第五話 ホットミルクと雪
その日は、朝から雪の予報が出ていた。
仕事は午前で終わって、午後はそのまま帰るつもりだった。けれど、駅に着いたところでちらほらと雪が降り始めて、傘を持っていなかった私は、駅前の喫茶店に駆け込んだ。
木製の扉が、軋んで閉まる。
冷たい外気と、店内の暖房が混ざる境目で、私は一度息をついた。
窓際の席が空いていた。
そこに腰を下ろして、コートを畳む。鞄から文庫本を取り出して、テーブルに置く。冷えた指先を、ゆっくりと閉じて開いた。
「いらっしゃいませ」
マスターが水を持ってきた。
「あの、今日は、ホットミルクを」
「かしこまりました」
マスターは何も聞き返さなかった。小さく頷いて、カウンターの奥に下がっていった。
文庫本を手に持った。けれど、開かずに、テーブルに伏せて置いた。
窓の外を見る。
雪が、少しずつ強くなり始めていた。アスファルトには積もらない程度の、湿った雪だった。傘を持たずに歩く人たちが、頭を雪に晒したまま駅へと急いでいた。
ホットミルクが運ばれてくる。
白い湯気が、ふわりと立ち上がった。両手でカップを包む。冷えた指先に、ぼんやりとした温かさが戻ってきた。
ひと口飲んだ。
優しい甘さが、舌の奥に広がる。
なぜ、今日はこれを頼んだのだろう、と思う。
理由を考えようとして、考えるのをやめた。何か理由があったわけでもない気がする。ただ、外が寒くて、温かくて甘いものが欲しかった、それだけのことだ。
隣のテーブルに、人の気配があった。
顔を上げると、小学生くらいの男の子が、母親と並んで座っていた。母親はスマホに集中していた。男の子は退屈そうに、ストローでオレンジジュースをぐるぐる回していた。
私はまた、視線を窓の外に戻した。
しばらくすると、母親が立ち上がる気配がした。
「ちょっと電話してくるから、ここで待ってて。動かないでね」
「はーい」
母親はスマホを手に、店の外へ出ていった。扉が軋む音がして、雪の気配が一瞬店内に入り込んだ。
男の子は、暇そうにストローをくわえていた。
と思ったら、こちらに視線が向いた。
目が合った。
私は軽く、目礼するように頷いた。
男の子はそれを、話しかけていい合図と受け取ったらしかった。
「お姉さん、何飲んでるの?」
唐突な質問だった。
「ホットミルク」
「コーヒーじゃないの?」
「うん」
「ふうん」
男の子は、自分のオレンジジュースのストローを噛みながら、私の顔をじっと見つめた。
「お姉さん、本読むの?」
「うん」
「何の本?」
「小説」
「小説ってどんな?」
「うーん、ミステリー小説。ちょっと難しいやつ」
「俺は本、苦手」
「そう」
「読んでると眠くなる」
「それはわかる」
男の子は満足そうに笑った。歯の生え変わりの最中なのか、前歯のあたりが少し不揃いだった。
「ねえ、ねえ、お姉さん」
「うん」
「コーヒー、苦いのに、なんでみんな飲むの?」
「うーん」
私は少し考えた。
「大人になると、苦いのが美味しく感じるのよ」
「ええ、なんで?」
「なんでだろうね」
「変なの」
男の子はまた笑った。
「俺、ココアが好き」
「ココアもいいよね」
「お姉さんもココアの方が好きだった?」
「子供の頃はね」
「今は?」
「今は、コーヒー」
「やっぱり大人だ」
「そうね」
男の子は、ストローでオレンジジュースをぐるぐる回し続けた。氷がカランと鳴った。
「お姉さん」
「うん」
「じゃあ、なんで今日はブレンドは頼んでないの?」
私は少しだけ、動きが止まった。
「……どうして?」
「だって、お店の人がね、ブレンドがおすすめって、さっき言ってた」
「ああ、そう」
「お姉さんも頼んだら?」
