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まいかっぷおぶこーひー  作者: 空腹原夢路


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第七話 まいかっぷおぶこーひー

春と夏の境目みたいな、生ぬるい風が吹いていた。


街路樹の若葉が、その風に揺れている。葉と葉が触れあう音が、駅前のロータリーのほうから、かすかにこちらまで届いていた。


その日も私は、駅前の喫茶店に立ち寄った。


午後の遅い時間。夕方の光が窓を斜めに染め始めるくらいの頃。仕事帰りに、なんとなくこの店に寄る習慣だけが、いつの間にか身についていた。


何年通ったか、もう数えていない。数える必要もなかった。私の人生のどこか深いところに、この店の珈琲の匂いと、扉の軋む音と、ノイズ混じりのジャズが、いつの間にか沁み込んでいた。


歳を取るというのは、たぶん、そういうことなのだろうと思う。新しい場所が増えるのではなく、同じ場所の同じ匂いが、自分の身体の奥にゆっくり積み重なっていく。


いつもの窓際の席は、若いカップルに埋まっていた。


男の子が何か冗談を言って、女の子が呆れたように肩を竦めている。声は聞こえないけれど、その仕草のリズムだけが、なんとなくこちらまで届く。


私はカウンター席に腰を下ろした。窓際でなくても、別に困ることはなかった。ただ、なんとなく、いつもと違う席に座るというだけで、自分の身体の収まりが、少しだけ落ち着かなかった。


「ブレンドをお願いします」


マスターは小さく頷いて、豆を挽き始めた。


カウンター越しに、マスターの手元が見えた。歳を取ったマスターの指は、それでも昔と変わらない速さで動いていた。あるいは、変わっているのかもしれない。私にはもう、判別がつかなかった。


文庫本を鞄から取り出した。ミステリーの新刊で、半分ほど読み進めたところだった。カウンターは少し狭いけれど、本を開く分には十分だった。


ブレンドコーヒーが運ばれてきた。両手でカップを包む。湯気が、ゆっくり立ち上がる。


店内には、ノイズ混じりのジャズがいつものように流れている。木製の扉、薄暗い照明、珈琲の匂い。何ひとつ変わらない店だ。私の方ばかりが、いつの間にか、どんどん歳を取っていく。


