第六話 キリマンジャロと別れ
季節は晩秋、夕暮れ時だった。
駅前のイチョウ並木はすっかり鮮やかな黄色に染まり、冷たい風に揺られるたびに、湿った落ち葉がアスファルトを叩いている。私は肌寒さに身を縮めながら、コートのボタンを一番上まで留め直した。
約束の時間にはまだ少し早かったが、私はいつものように、駅前の古い喫茶店のドアを押し開けた。
店内は半分ほどの席が埋まっており、いつものお気に入りである窓際の席には先客がいた。マスターに促されるままに、少し薄暗い奥のテーブル席へと腰を下ろす。
ふと窓の外に目をやると、秋の短い一日はすでに終わりを告げようとしていた。ついさっきまで青さを残していた空が、急速に赤黒く濁っていく。
ポケットから携帯を取り出し、半月前に彼女と交わした、短く冷淡なメッセージの履歴をもう一度だけ読み返した。
今日、この場所で何を話すべきか、答えはとっくに決まっている。
それなのに、いざ彼女を目の前にしたとき、その言葉を淀みなく口にできるだろうかという一抹の不安が、胸の奥に澱のように残っていた。
しばらくすると扉が、小さく軋んだ音を立てて開いた。
弾かれたように顔を上げる。
そこには、紺色のコートを羽織った彼女が立っていた。
最後に会ったのは、まだ汗ばむような季節だっただろうか。すっかり冷え込んだ今日の空気に反して、彼女の首元には何も巻かれておらず、久しく見ないうちに心なしか細くなったようなその姿が、どこか寒そうに私の目に映った。
「お待たせ」
「いや、今来たところ」
彼女は私の向かいに座った。コートを脱がずに、そのまま腰を下ろした。
「寒いね」
「うん」
「もう冬みたい」
「ね」
メニューを開いた。彼女はそれを開かずに、テーブルの端に押しやった。
「私、いいよ。なんでも」
「飲まないの?」
「ううん、飲む。あなたと同じで」
私は少し迷って、それからマスターを呼んだ。
「キリマンジャロをふたつ、お願いします」
マスターが頷いて、奥に下がる。
彼女は窓の外を見ていた。
しばらく、何も話さなかった。お互い、最初の一言を相手に押し付けようとしているような、そんな沈黙だった。
「……あのさ」
「うん」
「言わなきゃいけないことがあって、今日」
「うん。わかってる」
彼女は、窓の外を見たまま言った。
「私も、たぶん同じこと、考えてた」
「……そうか」
「ならいいよ。あなたが言ってくれて」
「いや」
私は、首を振った。
「ちゃんと、言わせて」
彼女が、わずかに顔を上げた。
「……今日で、もう、終わりにしたい」
言葉にしてから、自分の声が思ったより冷たく聞こえて、少し驚いた。
五年間、何度も頭の中でこの言葉を組み立ててきたはずだった。けれど、実際に口から出てきた音は、自分の感情とほとんど関係ないところで、勝手に成立していた。
彼女は、しばらく私の顔を見ていた。
それから、短く頷いた。
「うん」
「……」
「ありがとう、ちゃんと言ってくれて」
「……ごめん」
「謝らないで」
彼女は、ようやくこちらを見た。
目が、少し赤かった。けれど、泣いていなかった。たぶん、ここに来る前に、もう泣いてきたのだと思った。
「謝られたら、私、もっとつらくなる」
「うん」
「だから、ちゃんと、終わりにしよう」
「ああ」
キリマンジャロが運ばれてきた。マスターが二つのカップをテーブルに置く。湯気が、それぞれの前に立ち上がった。
彼女は両手でカップを包んだ。
「久しぶり、これ」
「ああ」
「あなたといるときしか、頼まないから」
私は何も返せなかった。
彼女は、角砂糖を2つ入れ、ミルクを一回しして、ゆっくりとかき混ぜ始めた。
「あのね」
「うん」
「最後に、聞いてもいい?」
「ああ」
「あなた、私のこと、本当に好きだった?」
私は、少しだけ考えた。
考える、というよりは、答えがすでに自分の中にあることを、もう一度確かめた。
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
「そう」
彼女は、もう一度カップを持ち上げた。
「じゃあ、なんで奥さんと別れなかったの?」
私は、何も言えなかった。
答えは、いくつもあった。
