第四話 ブレンドと約束
真夏の午後だった。
蝉の声が、駅前の並木道で途切れなく続いている。アスファルトが熱を吸い込んで、足元から空気が歪んで見えた。
「暑い」
隣で彼女が呟いた。
「ね」
私たちは家具屋からの帰りだった。新居のソファをようやく決めて、配送日も確定した。あとは細々したものを揃えていけば、二ヶ月後の入居には間に合う。
「ちょっと休もうか」
「うん」
駅前の喫茶店の前まで来て、私は立ち止まった。
「ここ、入ったことある?」
「ううん。カズくん、よく来るの?」
「学生のときから、たまに」
「へえ」
彼女は店構えを見上げた。木製の扉、年季の入った看板。今どきあまり見ない、古い喫茶店だった。
「入ろう、入ろう」
彼女が先に扉を押した。軋む音がして、冷房の空気が顔にあたる。
カウンター席のほうに案内された。窓際のテーブル席は埋まっていた。
「いいの?カウンターで」
「うん、ここでも」
並んで腰を下ろす。彼女は鞄をスツールの脇に置いて、メニューを開いた。
「えーっと、何にしようかな」
「ゆっくり選びなよ」
「カズくんは?」
「うーん」
私は少し考えた。
「ブレンドにする」
「あ、私もそれにしよう」
「同じでいいの?」
「うん。だって、カズくんが頼むなら、美味しいんでしょ?」
彼女はくすっと笑った。
私は店員に手を上げて、ブレンドをふたつ、と頼んだ。マスターが小さく頷いて、カウンターの奥に下がっていく。
「いい店ね」
彼女が店内を見回しながら言った。
「うん」
「なんか、時間が止まってる感じ」
「そうかもね」
「カズくん、こういう店、好きそう」
「どういう意味だよ」
「えー、なんか、しぶい感じ?」
「失礼だな」
「褒めてるのよ」
彼女は笑った。私もつられて笑った。
ブレンドコーヒーが運ばれてくる。白い湯気が、ふたつ並んで立ち上がっていた。
「いただきます」
彼女は両手でカップを持って、ゆっくりとひと口飲んだ。
「美味しい」
「だろ?」
「うん、ちゃんとしてる。カズくんらしい」
「ちゃんとしてるって、なんだよ」
「えーっと、こう、奇をてらってない感じ?」
「それ、地味って言ってない?」
「言ってない言ってない」
彼女は笑いながら手を振った。
私もブレンドを飲んだ。柔らかい苦味が舌に広がる。最近、自分の好みがこういう方向に変わってきたな、と思う。学生の頃は、もっと尖った酸味を好んでいた気もする。けれど、それがいつの間にこうなったのか、よく覚えていない。
「そういえばさ」
彼女が手帳を取り出した。
「式場から、メールあったんだけど」
「うん」
「料理のコース、来週までに最終確認してって」
「あー、ね」
「お父さんね、Bコースがいいって」
「お義父さんが?」
「うん。Aは品数多すぎて、年寄りには重いって」
「なるほど」
「カズくんはどっちがいいと思う?」
「俺は、まあ、どっちでも」
「ちゃんと考えてよ」
「いや、本当にどっちでも」
「もう」
彼女は呆れたように笑った。
「お母さんはAがいいって言うのよ。せっかくのお祝いだから華やかにって」
「ご両親で割れたか」
「うん。だから、カズくんの意見が決め手になる」
「そんな大事なの?式のご飯なんてだいたい同じじゃないか?」
「そんな大事なの」
彼女は手帳のページを見せてきた。両方のコースの内容が箇条書きになっている。彼女らしい、几帳面な書き写し方だった。
「あ、ほんとだ。Aの方がボリュームありそうだね」
「でしょ?」
「うーん、これは、Bでいいんじゃないか?」
「私もそう思ってた」
「じゃあBで」
「お母さんを説得するの、頑張るね」
「俺も一緒に説得しに行くよ」
「ありがと」
彼女は手帳を閉じて、ブレンドのカップを両手で包んだ。
「あのさ」
「うん」
「結婚式が終わったら、新婚旅行どこ行く?」
「あー、まだ決めてなかったな」
「私ね、最初は近場でいいかなって思ってたの」
