表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
まいかっぷおぶこーひー  作者: 空腹原夢路


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/7

第三話 カモミールティーと友達

夏の盛りだった。


午後三時を回ったところで、駅前の喫茶店に入った。


冷房が効いていて、外との温度差で一瞬めまいがする。額の汗をハンカチで押さえながら、奥へ進む。


木製の扉が、私の後ろで軋んで閉まった。


待ち合わせの相手はまだ来ていなかった。窓際の席が空いていたので、そこに腰を下ろす。窓の外では、駅前のロータリーをタクシーが行き交っている。陽炎が立つほどの暑さなのに、人々はそれぞれの用事に追われて歩いていた。


「ブレンドをお願いします」


メニューを開かずに、マスターに告げる。


文庫本を鞄から取り出した。けれど、表紙を撫でただけで、開かなかった。今日は読む気にならない、というよりは、開いていられない予感があった。


ブレンドコーヒーが運ばれてくる。


久しぶりに会う相手だった。学生時代の友人。卒業してすぐに地方の男性と結婚して、それきり、年に一度の年賀状だけのやり取りになっていた。半年ほど前、彼女から短いメッセージが届いた。離婚した、東京に戻ってきた、よかったら会いたい、という内容だった。


私はすぐには返事をしなかった。一週間ほど経ってから、いつでも、と返した。


それから、また数ヶ月が経って、ようやく今日に至った。


扉が軋んだ。


顔を上げると、彼女が立っていた。


「ごめんね、待った?」


「ううん、私も今来たところ」


彼女は私の向かいに腰を下ろした。少し痩せて見える、と思った。学生時代の彼女は、もう少し肉付きがよくて、よく笑う子だった。


「ほんと外、暑すぎ」


「ね」


「東京、こんな暑かったっけ」


「年々ひどくなってるみたい」


彼女はメニューを開いて、しばらく眺めていた。


「うーん、何にしようかな」


「ゆっくりでいいよ」


「最近ね、コーヒー飲むと胃が痛くて」


「あら」


「ストレスかな」


彼女は少し笑った。私は何も言わずに、ブレンドのカップに口をつけた。


「カモミールティーにしようかな」


「いいんじゃない」


彼女は手を上げて、マスターを呼んだ。


注文を済ませて、彼女はようやくこちらを見た。


「久しぶり」


「うん、本当に」


「変わらないね、あなた」


「そう?」


「うん。学生のときと、ほとんど」


私は曖昧に笑う。変わっていないのか、変われなかっただけなのか、自分でもよくわからなかった。


「あなたは…少し痩せた?」


「ああ、最近ね。連絡した通り色々あってね」


「うん」


「食欲がね」


「そう」


彼女は窓の外に目をやった。


カモミールティーが運ばれてきた。彼女はそれを両手で包むようにして、ゆっくりとひと口飲んだ。


「美味しい」


「よかった」


しばらく、沈黙が続いた。私は何を聞いていいのかわからず、ただ自分のカップを見ていた。


やがて、彼女が口を開いた。


「あのね」


「うん」


「離婚したの、半年前」


「うん、聞いた」


「向こうの家とね、ずっとうまくいかなくて」


「そう」


「最初の二年くらいはね、頑張ろうと思ってたの。地方の暮らしも、慣れれば楽しいって、自分に言い聞かせて」


私は黙って聞いていた。


「でも、無理だった」


「うん」


「夫がね、私のことを、なんていうか、自分の家のものみたいに思ってたの。あの土地に嫁いできたんだから、こうあるべき、みたいな」


「うん」


「最初は、それも愛情だと思ってたんだけど」


彼女は少しだけ笑った。


「気づいたら、私、自分の名前で呼ばれてなかった」


「……そう」


「あの家では、私はずっと『嫁』だった。お義母さんにも、お義父さんにも、夫にも」


私は何も返せなかった。


カモミールティーの湯気が、彼女の顔の前でゆっくり立ち上っていた。


「で、最後に喧嘩したときにね、夫がぽろっと言ったの。『お前は俺のものなんだから黙って従え』って」


