息荒く、猛烈な勢いで突進してくる。地響きが鳴り、織田家の家臣たちから勝ち誇った歓声が上がった。だが、信長だけは目を見開いていた。 「……何だ、あの百姓の構えは。まるで大地に根を張った大樹のごとく、一点の揺らぎもない……!」



ドゴォォォン!!!



 両者が正面から激突した。誰もが、源太が木の葉のように吹き飛ぶと思った。しかし、弾け飛んだのは権左衛門の方だった。「ぬ、おおぉっ!?」権左衛門は、まるで巨大な岩盤に激突したかのように目を剥き、その衝撃だけで上体が大きく仰け反った。源太は相手の突進のエネルギーを、脱力した尻から足裏を通じてすべて大地へと逃がし、寸分も動かなかったのだ。そして、相手の重心が浮いた絶妙のタイミングで、教えられた通りの重心移動を爆発させる。下から上へ、大地の力を乗せた渾身の突っ張り(ぶちかまし)が、権左衛門の顎を完璧に捉えた。「どすこぉぉぉい!!」「ぐはぁっ!?」巨漢・権左衛門の身体が、ふわりと宙に浮いた。そのまま土俵の外へと、文字通り「すっ飛んで」いき、仰向けにひっくり返って動かなくなった。しんと、静まり返る周囲。織田家の家臣たちは、何が起きたのか理解できず、呆然と口を開けている。「勝負あり! 見たかしら、これが現代相撲の身体操作よ!」 満月がドヤ顔で胸を張った。源太は自分の両手を見つめ、「おら、またやっちまっただ……」と腰を抜かして土俵に座り込んだ。



「……素晴らしい」



 静寂を破ったのは、信長の低い声と、乾いた拍手だった。信長はゆっくりと土俵に近づくと、地面に転がっていた一枚の紙を拾い上げた。それは、満月が描いた源太の尻の絵(極意書)だった。信長はその絵を凝視し、身体の構造線、重心のベクトルを示す筆跡を指でなぞる。その目は、完全に輝いていた。「これは……単なる力比べの絵ではない。戦場で、重い甲冑を着た武士が、一歩も退かずに敵を圧倒するための究極の兵法だ。この線の通りに身体を動かせば、どれほど小柄な兵であっても、敵の猛攻を受け流し、一撃で屠ることができる……!」「え? いや、それはただのお尻の美しさを表現した・・・」満月が言いかけるが、限界化した信長の耳には届かない。「しっぽ親方とやら! 気に入ったぞ! 貴様のその尻の極意書、織田家がすべて買い取る! 貴様を我が織田軍の最高兵法顧問(総親方)として迎え入れ、最高のタニマチ(スポンサー)となってやろう!」「えっ、タニマチ!? ほんとに!? 高級ちゃんこ食べ放題!?」満月は目を輝かせた。「殿! 勘違いしないでくだせえ!この人、ただの重度の尻フェチですだ!兵法なんて高尚なもんじゃねえだべ!」源太の必死のツッコミも、天下人の大いなる勘違いにかき消されていく。こうして、令和の変態絵師は、織田信長という最強のパトロンを獲得し、歴史を相撲で塗り替える大親方への道を本格的に歩み始めるのだった。


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