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受け継がれるもの ――母になれなかった叔母が、ふたりの親になった話――  作者: リフェリア


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第九話 夜に聞いた声

 その夜、詩稀は久しぶりに、少しだけまともな夕食を作った。


 会社から戻ったあと、炊き込みご飯の残りを温め直し、冷蔵庫の野菜で味噌汁を作り、卵焼きを焼いた。手間のかからないものばかりだったが、それでも香澄と和樹の前に三品並べると、食卓がほんの少しだけ“普通の家”に近づく気がした。


 香澄は「いただきます」と言ってから箸を持ち、和樹も小さな声で続いた。


 食べる速度はまだ遅い。けれど、最初の頃のように途中で止まってしまうことは少なくなっていた。詩稀は二人の様子を見ながら、自分も味噌汁を口に運ぶ。


「明日も、朝は私が起こすからね」


 そう言うと、香澄が少しだけ顔を上げた。


「……はい」


「夜、眠れなかったら無理に寝ようとしなくていいよ。寝られない時は、寝られないって言って」


 和樹が箸を止めた。言葉にするのは難しいらしく、ただ一度だけ頷く。


 詩稀はそれ以上、無理に話を広げなかった。


 今の二人に必要なのは、正しい言葉ではなく、多分、当たり前の約束を何度も繰り返すことなのだ。朝は起こす。ご飯はある。帰れば人がいる。そういう、ごく小さな確認を積み上げること。


 夕食のあと、香澄が食器を下げようとしたので、詩稀は一緒に流しまで運んだ。和樹はリビングの端で座ったまま、テレビも見ずにこちらを見ている。


「二人とも、今日は早めに寝ようか」


 そう促すと、香澄は素直に頷いた。和樹も、今日は珍しく反発しなかった。


 寝室に布団を敷き、歯を磨かせ、電気を落とす。香澄は横になったあとも目を閉じるまで時間がかかったが、それでも昨日よりはましだった。和樹は詩稀の袖を掴んだまま、しばらくしてから浅い眠りに落ちた。


 詩稀は二人の呼吸がようやく揃ってきたのを確認して、静かに寝室を出た。


 リビングの灯りは落とさず、ソファに座る。病院でもらった痛み止めを飲み、水を一口だけ含む。背中はまだ重い。額の縫合した箇所も、時々思い出したように疼いた。


 けれど今夜は、身体の痛みより考えることの方が多かった。


 会社のこと。

 専務と部長の言葉。

 明日、会社側が出してくるという選択肢。

 そして、香澄と和樹。


 この子たちを守る、と口にするのは簡単だ。だが、実際に生活を引き受けるというのが何を意味するのか、まだ自分にも全部は分かっていない。


 分かっていないままでも、時間だけは進んでいく。


 そのことに疲れて、詩稀がソファにもたれかけた時だった。


 インターホンが鳴った。


 夜の静けさの中で、その音は思った以上に大きかった。


 詩稀はとっさに時計を見る。十時を少し回っている。


 こんな時間に、と思いながらモニターを見ると、そこに映っていたのは燈だった。


 詩稀は一瞬だけ息を止めた。


 化粧はほとんど落ち、髪も乱れている。コートだけを引っかけるように羽織っていて、顔色は悪い。怒っているというより、何日もちゃんと眠っていない人間の顔だった。


 ドアを開けるかどうか、ほんの数秒迷った。


 けれど、このまま帰せばまた何かがねじれる気がして、詩稀は結局チェーンを外した。


「……どうしたの」


「話したくて」


 燈の声は掠れていた。


「ちょっとだけでいいから」


 詩稀は背後を振り返った。寝室のドアは閉まっている。二人は眠っているはずだ。


「静かにしてね。二人とも休んでるから」


「分かってる」


 燈を中へ入れると、靴を脱ぐ動作さえどこか危なっかしかった。


 詩稀はキッチンへ立ち、湯を沸かす。燈はソファにもたれたまま、部屋の中を見回していた。子どもの鞄、畳んだ小さな服、洗面所の前に置かれた上履き袋。そういうものがもうこの部屋に馴染み始めているのを見て、どんな気持ちになっているのか、詩稀には読めなかった。


