第三話 カモミールティーと友達
夏の盛りだった。
午後三時を回ったところで、駅前の喫茶店に入った。
冷房が効いていて、外との温度差で一瞬めまいがする。額の汗をハンカチで押さえながら、奥へ進む。
木製の扉が、私の後ろで軋んで閉まった。
待ち合わせの相手はまだ来ていなかった。窓際の席が空いていたので、そこに腰を下ろす。窓の外では、駅前のロータリーをタクシーが行き交っている。陽炎が立つほどの暑さなのに、人々はそれぞれの用事に追われて歩いていた。
「ブレンドをお願いします」
メニューを開かずに、マスターに告げる。
文庫本を鞄から取り出した。けれど、表紙を撫でただけで、開かなかった。今日は読む気にならない、というよりは、開いていられない予感があった。
ブレンドコーヒーが運ばれてくる。
久しぶりに会う相手だった。学生時代の友人。卒業してすぐに地方の男性と結婚して、それきり、年に一度の年賀状だけのやり取りになっていた。半年ほど前、彼女から短いメッセージが届いた。離婚した、東京に戻ってきた、よかったら会いたい、という内容だった。
私はすぐには返事をしなかった。一週間ほど経ってから、いつでも、と返した。
それから、また数ヶ月が経って、ようやく今日に至った。
扉が軋んだ。
顔を上げると、彼女が立っていた。
「ごめんね、待った?」
「ううん、私も今来たところ」
彼女は私の向かいに腰を下ろした。少し痩せて見える、と思った。学生時代の彼女は、もう少し肉付きがよくて、よく笑う子だった。
「ほんと外、暑すぎ」
「ね」
「東京、こんな暑かったっけ」
「年々ひどくなってるみたい」
彼女はメニューを開いて、しばらく眺めていた。
「うーん、何にしようかな」
「ゆっくりでいいよ」
「最近ね、コーヒー飲むと胃が痛くて」
「あら」
「ストレスかな」
彼女は少し笑った。私は何も言わずに、ブレンドのカップに口をつけた。
「カモミールティーにしようかな」
「いいんじゃない」
彼女は手を上げて、マスターを呼んだ。
注文を済ませて、彼女はようやくこちらを見た。
「久しぶり」
「うん、本当に」
「変わらないね、あなた」
「そう?」
「うん。学生のときと、ほとんど」
私は曖昧に笑う。変わっていないのか、変われなかっただけなのか、自分でもよくわからなかった。
「あなたは…少し痩せた?」
「ああ、最近ね。連絡した通り色々あってね」
「うん」
「食欲がね」
「そう」
彼女は窓の外に目をやった。
カモミールティーが運ばれてきた。彼女はそれを両手で包むようにして、ゆっくりとひと口飲んだ。
「美味しい」
「よかった」
しばらく、沈黙が続いた。私は何を聞いていいのかわからず、ただ自分のカップを見ていた。
やがて、彼女が口を開いた。
「あのね」
「うん」
「離婚したの、半年前」
「うん、聞いた」
「向こうの家とね、ずっとうまくいかなくて」
「そう」
「最初の二年くらいはね、頑張ろうと思ってたの。地方の暮らしも、慣れれば楽しいって、自分に言い聞かせて」
私は黙って聞いていた。
「でも、無理だった」
「うん」
「夫がね、私のことを、なんていうか、自分の家のものみたいに思ってたの。あの土地に嫁いできたんだから、こうあるべき、みたいな」
「うん」
「最初は、それも愛情だと思ってたんだけど」
彼女は少しだけ笑った。
「気づいたら、私、自分の名前で呼ばれてなかった」
「……そう」
「あの家では、私はずっと『嫁』だった。お義母さんにも、お義父さんにも、夫にも」
私は何も返せなかった。
カモミールティーの湯気が、彼女の顔の前でゆっくり立ち上っていた。
「で、最後に喧嘩したときにね、夫がぽろっと言ったの。『お前は俺のものなんだから黙って従え』って」
「……」
「冗談で言ったのか、本気だったのか、わからない。でも、その瞬間に、ああ、もう無理だなって」