「……」


「冗談で言ったのか、本気だったのか、わからない。でも、その瞬間に、ああ、もう無理だなって」


彼女はカップを置いた。


「実家に戻って、半年で離婚成立した」


「そう」


私はもう一度、ブレンドに口をつけた。冷めかけた苦味が、舌に残った。


「東京、戻ってきてどう?」


「うん、今は実家にいるんだけど、そろそろ部屋探さなきゃと思って」


「仕事は?」


「探してる。ブランク長いから、なかなか難しいんだけど」


「そう」


「あなたは?」


「うん、まあ、相変わらず」


「会社、続いてるの?」


「続いてる」


「すごいね」


「すごくはないわよ。私はブレンドコーヒーみたいな人だから」


「どういうこと?」


「あ、ごめん。なんでもないの」


彼女は笑った。少しだけ、学生時代の笑い方に戻った気がした。


「あなたは、誰かいい人いないの?」


唐突に聞かれて、カップに伸ばしかけた手が、少しだけ止まった。


「いないわ」


「もうずっと?」


「ええ、ずっと」


「もったいない」


彼女は何気なく言った。


「あなた、頭いいし、本も読むし、ちゃんと働いてるし、もっと——」


「べつに、もったいなくないわよ」


声が、少しだけ強かった。


彼女が、驚いた顔をした。


私は、自分でも驚いていた。なぜそんな強さで返してしまったのか、わからなかった。


「……ごめん、なんでもない」


私は笑って、首を振った。


「気にしないで」


「ううん、私こそごめん。無神経だったね」


「そんなことない」


私はカップを持ち上げて、少し飲んだ。コーヒーはだいぶ冷えていた。


しばらく、また沈黙が続いた。


窓の外を、半袖の高校生たちが通り過ぎていく。学生時代の彼女と私もこの店をよく使った。当時、彼女には付き合っている人がいて、よくその話を聞かされた。私は聞き役だった。


今日も、聞き役だった。


「あのさ」


彼女が、少し躊躇いがちに言った。


「もし、変なこと聞いてたらごめんなんだけど」


「うん」


「あなたって、誰かを好きになることってあった?」


私はカップに視線を落とした。


「うーん」


私は少し考えた。


「あったかもしれない」


「かもしれない?」


「自分でも、よくわからない」


「そう」


「でも、それは、もう昔の話よ」


「……そう」


彼女はもう何も聞かなかった。私もそれ以上は言わなかった。


カモミールティーは、半分以上残っていた。彼女は両手でカップを包んでいるけれど、もう口はつけていない。


「あのさ」


私は話題を変えた。


「部屋探し、駅近の方がいいの?」


「ああ、うん、できれば」


「もし良ければ、不動産屋、紹介できるけど」


「本当?助かる」


「うん。仕事関係で知り合いいるから。何軒か見繕ってもらうよ」


「ありがと!」


そこからは、しばらく不動産の話をした。家賃の相場、駅からの距離、女性の一人暮らしで気をつけたほうがいいこと。彼女は熱心にメモを取っていた。


夏の午後の光が、窓越しに少し弱まり始めていた。


「そろそろ行くね」


彼女は鞄を取った。


「また連絡する」


「うん」


「今日、本当にありがとう」


「ううん」


「また会おうね」


「ええ」


彼女は手を振って、店を出ていった。扉が軋む音がして、店内が少し静かになった。


ひとり残された。


彼女のカモミールティーのカップは、半分以上残っていた。


窓の外を見る。


陽射しはまだ強かった。けれど、影の角度が少しだけ長くなっていた。


「また会おうね」と言った。彼女も「うん」と答えた。


たぶん、また会うことはあるだろう。一度や二度は。でも、学生時代のようには、もう会わない。お互い、それを薄々わかっている。


それは、寂しいことかもしれないし、ただの自然なことかもしれない。


私はブレンドの残りを飲み干した。冷めた苦味が、最後にひと口、舌に広がった。


会計を済ませて、店を出る。


外の空気が冷房で冷えた身体を瞬時に温めた。


駅の方へ歩き出す。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