第一章 満月の夜の肉まんと、平蜘蛛の構え
「……というわけで源太。この墨という流体媒体は、液晶タブレットの電磁気的ピクセル表現とは異なり、紙の繊維に対する炭素粒子の定着度合いで無限のグラデーションを生み出せるの。つまり何が言いたいかというと、戦国時代の和紙で描くお尻、めちゃくちゃ発色と質感が最高ってことよ!!」「親方、頼むから一言もしゃべらずに描いてくれだべ!集中が乱れて、まわし(褌)がズレそうになるだ!」あれから数週間。山村の片隅にある、即席で建てられた粗末な小屋のなかで、源太は汗だくになりながら中腰の姿勢で固まっていた。満月はといえば、もはや完全にタイムスリップの現実を受け入れ、令和の極貧生活では考えられなかった最高の和紙と特級の墨を前に、目を血走らせて筆を振るっている。彼女が描いているのは、源太の肉厚な臀部。その筆致は、骨格の歪みや筋肉の収縮を完璧に捉えており、今にも紙から飛び出してきそうなほどの躍動感を放っていた。「よし、できたわ! 見て源太、これが貴方の今日の大臀筋よ!」満月がバッと掲げた紙には、荒々しくもどこか神聖さすら感じさせる、究極の力士の絵が描かれていた。ただの写実画ではない。線の強弱だけで、源太の身体の重心の通り道が視覚的に理解できる、一種の構造図でもあった。「うお……おらの尻なのに、なんか、もの凄く強そうに見えるだ。これを見てると、どうやって足を踏み込めばいいか、頭の中に直接流れ込んでくるみたいだべ……」「当然よ。私が描くのはフェチズムの結晶であり、同時に完璧な身体操作の設計図なのだから」満月はふふんと鼻を鳴らした。この絵を、小遣い稼ぎのつもりで村の男たちや通りすがりの行商人に「お守り」として数枚売ったのが、すべての始まりだった。
噂が広まるのは、驚くほど早かった。「原石の村に、触るだけで力が湧き出る神の絵を描く奇妙な尼(親方)がいる」「その絵の通りに体を動かすと、どんな大男も一撃で投げ飛ばせる」戦国時代の武士や農民にとって、生き残るための身体の動かし方は一子相伝の秘伝、あるいは命がけの経験で掴むもの。それを、一目で理解できるように可視化した満月の絵は、またたく間に最強の兵法書として、とんでもない価格で取引され始めたのだ。「親方! 今日も街の商人から、絵を十枚、米三十俵で買い叩きたいって、いや逆だ、売ってくれって懇願されただべ! 令和の極貧生活ってのが何だか知らねえが、おらたち、もう大金持ちだだ!」源太が懐からジャラジャラと大量の永楽通宝を取り出して叫ぶ。「ふっ……。液晶タブレットの充電が切れた時は人生の終わりかと思ったけれど、まさか戦国時代で絵の印税生活(タニマチ無双)ができるなんてね。ふはは、見なさい源太、この金で買った最高級のちゃんこ鍋の具材を!」「ちゃんこって何だべ!? まーた親方の不思議な言葉が出ただ!でも、美味そうだからいいだべ!」村の男たちも、最初は満月を妙な妄想を垂れ流す変な女として見ていたが、今や彼女の絵がもたらす富と、何より実際に強くなる理論の前に、完全にひれ伏していた。「さあ、お金の話はここまでよ。全員、土俵に集まりなさい!今日の稽古を始めるわよ!」満月の号令で、村の屈強な男たちが一斉に褌一丁で整列した。「いい? 貴方たちの身体は、小柄で侍たちの体格には劣るわ。だからこそ、無駄な力みは一切排除するの。特に重要なのは平蜘蛛の構えにおける、腰と尻の完全なる脱力よ!」満月は竹箒を手に、男たちの姿勢を厳しくチェックしていく。「そこ! お尻の溝が深くなってるわよ!敵を前にして緊張するのは分かるけれど、そんなガチガチの肉まんじゃ、相手の突進を受け流せないわ! 目指すのは、満月の夜にふっくらと蒸し上がった、表面の滑らかな『溝のない肉まん』よ!!」「親方ーーー! だからその『肉まん』ってのが何なのか、村の誰も分かってねえだべ! 満月の夜のお尻って、ただの変態のセリフにしか聞こえねえだ!」源太がまわしを必死に直しながら激しくツッコミを入れる。「うるさいわね源太! 肉まんとは、人類が到達した究極の球体関節のことよ! いいから全員、私の言う通りに小指を絞り込んで、大地の重力を尻で受け止めなさい!」「へいっ!!」男たちは、満月の(変態的な)熱弁に気圧されながらも、必死に足の小指を地面に喰い込ませ、腰を落とした。 するとどうだろう。傍目から見ても、彼らの構えから隙が完全に消え失せていた。まるで、地面から直接生えている巨木のように、微動だにしない。ただの力任せだった村の男たちが、芸術的な型を身につけ、静かな威圧感を放つ最強の力士集団へと変貌しつつあった。「よし、いいお尻(構え)ね……。この技術があれば、戦国の荒波も乗り越えられるわ」満月は満足げに頷いた。しかし、その時、村の入り口から、地響きのような馬蹄の音が迫っていることに、まだ誰も気づいていなかった。
「ほう……。これが噂の『お尻の兵法書』の出処か」
突如として村を包んだのは、それまでの山賊とは格が違う、肌を刺すような圧倒的な威圧感。数十騎の騎馬武者を引き連れ、漆黒の甲冑に身を包んだ一人の若き武将が、土俵のすぐそばで馬を止めた。その男の目は、怜悧にして合理的。およそ迷いというものを一切持ち合わせていない、天下の器。「ひ、ひえぇぇ……! あ、あの家紋は……織田家の……っ!」村の長老が腰を抜かして地面にひれ伏す。満月は眼鏡の位置を直し、馬上の男をじっと見据えた。その男こそが、尾張の国を統べる若きカリスマ織田信長であった。信長はギラついた目を満月へと向け、不敵に笑った。「貴様が、おかしな絵で兵を鍛えているという、噂の『しっぽ親方』か。どれ、その真偽、俺の目の前で確かめさせてもらおう」戦国時代を揺るがす最強のスポンサーとの邂逅。満月たちの日常は、ここから一気に天下の抗争へと巻き込まれていくことになる。




