第一話 ブレンドとキリマンジャロ
大学の講義を終えるころには、夕方の光がキャンパスの窓を斜めに染め始めていた。
春と夏の境目みたいな生ぬるい風が吹いていて、眠気を誘う気候だった。
彼女と駅前の喫茶店へ入るのは、いつの間にか習慣になっていた。
古い店だった。木製の扉は少し軋むし、壁際のスピーカーから流れるジャズはときどきノイズ混じりになる。けれど、薄暗い照明と珈琲の匂いは妙に落ち着いた。
窓際の席に腰を下ろす。
彼女は鞄から文庫本を取り出しかけて、僕を見ると諦めたように閉じる。
「なに、その顔」
「いや。今日も読む気だったんだなと思って」
「誰かさんが話しかけてくるから無理だけど」
「感謝してほしいけどね。君の退屈な人生に彩りを与えている」
「ノイズの間違いでは?」
30前後の髭が似合うすらっとしたマスターが水を置いて去っていく。グラスの表面を汗が伝い、小さな水溜まりを作った。
メニューを開きながら、僕は言った。
「君の選ぶ珈琲って、本当に君らしいよな」
「また始まった」
彼女は呆れたように視線を落とす。
「ブレンド。無難で、安定感重視で、面白みがない」
「悪かったわね」
「もっと冒険心を持つべきだ。人生には刺激が必要だ」
「あなたみたいに遅刻ギリギリで生きるのは御免だわ」
「スリリングと言ってほしいな」
「周囲は疲れるのよ」
彼女は即答した。
……こういうところだ。
こちらが投げた球を、絶妙に嫌な角度で打ち返してくる。
僕はメニューを閉じた。
「僕はキリマンジャロ」
「聞いてない」
「尖っていて、誇り高く、孤高」
「酸味が強くて人を選ぶ、の間違いじゃない?」
「凡人には理解されにくい魅力というものがある」
「冷めた瞬間に捨てられる魅力ね」
ぐ、と言葉が詰まる。
彼女は小さく肩を揺らした。笑っている。
窓の外では、部活帰りらしい高校生たちが自転車を押して通り過ぎていく。西日がガラス越しに射し込み、彼女の髪の輪郭を薄く赤く染めていた。
店内に、珈琲豆を挽く低い音が響く。
「でも」
彼女がメニューを閉じながら言った。
「結婚するなら、ブレンドみたいな人がいいわ」
「……じゃあ、恋人にするならキリマンジャロ?」
言ってから、少し踏み込みすぎた気がした。
彼女も気づいたらしい。
一瞬だけ目が合う。
けれど彼女はすぐに視線を外し、水のグラスを持ち上げた。
「違うわね」
「違うのか」
「私はカフェモカみたいな恋がいいの」
「甘ったるいな」
「苦くてすっぱいだけの人にはわからないでしょうね」
「そもそも君、そんなキャラだった?」
「失礼ね。私だって甘いものくらい好きよ」
「じゃあなんで毎回ブレンドなんだ」
彼女は少しだけ考えて、それから窓の外へ目を向けた。
「毎日カフェモカだったら、甘さに慣れるでしょ」
静かな声だった。
店の奥でカップが触れ合う音がした。
「甘いものって、たまにだからいいのよ」
その言い方が妙に大人びていて、僕は返事に詰まる。
たぶん彼女は、珈琲の話だけをしていなかった。
「……君が、甘い恋ねえ」
なんとか絞り出した言葉に、彼女はすぐ反応した。
「意外?」
「いや」
嘘だった。かなり意外だった。
彼女は講義中も淡々としていて、昼休みは一人で本を読み、飲み会にも来ない。感情を表に出すことが少ない。
だから勝手に、恋愛にも興味がないタイプだと思っていた。
「でもまあ」
彼女がお手拭きを弄びながら続ける。
「キリマンジャロみたいな、刺激もたまには欲しいかも」
にや、と口角が上がる。
完全に、こちらの反応を楽しんでいた。
「……君はずるい」
