序章 そのお尻、無駄に緊張しています!
「見て、この大臀筋の完璧なカッティング……! 立ち合いの一瞬、全神経が集中したこの『溝のある肉まん』こそが宇宙の真理。――あいや、誤解しないで。私、お尻以外も普通に描けるから。ただ、私の魂がこの究極の造形以外を描くことを拒絶しているだけよ! ああ、神様、私は今、最高の尻を描いているわ……!」そこは、令和の東京の片隅にある、家賃三万八千円の薄暗いアパートの一室。尻尾満月は、ボサボサの髪を一本のヘアゴムで雑に結い上げ、液晶タブレットに向かって凄まじい速度でペンを走らせていた。彼女は、力士の絵ばかりを描き続けている極貧にして孤独な天才絵師である。とりわけ、相撲の「お尻」に対しては異常なまでの執着を持っていた。キャンバスに描かれているのは、まわしから溢れんばかりの躍動感を放つ力士の臀部。試合中の闘志みなぎる肉体を、満月は「溝のある肉まん」と呼び、我が子のように愛してやまなかった。
ピピッ。
その時、満月の世界を揺るがす無情な警告音が響いた。液晶タブレットの画面中央に、赤く点滅する不吉なアイコン。「バッテリー残量一パーセント」「嘘でしょ!? 充電器、また断線したの!? 待って、あと一筆、この大臀筋の陰影さえ描き込めば、私の『推し尻』が完成するのよ……お願い、耐えて、私の液タブちゃん!」満月は祈るようにペンを突き出した。しかし、彼女の執念が画面に届くよりも早く、液晶は静かにブラックアウトした。暗転した画面に映し出されたのは、己の限界化したオタクの顔面。「あああああ! 私の尊いお尻がァーーーッ!!」絶叫した瞬間、頭を殴られたような激しい眩暈が満月を襲った。タブレットの画面から、突如として漏れ出したのは、令和の規格を遥かに超えた謎のまばゆい光。それは濁流のように狭い部屋を飲み込み、満月の意識を完全に闇へと突き落とした。
「……う、嘘。私の部屋、いくら貧乏だからって、天井が青空になるほどボロくなかったはずだけど……?」満月が目を覚ました時、そこは畳の上ではなかった。 湿った土の匂い、生い茂る草木、そして。「オラァッ! 死ねいッ!!」「うおぉぉりゃぁぁぁっ!!」すぐ近くから聞こえる、野蛮で、地響きのような男たちの怒号。満月が跳ね起き、眼鏡を押し上げて周囲を見渡すと、そこは見渡す限りの緑に囲まれた見知らぬ山村だった。泥にまみれた粗末な直垂を着た男たちが、円の形に集まり、その中心で二人の巨漢が猛烈な勢いで殴り合い、髪を掴み合い、投げ飛ばし合っている。「な、何これ……相撲? いや、違う、これはただの殺し合いの取っ組み合い……!?」現代の洗練された大相撲のような品格もなければ、美しい型もない。ただ生き残るために肉体をぶつけ合う、極めて荒々しく、野蛮な武芸訓練。すなわち、西暦一五六〇年、戦国時代の相撲そのものだった。「ひえぇ……おら、もう駄目だだ、みんなの期待を背負ってんのに……!」円の中心で、ガタイだけは人一倍大きい一人の青年が、涙目で巨大な岩を抱え上げようとしていた。彼の名は源太。村一番の力持ちと評されながらも、その中身は驚くほど弱虫な男だった。源太は顔を真っ赤にし、全身の筋肉を これでもかと硬直させて岩を持ち上げようとしている。しかし、力任せに踏ん張ったその瞬間。「グキッ……!!」「あ痛たたたっ! 腰が、おらの腰が砕けただぁー!」源太はその場に崩れ落ち、情けなく涙をこぼした。そんな泥臭い戦国日本の光景の中で、満月の視線は、岩ではなく、源太の後ろ姿に完全にロックオンされていた。「な、何という……何という、哀れなお尻かしら……!」満月の脳内で、絵師としての美学と、抑えきれない尻フェチ魂が音を立てて大爆発を起こした。
「ちょっとあんた!!」