子供がいたから、とも言えた。妻に何の落ち度もないから、とも言えた。世間体が、とも、家のローンが、とも言えた。あるいは、ただ自分が臆病だったから、とも。
どれも本当で、どれもひとつだけでは本当じゃなかった。
だから、何も言わなかった。
長い沈黙が続いた。
店内のジャズが、いつものようにノイズ混じりに流れていた。
彼女は、私の沈黙を、しばらくただ受け止めていた。
それから、ゆっくりと言った。
「あなたって、結局、私との時間を、コーヒーブレイクくらいにしか思っていなかったのよ」
「……」
「五年間もね」
「……」
「いいの。責めてるんじゃないの」
彼女はもう一口、キリマンジャロを飲んだ。
「ただ、最後に、確かめておきたかっただけ」
「……ごめん」
「だから、謝らないでって」
彼女は少しだけ笑った。けれど、目は笑っていなかった。
「あのね、知ってた?」
「うん」
「あなた、奥さんと喫茶店に来るときは、ブレンドばっかり飲んでるんだって」
私は、息を止めた。
「……どこで聞いた」
「言わない」
「いや」
「言わないわよ。私のね、最後の意地」
彼女は、ふっと笑った。
「最初に聞いたときはね、ふうん、って思っただけだった。あなたって、いつもキリマンジャロだから。奥さんの前ではブレンド派なんだって、それくらいに思って」
「……」
「でもね、何回か、何回か思い返してるうちに、わかったの」
「うん」
「私といる時はね、あなた、かっこつけてたんだって」
私は、目を伏せた。
「キリマンジャロなんて、酸っぱくて尖ってて、本当はそんなに好きじゃないでしょ?」
「……いや、好きだった」
「そうそれよ。私と会うときだけ、若い頃の自分に戻ろうとしてたのよ」
カップを握る指に、力が入っていた。
彼女は、私の手元を見ていた。
「私はね、そういうあなたの、ちょっとだけ無理してる感じが、好きだった」
「……」
「でも、それって、私のことを好きだったんじゃないのよね」
「……それは」
「あなたが、若い頃の自分に戻りたかっただけ」
私は、何かを言おうとして、言葉が出なかった。
口の中が、乾いていた。
「ごめんね、最後にこんなこと言って」
「……いや」
「でも、言わないと、私、たぶん、いつまでも自分のことが好きになれないから。前に進めないから」
「うん」
「私はあなたのこと、ちゃんと好きだったの。コーヒーブレイクじゃなくて、ちゃんと、五年間も」
「……ああ」
「そっちは、本当」
「うん」
「だから、これだけは、覚えておいてほしい」
「うん」
「忘れないで」
「忘れない」
彼女は、頷いた。
それから、立ち上がった。
コートはずっと着たままだった。
「ここは、私が」
そう言って、彼女はレジで会計を済ませた。マスターが何かを言ったが、聞こえなかった。彼女は小さく頭を下げて、扉を押した。
「あぁ、そっか。マスターか…」
軋む音がして、彼女は出ていった。
扉が閉まる瞬間、夕暮れの光が一筋、店内に差し込んだ。
それから、また、店内のジャズだけが流れていた。
私はテーブルの上のキリマンジャロを見た。
彼女が手をつけた半分残ったカップと、私のほとんど手をつけていないカップが、並んでいた。
私は自分のカップを持ち上げた。
ひと口、飲んだ。
酸味が、舌に広がった。
本当はそんなに好きじゃないでしょ?
彼女の声が、頭の中で繰り返された。
そうかもしれない、と思った。
そうかもしれない、けれど、あの頃の私は、確かにキリマンジャロが好きだった気もした。
どちらが本当なのか、もう自分でもわからなかった。
たぶん、両方とも本当だった。
キリマンジャロを、もうひと口飲んだ。
今日は、嫌な味がした。
しばらく、私はそのまま座っていた。何も考えなかった。考えようとして、考えるのをやめた。
カップの中身を、最後まで飲んだ。
私はマスターに頭を下げて、店を出た。
扉の軋む音を、自分の背中で聞いた。
外は、もうほとんど夜だった。
冷たい風が、上着の襟元から入ってきた。
駅の方を見た。
家までは、駅から二十分ほどの距離だった。妻が今日、何時に帰ってくると言っていたか、思い出そうとして、思い出せなかった。
私は、駅とは反対の方向を、しばらく見ていた。
それから、結局、駅の方へ歩き出した。
歩きながら、口の中に酸味が、まだ少し残っているのを感じた。




