第二話 カフェオレと雨
梅雨が長引いていた。
最近の梅雨は肌寒いということがなく、夏の気候のような暑さを伴う梅雨だった。
駅前の喫茶店に入ったのは、約束の十分前だった。
木製の扉が軋む。壁際のスピーカーから流れるジャズは、相変わらずノイズ混じりだった。
マスターに待ち合わせなので、相手が来たら注文しますとだけ告げ、奥のテーブル席に腰を下ろした。
濡れた鞄を椅子の脇に置いて、ネクタイを整える。窓の外を見ると、また雨脚が強くなっていた。
少しすると、また扉の軋む音が店内に響いた。
「いやいや、お待たせしました」
頭を下げながら、相手の男性が席に着く。
取引先の印刷会社で、業界では中堅どころの中堅、というあたり。私の所属する広告代理店とは、もう長年の近い付き合いになる、らしい。私が担当になってからは三年目だ。
「いやあ、降りますね」
「ええ、本当に」
「電車も少し遅れてましてね」
「お気になさらず」
私はメニューを差し出す。男性は眼鏡を額に上げて、少し離して眺める。
「うーん、私はカフェオレで」
「私はキリマンジャロを」
注文を取りに来たマスターに伝える。マスターは小さく頷いて、カウンターの奥に戻っていく。
今日の打ち合わせは、ある企業に提案しにく制作物の擦り合わせだった。
「ええ、はいはい。これが試し刷りしたやつです」
「なるほど。印刷するとだいぶ明るく見えますね」
「今回は光沢が欲しいって要望だったんでね。一応サンプルでこのパターンも。私的にはこっちの方が色気があって好きですがね」
「確かにこっちの方が落ち着いていて高級感ありますね」
「まぁ、ここら辺は相手さんの好みなんでね。お任せしますわ」
「そうですよね。一旦持ち込んでみます」
カフェオレとキリマンジャロが運ばれてくる。男性は砂糖を二本、ミルクを一つ加えて、長いことかき混ぜていた。
そこからは、三十分もかからなかった。
「いやあ、助かりますよ。お宅の若い人はみんな優秀で」
「いえ、全くそんなことはないですよ」
「うちの若いのなんて、直接会うのが苦手なのか全部メールでしかやり取りしないんですよ。まったく困ったもんですわ。だから、こうやって私が外に出てるんですよ。いまだに。」
私は曖昧に笑う。
「あれ、そういえば結婚はされてたんでしたっけ?」
唐突に聞かれて、少し驚く。
「いえ、まだですね」
「いいなあ、自由でいいでしょ。うちは嫁がうるさくてうるさくて」
「自由ではありますね」
「私は君と同じくらいの歳のときに結婚したんですよ。早まったねえ、今思うと」
「そうですか」
「今思えばね。あのとき、もう少し遊んでおけばよかったかもなあって思うんですわ」
男性はそう言って、少し笑う。けれど目は笑っていない、というほどでもない。なんとなく、習慣でそういうことを言っているような響きだった。
私は何も返さない。返しようがない。
「仕事の方は順調ですか」
「ええ、おかげさまで」
「いいですねえ。私が君の年の頃はね、この業界も全然違いましたよ」
そこから、男性は若い頃の話を始めた。
ばらばらと、順不同に。誰々という当時の上司の話、当時の広告業界の景気、初任給で買ったスーツの話、入社三年目で担当した広告案件の話。
私は適度に相槌を打つ。
「いやでも、今の若い人は大変ですよ、本当に」
「そうでしょうか」
「だって、情報量がすごいでしょ。私らの頃は、もっとこう、感覚で動けたというかね」
「ええ、まあ。確かに色々と動きが早いですよね」
「私なんてもう引退ですわ」
「いやいや、まだ現役じゃないですか」
男性は笑った。
私は何と返していいかわからず、カップを持ち上げる。キリマンジャロの酸味が、舌に広がる。
窓の外で、雨脚がさらに強くなっている。
しばらく沈黙が続いた。男性は携帯を取り出して、何かを確認している。
「すみません、もう少しいいですか」
「ええ、もちろん」
「電車が遅れてるみたいでね」
男性は携帯を置いて、ふっと息をついた。
「いやあ、参りますわ」
「ええ」
「あ、もう一杯、いただきますか」
「ええ」
私は手を上げて、マスターを呼ぶ。
「カフェオレをもう一杯」
「私もキリマンジャロをおかわりで」
マスターが頷いて去っていく。
男性はまた窓の外を見ていた。
「……いやあ、こうやって雨の日にね、喫茶店に閉じ込められるのも、悪くないですよ」
「そうですね」
「君みたいな歳の頃はね、こういう時間が無駄に思えてね」
「はあ」
「でも、この年になるとね。こういう時間こそ本質なんじゃないかってね」
私は曖昧に頷く。
二杯目が運ばれてきた。男性はまた砂糖を二本、ミルクを一つ。今度はかき混ぜずに、ゆっくりと一口飲んだ。
「うん、ここの珈琲、美味いですね」
「ええ、私もよく来ます」
「ほう、お気に入りで」
「はい。家からも近いので」
「ああ、なるほどね。それはいいですね。良い店が近くにあるだけで人生が豊かになる」
「ええ、まあ」
携帯がまた振動して、男性は画面を確認する。
「お、電車、動き出したみたいですわ」
「そうですか」
「じゃあ、これ飲み終わったら出ますわ」
「ええ、お気をつけて。私は少しだけ作業してから出ます」
男性は携帯をしまって、もう一口、カフェオレを飲んだ。
「いやあ、なんだか、しみじみしちゃいましたね」
「ええ」
「すみませんね、歳取ると、どうもこういう話ばかりでね」
「いえ、色々なお話が聞けて楽しかったです」
「まぁ、君も、私の歳になったらわかりますよ」
私は笑って、首をかしげる。
「どうでしょうね」
男性は少し笑った。
しばらくして、雨脚が少しだけ弱まった。
男性は腕時計を確認して、立ち上がる。
「じゃあ、私はそろそろ」
「ええ、本日はありがとうございました。私は少しだけ、ここで作業していきます」
「こちらこそ。じゃあ、またよろしく頼みますわ」
私が伝票を取ろうとしたが、男性が先に取った。
「いや、ここは私が」
「いやいや、悪いですよ」
「会社の経費で落とすだけなんでね。ここは持たせてください」
「そうですか、じゃあ、お言葉に甘えて」
男性は伝票と鞄を持って、軽く手を上げる。
「ではまた」
「ええ。ありがとうございました。」
会計を済ませた後に、扉を軋ませ、男性は出ていった。
雨脚が、また少し強くなった。
カフェオレのカップは、半分ほど残されていた。私のキリマンジャロも、まだ少し残っている。
窓の外を見る。傘を差した人が、駅の方へ早足で歩いていく。
私はキリマンジャロを一口飲んだ。
冷め始めた酸味が、舌に広がる。
「やっぱ。ここのコーヒーはブラックに限るよな」
独り言を呟きながら、パソコンを開く。
雨の音と、ジャズの音と、自分の珈琲の温度だけが、しばらく私のまわりにあった。
作業を終え、席を立つ。
雨は、まだ降っていた。
傘を差して、駅の方へ歩き出す。
濡れた靴の中で、足の指が冷たかった。