彼女はカップを置いた。
「実家に戻って、半年で離婚成立した」
「そう」
私はもう一度、ブレンドに口をつけた。冷めかけた苦味が、舌に残った。
「東京、戻ってきてどう?」
「うん、今は実家にいるんだけど、そろそろ部屋探さなきゃと思って」
「仕事は?」
「探してる。ブランク長いから、なかなか難しいんだけど」
「そう」
「あなたは?」
「うん、まあ、相変わらず」
「会社、続いてるの?」
「続いてる」
「すごいね」
「すごくはないわよ。私はブレンドコーヒーみたいな人だから」
「どういうこと?」
「あ、ごめん。なんでもないの」
彼女は笑った。少しだけ、学生時代の笑い方に戻った気がした。
「あなたは、誰かいい人いないの?」
唐突に聞かれて、カップに伸ばしかけた手が、少しだけ止まった。
「いないわ」
「もうずっと?」
「ええ、ずっと」
「もったいない」
彼女は何気なく言った。
「あなた、頭いいし、本も読むし、ちゃんと働いてるし、もっと——」
「べつに、もったいなくないわよ」
声が、少しだけ強かった。
彼女が、驚いた顔をした。
私は、自分でも驚いていた。なぜそんな強さで返してしまったのか、わからなかった。
「……ごめん、なんでもない」
私は笑って、首を振った。
「気にしないで」
「ううん、私こそごめん。無神経だったね」
「そんなことない」
私はカップを持ち上げて、少し飲んだ。コーヒーはだいぶ冷えていた。
しばらく、また沈黙が続いた。
窓の外を、半袖の高校生たちが通り過ぎていく。学生時代の彼女と私もこの店をよく使った。当時、彼女には付き合っている人がいて、よくその話を聞かされた。私は聞き役だった。
今日も、聞き役だった。
「あのさ」
彼女が、少し躊躇いがちに言った。
「もし、変なこと聞いてたらごめんなんだけど」
「うん」
「あなたって、誰かを好きになることってあった?」
私はカップに視線を落とした。
「うーん」
私は少し考えた。
「あったかもしれない」
「かもしれない?」
「自分でも、よくわからない」
「そう」
「でも、それは、もう昔の話よ」
「……そう」
彼女はもう何も聞かなかった。私もそれ以上は言わなかった。
カモミールティーは、半分以上残っていた。彼女は両手でカップを包んでいるけれど、もう口はつけていない。
「あのさ」
私は話題を変えた。
「部屋探し、駅近の方がいいの?」
「ああ、うん、できれば」
「もし良ければ、不動産屋、紹介できるけど」
「本当?助かる」
「うん。仕事関係で知り合いいるから。何軒か見繕ってもらうよ」
「ありがと!」
そこからは、しばらく不動産の話をした。家賃の相場、駅からの距離、女性の一人暮らしで気をつけたほうがいいこと。彼女は熱心にメモを取っていた。
夏の午後の光が、窓越しに少し弱まり始めていた。
「そろそろ行くね」
彼女は鞄を取った。
「また連絡する」
「うん」
「今日、本当にありがとう」
「ううん」
「また会おうね」
「ええ」
彼女は手を振って、店を出ていった。扉が軋む音がして、店内が少し静かになった。
ひとり残された。
彼女のカモミールティーのカップは、半分以上残っていた。
窓の外を見る。
陽射しはまだ強かった。けれど、影の角度が少しだけ長くなっていた。
「また会おうね」と言った。彼女も「うん」と答えた。
たぶん、また会うことはあるだろう。一度や二度は。でも、学生時代のようには、もう会わない。お互い、それを薄々わかっている。
それは、寂しいことかもしれないし、ただの自然なことかもしれない。
私はブレンドの残りを飲み干した。冷めた苦味が、最後にひと口、舌に広がった。
会計を済ませて、店を出る。
外の空気が冷房で冷えた身体を瞬時に温めた。
駅の方へ歩き出す。