満月は、自分がタイムスリップしたという異常事態すら脳から締め出し、猛然と男たちの群れの中へと突進した。周囲の泥臭い男たちが「なんだこの小娘は!?」と呆気に取られるのも構わず、地面にへたり込む源太の背後に迫る。「ええっ!? 誰だあんた、見ねえ顔だだ」 「うるさい! 黙って聞きなさい!」満月は源太の褌の結び目をガシッと掴み、その肉厚な臀部を指差して大喝した。「見てみなさい、自分のこのお尻を! 緊張しすぎて、溝がこれでもかってくらい深くなっているわ! まるでガチガチに凍りついた失敗作の肉まんよ!そんなお尻じゃ、大地のエネルギーを一ミリも吸収できないわ!つまり、大地と対話できていないのよ!」「し、尻!? 肉まんってなんだべ!? おら、腰が痛くて死にそうなのに、何言って」「いいから立ちなさい! 相撲とはね、力を入れるんじゃない、抜くのよ!」満月は源太の腰に手を当て、強引にその巨体を立たせた。令和の貧乏絵師の身体からは想像もつかないような、確固たる指導者のオーラが、彼女を包み込み始めていた。「いい? 足の裏の五本の指、特に小指に全神経を集中させなさい。小指を地面にグッと絞り込むように掴むの。そうすれば、骨盤が自然と正しい位置に収まるわ。そのまま重心をじわじわと下に落として……そう、そのまま上体を低く構える! これぞ、現代相撲の神髄にして究極の脱力。平蜘蛛の構えよ!」源太は、満月のただならぬ気迫に圧倒され、言われるがままに身体を動かした。「こ、こうか……? 力を、抜く……あ、あれ? 不思議と、さっきまであれだけ痛かった腰が、すっと軽くなったような……?」「そう、それよ!筋肉で立つんじゃない、骨と重力で立つの!試合が終わったら、そのお尻の溝を綺麗に消し去りなさい。すべてを受け入れた無我の境地、それこそが真の強さなのよ!」満月は、熱弁するうちに、令和のオタク口調から、まるで何十年もちゃんこ場を仕切ってきたかのような親方様の口調へと、無意識に変貌を遂げていた。
「おい! そこらの百姓ども! 呑気に何をしておる!」
その時、村の入り口から、ギラギラとした下卑た笑みを浮かべた男たちが乱入してきた。刀を抜き、ギラついた目を光らせる山賊の偵察兵たちだ。「ヒッ、山賊だ! 逃げろ!」村人たちが一斉にパニックを起こし、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。山賊の一人が、獲物を狙う目で、まだ平蜘蛛の構えのまま固まっている源太へと突進してきた。「ガタイだけはいいデカブツめ、死ねい!」振り下ろされる鋭い白刃。「源太、恐れるな! お前の足裏は今、地球と繋がっている!そのまま腰を浮かせず、脱力した尻から一気に爆発的な推進力を生み出し突っ張りなさい(ぶちかましを放ちなさい)!!」満月の凛とした声が、恐怖で凍りつきそうだった源太の脳裏に響いた。「そうだ……おらの尻は、今、信じられないくらい軽い……!」源太は無意識に、教えられた通りの脱力した尻から、爆発的な力を前方に解き放った。「う、うおぉぉぉぉりゃぁぁぁーーーっ!!」下から上へと突き上げられる、完璧な重心移動を伴った突っ張り。
ドゴォォォォン!!!
それは、刀を持った人間が放っていい衝撃音ではなかった。山賊の男は、まともな悲鳴を上げる暇さえなく、骨の砕ける音と共に遥か十数メートル先の生い茂る木々の奥へと消し飛び、二度と動かなくなった。「へ……?」残された山賊の仲間たちは、あまりの超常的な威力に恐怖し、刀を放り出して脱兎のごとく逃げ去っていった。「おら……今、何をしたんだべ……? 刀を持った侍を、素手で……?」呆然と自分の手のひらを見つめる源太。満月は、そんな愛弟子の姿をフッと不敵に笑い、眼鏡を指でクイと押し上げた。「あんたのそのお尻を、天下に轟かせるのが私の使命よ。これからは私を親方と呼びなさい。ついてきなさい、私の尊き、原石の尻(力士)よ!」「いや、だから、さっきから何でずっと尻ベースで話進めてんだあんたーーーっ!!」一五六〇年、尾張の国。一人の変態天才絵師と、泣き虫な巨漢の出会いにより、戦国時代の歴史が「お尻」の手によって大きく歪み始めるプロローグであった。