「あなたが勝手に引っかかってるだけ」
ちょうどそのタイミングで珈琲が運ばれてきた。
ブレンドの柔らかな香り。
キリマンジャロの少し鋭い酸味。
白い湯気が、夕暮れ色の空気にゆっくり溶けていく。
僕らは同時にカップへ手を伸ばし、同時に止まった。
妙な沈黙だった。
先に飲んだほうが負けるみたいで、なんとなく動けない。
耐えきれず、僕は話題を変える。
「しかし君、本当に退屈な生活してるよな」
「またそれ?」
「講義受けて、本読んで、真っ直ぐ帰るだけ。友達付き合いもほぼなし」
「あなたに合わせてたら身体がいくつあっても足りないもの」
「僕は刺激的な人生を謳歌してるだけだ」
「この前、誰が教授に頭下げたと思ってるの?」
「……」
「寝坊して出席カードだけ頼んできた人、誰だったかしら」
痛い。
僕は咳払いして視線を逸らした。
「あとノートも毎回借りてるわね」
「それは君のノートが誰よりも綺麗だから」
「褒めても無駄よ」
「チッ」
彼女はふっと笑って、ブラックを一口飲んだ。
その横顔を見て、僕はふいに思う。
——たぶん僕は、この時間が好きなのだ。
「……でもさ」
気づけば、口が先に動いていた。
「君は安定してるんじゃない」
彼女がこちらを見る。
「変わるのが怖いだけだろ」
言った瞬間、少し後悔した。
また、踏み込みすぎた。
彼女はカップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
「……変わるのが、怖い、ね」
繰り返すような言い方だった。
「随分と踏み込んでくるじゃない」
「悪い」
「いいわよ。図星だし」
彼女はそこで一度言葉を切って、それから小さく笑った。
スプーンが、かすかに触れて音を立てた。
店内のジャズだけが流れている。
やがて彼女は、小さく息をついた。
「だって、変わった先で失敗するくらいなら、退屈なほうが安全だもの」
僕は何も言えなくなる。
夕日が、彼女の頬を赤く染めていた。
「でも」
彼女は続ける。
「あなたみたいなのを見てると、たまに羨ましくなるのよ」
「僕?」
「無茶苦茶なくせに、楽しそうだから」
「それは褒めてる?」
「半分くらいは」
僕は照れ隠しみたいに珈琲を飲んだ。
酸味が舌に広がる。
「安心しろ」
僕はカップを置いた。
「君みたいな退屈な人間にも、ちゃんと長所はある」
「なにそれ」
「君いると、なんていうか……変にやりすぎなくて済むんだよ」
彼女が瞬きをする。
「……つまり?」
「いや、うまく言えない」
「それ、口説いてるつもり?」
「まさか」
「ならいいけど」
彼女は笑った。
さっきより柔らかい笑い方だった。
窓の外では、夕暮れがゆっくり夜へ沈み始めている。
「……でも」
彼女はブレンドを飲みながら、静かに言った。
「酸っぱい珈琲も、案外癖になるのよね」
「そうか」
「明日はキリマンジャロにしてみようかしら」
僕は少し考えてから頷く。
「じゃあ僕は、明日ブレンドにしてみる」
「似合わない」
「失礼だな」
また目が合った。
今度はどちらもすぐには逸らせなかった。
店内の時計が、静かに秒を刻んでいる。
やがて彼女が先に視線を外し、小さく息を吐いた。
「……ほんと、ずるい」
「お互い様だろ」
僕らは同時にカップを持ち上げる。
勝敗は、今日もつかない。
けれどブラックのはずの珈琲は、喉を通るころには、砂糖を入れた後よりずっと甘くなっていた。
こちらは以前書いた短編の長編バージョンとなります。
この作品はゆっくりと進めていきます。
よろしくお願いいたします。