「今日は、なんかホットミルクの気分なの」
「ふうん」
男の子は首を傾げた。
「ホットミルクって、つまんなくない?」
私は思わず、ふっと笑ってしまった。
「つまんない?」
「だって、ミルクだよ?」
「そうね、ミルクね」
「もっと変わったの頼まないの?お姉さんなら、なんでも頼めるじゃん」
「ええ、なんで私なら?」
「だって、大人だから」
「ああ、なるほど」
「俺なんかさ、こういう店に来てもココアか、オレンジジュースか、メロンソーダしか飲むものない」
「メロンソーダ、いいじゃない」
「いいけどさ、たまには違うの飲んでみたいわけ」
「変な大人になりそうね、あなた」
「えー、なんで?」
男の子は不満そうに口を尖らせた。
私はホットミルクをもう一口飲んだ。優しい甘さが、また舌に広がった。
「ねえ、ねえ、お姉さん」
「うん」
「結婚してるの?」
私はカップを下ろした。
「してない」
「なんで?」
「なんでだろうね」
「お姉さん、綺麗なのに」
「ありがとう」
「うちのお母さんよりずっと綺麗」
「あら、それはお母さんに失礼よ」
「いいの、本人言わなければ」
私はまた笑ってしまった。
「あなた、ませてるわね」
「よく言われる」
「お母さんに?」
「先生にも」
「そう」
男の子はもう一度、ストローをぐるぐる回した。
「お姉さん」
「うん」
「結婚しないと、寂しくない?」
私はホットミルクの表面を見つめた。湯気がもう、ほとんど立っていなかった。
「うーん」
「寂しい?」
「どうかな」
「わかんないの?」
「わかんない」
「変な大人」
「あなたもね、いずれわかるわよ」
「何が?」
「わからない、っていう答えがあること」
男の子はぽかんとした顔で、私を見ていた。
それから、何かを諦めたように、もう一度ストローをぐるぐる回した。
扉が軋む音がした。
母親が戻ってきた。スマホを鞄にしまいながら、こちらに気づいて、軽く頭を下げた。私も会釈を返した。
「お待たせ、行こうか」
「はーい」
男の子は立ち上がりながら、こちらを振り返った。
「お姉さん、またね」
「またね」
私は手を振った。男の子も、両手をぶんぶん振り返した。
「あなたまた知らない人と話してたの?やめなさいって言ったでしょ」
「えーだってー」
「だってじゃない」
母親が「ほら、もう」と男の子の肩を押して、会計を流れるように済まし、ふたりは店の外へ出ていった。扉が軋んで閉まる。
ひとりになった。
ホットミルクは半分以上残っていた。表面に、薄く膜が張り始めている。
窓の外を見る。
雪が、もう少し強くなっていた。アスファルトの色が、白っぽく変わり始めていた。
——変な大人。
男の子の言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。
そうかもしれない、と思った。けれど、変じゃない大人とは、どんな大人なのか、わからなかった。
ホットミルクをもう一口飲んだ。
もう、ほとんど温かくなかった。けれど、最初の優しい甘さは、まだそこに残っていた。
何も考えなかった。
考えようとして、やめた。
ただ、窓の外で、雪が積もっていくのを見ていた。
しばらくして、ホットミルクを飲み干した。空になったカップをテーブルに置く。
文庫本は、結局、開かなかった。
それを鞄にしまって、コートに袖を通す。マフラーを首に巻きながら、立ち上がった。
会計を済ませて、店を出る。
外は、雪だった。
積もり始めたばかりの雪が、足元でかすかに音を立てた。
駅の方へ歩き出す。
傘はなかったので、頭に少しずつ雪が積もっていった。
冷たかった。
けれど、ほんの少しだけ、口の中にミルクの甘さがまだ残っていた。