「近場って?」
「沖縄とか、北海道とか」
「いいじゃん」
「でも、最近思ったんだけど」
彼女はカップから顔を上げた。
「やっぱり海外、行きたい」
「海外?」
「うん。新婚のときしか、長く休めないかもしれないし」
「そうかもね」
「だからね、せっかくなら、ちゃんと遠くまで行きたい」
「どこ?」
「うーん、まだ決めてないけど。ヨーロッパとか?」
「ヨーロッパか」
「行ったことある?」
「ない」
「私もない」
彼女は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ふたりで初めて、ね」
「うん」
私もカップを持ち上げた。ブレンドはまだ温かかった。
窓際のテーブル席で、誰かが立ち上がる気配がした。振り返ると、若い男女が伝票を持って、会計に向かっていた。学生っぽい雰囲気の、二人連れだった。
「あ、席空いた」
彼女が言った。
「移る?」
「ううん、ここでいいよ」
彼女はそう言って、もう一口ブレンドを飲んだ。
「カウンターも、なんかいいね」
「そうか」
「マスターの手元、見えるし」
カウンターの中で、マスターが新しい客のために豆を挽いていた。落ち着いた、慣れた手つきだった。
「ねえ、カズくん」
「うん」
「私たち、結婚したら、ここに来よう」
「ここに?」
「うん。たまに、ね」
「いいよ」
「カズくんが学生のときから来てる店なら、私にとっても大事な店になるじゃない」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないわよ」
彼女は笑った。
「だって、これから何十年も一緒にいるんだから、思い出の場所、たくさんあった方がいいでしょ」
私は何も返さずに、彼女の横顔を見た。
夏の午後の光が、窓越しに彼女の頬を白く照らしていた。化粧が薄くて、汗で少しだけ崩れていた。それでも、笑った時の目尻のしわは、私の知っている、彼女のいつもの笑い方だった。
——この人と結婚する。
そう思った。もう決まっていることなのに、ふいに、もう一度確かめるように、そう思った。
「どうしたの?」
彼女が首を傾げた。
「いや」
「変な顔してる」
「してないよ」
「してたよ」
「気のせい」
「ふうん」
彼女はもう一口、ブレンドを飲んだ。
「美味しいね、これ」
「うん」
「これからもね、ここに来ようね」
「うん」
陽が少しだけ傾き始めていた。蝉の声は、まだ続いていた。
しばらく、ふたりで何も喋らずに、ブレンドを飲んだ。会話の途切れた時間が、不自然じゃなかった。むしろ、その沈黙が、なんとなく良かった。
「そろそろ行こうか」
「うん」
私が伝票を取って、会計に向かった。彼女は私の少し後ろをついてきた。
マスターがレジで会計を済ませてくれた。
「ありがとうございました」
頭を下げて、振り返ろうとした時、マスターが小さく言った。
「お幸せに」
私は一瞬、止まった。
聞き間違いかと思った。けれど、マスターはもう一度、今度ははっきり言った。
「お二人、お幸せに」
彼女が、目を丸くした。
「あら、わかります?」
「ええ、まあ」
「すごい」
彼女は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
私も小さく頭を下げた。
マスターは、ただ静かに頷いただけだった。
扉を開けて、外に出る。
外の熱が、いっぺんに身体を包んだ。蝉の声が、また耳に押し寄せてくる。
「びっくりしたね」
歩き出しながら、彼女が言った。
「うん」
「マスター、なんでわかったんだろう」
「さあな」
「カズくんが幸せそうな顔してたんじゃない?」
「してないよ」
「してたよ」
「だから、してないって」
「ふふ」
彼女は私の腕に、自分の腕を絡めた。
「絶対してたよ」
私は何も返さなかった。
駅の方へ、ふたりで歩いていった。
蝉の声が、まだ続いていた。