しばらく、本を読んでいた。


途中までは、確かに文字が頭に入っていた。けれど、ある段落で、急に視線が止まった。


ページに目を落としたまま、私は何も読んでいなかった。


なんとなく、息を吸って、吐いた。


それから、また本に戻った。


扉が、軋んで開いた。


私は本に視線を落としたまま、新しい客の気配だけを感じていた。


その客は、しばらく店内を見回している様子だった。窓際の席を、たぶん探していたのだろう。けれど、そこは埋まっていた。


足音が、こちらに近づいてきた。


そして、私の隣の、カウンター席に腰を下ろした。


「すみません」


低い、少し掠れた声がした。マスターに向けた声だった。


「キリマンジャロを」


キリマンジャロ。酸味が強くて人を選ぶコーヒー。


自分の手元にあるブレンドを眺めながら、どこか懐かしさを感じていた。


やがて、男の前にキリマンジャロが運ばれてきた。


「今日はキリマンジャロなんですね」


カウンターの向こうで、マスターが静かに声をかける。


「ええ。ブレンドは、ほら、つまらないから」


「先日はブレンドをお飲みになっておりましたのに」


「つまらない自分になりたいこともあるんですよ」


私は、文庫本のページをめくる指を、ぴたりと止めた。


知らない男性の声のはずだった。


けれど、その話し方と声の響き方を、私はよく知っていた。


ゆっくりと、本から顔を上げた。


少し髪が薄くなって、目尻に深い皺が刻まれて、上着の肩のあたりには歳相応の疲れが滲んでいる。それでも、私はその顔を知っていた。


男は、こちらを見なかった。


カウンターに肘をついて、ただ前を見ていた。マスターの手元が、ガラスの瓶に映って、小さく動いていた。


私は、本を膝の上に置いた。


少しだけ、姿勢を直した。


それから、また本を持ち上げた。指先で、ページの端を、何度か無意味に撫でた。


胸の奥で、何かがゆっくり動いていた。それが何なのか、自分でもわからなかった。驚きでもないし、喜びでもない。たぶん、もっと静かなもの。


男はカップを持ち上げた。けれど、すぐには飲まなかった。湯気の奥に、何かを探すような目をしていた。


その姿を見ながら、私はコーヒーをゆっくりと口に含んだ。


ブレンドのマイルドでバランスの良い風味が、鼻腔に抜けていく。


「貴方は、何をお飲みに?」


不意に、隣から声が掛けられた。


「ええ?」


「いや、随分とコーヒーを堪能しているように見えたので」


「ブレンドです。ここのブレンド、美味しいので」


「つまらない選択だ」


私の指が、文庫本の表紙を、少し強く握った。


男は、軽い口調で続けた。


「コーヒー屋に来てブレンドって、なんていうか、冒険心がないというか。そう思いません?」


共感を求めるような響きだった。


「ここには色んな豆がある。それにもかかわらず、あえて特徴を消すようなブレンドを選ぶのは、冒険心がない」


私はふふと笑い、男の顔をじっと見た。


男は、私の視線の意味がわからないのか、怪訝な表情を浮かべていた。


三十年。


そう思った。


三十年経っても、この人は同じことを言うのか。


そのとき、カウンターの中から、マスターの声がした。


「ベースとしては、そういう一面もありますが」


男が、視線をマスターに向けた。


「ですがお客様、結婚するなら、ブレンドを選ぶ方がいいですよ」


店内のジャズの音が、一瞬だけ遠くなった気がした。


私は息を止めて、マスターを見た。


マスターは、こちらを見ていなかった。新しい豆を量りながら、淡々と続けた。


「ブレンドは、無難で、安定感があって、面白みがない。だからこそ、長く飲める。当店のブレンドは『飽きさせないこと』をコンセプトにしておりますので」


男は、しばらくマスターの手元を見ていた。


それから、不思議そうに首を傾げた。


「……マスター、それ、誰かの受け売りですか」


「さあ、どうでしょうか。随分前に、誰かが言っていたような気がしますが」


マスターは、最後まで顔を上げなかった。


豆を挽く低い音が、店内に響き渡る。


男は、ゆっくりと私の方に視線を戻した。


何かを考えている顔だった。けれど、何を考えているのか、まだ自分でもわかっていない、そんな顔だった。


私は、唇を一度、軽く湿らせた。


「……ブレンドが、無難で、安定感重視で、面白みがないって」


私の声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。


「それ、ずいぶん前に私も、誰かに言われた気がするわ」


男の動きが、完全に止まった。


「……」


「もっと冒険心を持つべきだ、人生には刺激が必要だ、ってね」


男は、何かを言おうとして、口を開きかけた。


「でも、私はギリギリで生きるのは御免だわ」


そして、その口が、記憶に導かれるように勝手に動いた。


「……それは、スリリングと言ってほしいな」


言ってから、男は自分で驚いたように目を見開いた。


私は、笑いそうになった。


笑わずに、こう返した。


「周囲は疲れるのよ」


男が、強くまばたきをした。


「……」


「本当に変わらないわね」


男は、私の顔をじっと見つめた。


何かを掴みかけて、けれど、まだ掴みきれていない目だった。


「あの……」


「うん」


「失礼ですが、どこかで」


「どこかで?」


「……いえ」


男は、小さく首を振った。


「気のせいでした、すみません」


「そう」


私は、ブレンドのカップに手を伸ばした。指先の冷たさが、少しずつ戻ってきていた。


ひと口飲んだ。


コーヒーは冷め始めていた。けれど、嫌な味はしなかった。


男が、まだこちらを見ていた。


「あの」


「うん」


「もしかして、笑ってます?」


「べつに」


「いや、笑ってますよね」


「気のせいよ」


「絶対笑ってる」


男は、少しムキになった顔をした。


その顔を見たとき、私はようやく、本当に笑ってしまった。


声を出して笑ったわけではなかった。ただ、口の端が、どうしても勝手に上がってしまったのだ。


この人は変わっていない。


本当に、何ひとつ、変わっていなかった。


たぶん、私もそうなのだろう、と思った。


男は、まだ何かを掴みかけたまま、私の顔を見ていた。


「あの……ほんとに、お会いしたこと、ないですか」


「さあ、どうかしらね」


「……」


男は、ようやく自分のキリマンジャロを、ひと口飲んだ。


「……酸っぱいな」


「そうね」


「好きだったはずなのにな」


「そう」


「最近、全然口に合わない。でも、なぜか頼んでしまう…」


「そう」


「……なんで今日、これ頼んだんだろう」


「さあ。人生に刺激が足りないんじゃないかしら」


男は、もう一口飲んだ。


私も、ブレンドを飲んだ。


ふたつのカップから立ち上がる湯気が、カウンターの上で、ゆっくりと混ざり合っていった。


窓の外の光が、少しずつ、鮮やかな赤みを帯び始めていた。


「……ん?」


男が、ぽつりと言った。


「カフェモカ……」


「……なんのことかしら」


私はそう返した。


それ以上、ふたりとも、何も言わなかった。


私は、文庫本をもう一度、開こうとして、やめた。


たぶん、今日は、もう読まない。


あの夕暮れの私は、カフェモカみたいな恋がいいと、確かに言った。それは、たぶん、目の前のこの人にだけ伝えた、ささやかな秘密だった。


それが、今、三十年の長い遠回りを経て、この人の口の端に、たったひと言だけ戻ってきている。


それでもう、十分なのかもしれない、と思った。


これからふたりがどうなるのかは、わからなかった。たぶん、何も起きないのかもしれない。今日この席で、この時間で、それきりかもしれない。それとも、何かが少し変わるのかもしれない。


どちらでもよかった。


長い時間をかけて、結局ふたりは、すぐ隣に並んで、それぞれの珈琲を飲んでいる。


ただ、それだけのことだ。


彼が今までどんな人生を歩んできて、今どんな生活をしているのかも知らない。


変われない私と彼と、変わらないコーヒーの味。


男は、何も言わずに、自分のカップを見つめていた。


店内のジャズだけが、いつものように、ノイズ混じりで流れ続けていた。

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