「お茶でいい?」


「うん」


 湯呑みにお茶を注いでテーブルへ置くと、燈はすぐには手をつけなかった。


「義仁から聞いた」


 先に口を開いたのは燈だった。


「会社、休んでるんでしょ」


「休んでるよ」


「明日も休めるの?」


「まだ決めてない」


「……そうなんだ……」


 そこで言葉が切れる。沈黙だけが長くなる。


 詩稀は燈の顔を見た。謝りに来た顔ではなかった。かといって開き直っているわけでもない。ただ、自分の中にあるものを持て余して、置き場を探している顔だった。


「それで?」


 詩稀が促すと、燈は視線を落としたまま言った。


「上の二人のことなんだけど」


 詩稀の指先が、湯呑みの縁で止まる。


「……うん」


「私、無理」


 その一言は、あまりにも平坦だった。


 泣きながらでもなく、怒鳴りながらでもなく、ただ事実を告げるみたいに落とされる。


 詩稀は何も返せなかった。


「下の三人だけでも手一杯なの」


 燈は続けた。


「悠人も陽咲も落ち着かないし、律花はずっと泣くし、お母さんは何も分かってないし。私だって、もうしんどい」


「それは分かる」


「分かるなら」


 燈は初めて顔を上げた。目が赤い。泣いたあとの赤さではなく、眠れていない人の赤さだった。


「分かるなら、あの二人のこと、引き取ってよ」


 詩稀は息を止めた。


「燈」


「だって、お姉ちゃんの方があの子たちも安心するでしょ?」


 その言葉は、どこかすがるみたいでいて、同時にひどく残酷だった。


「今だってそうじゃない。何かあった時、あの子たちが頼るのは、私じゃなくてお姉ちゃんの方」


 詩稀は言葉を失う。


「私がお腹痛めて産んだのに」


 燈の声が、そこで初めて揺れた。


「いざって時に、あの子たちは私を選ばない」


 その一言に混ざっているのが嫉妬なのか、傷つきなのか、詩稀には分からない。多分、燈自身にも分かっていない。


「燈、声を落として」


「だって、本当なんだもん」


 燈はお茶に手をつけることもなく言う。


「香澄も和樹も、昔からお姉ちゃんのこと好きじゃん。何かあるとすぐ、しきさん、しきさんって」


「だからって」


「だから余計に無理なんだよ!」


 その瞬間だけ、燈の声が鋭くなった。


 詩稀は反射的に寝室の方を見た。ドアは閉まっている。けれど、閉じているだけだ。音を完全に遮るような厚い扉じゃない。


「静かにしてって言ったでしょう」


「静かにしたら、何もなかったみたいになるじゃない」


 燈は笑った。笑ったのに、顔のどこにも笑いはなかった。


「私、あの二人を見ると駄目なの」


 その言葉は、さっきよりもずっと低かった。


「香澄は、いつも私のことを冷静に分析してる。あれ、お姉ちゃんにそっくりで嫌になるのよ」


 詩稀は息を呑んだ。


「和樹は和樹で、顔が拓治に似すぎてる。あの顔見るだけで、拓治を思い出してイライラするの」


「燈」


「あの二人が悪いわけじゃないのは分かってるよ!!」


 燈は机を叩くでもなく、ただ膝の上で手を握りしめていた。


「分かってる。あの子たちは何も悪くない。でも、悪くないからって、可愛いかどうかは別でしょ」


 詩稀は何も言えなかった。


 それは言ってはいけない言葉だった。

 けれど同時に、今の燈の中からしか出てこない本音でもあった。


「私、もう無理……」


 燈は呟いた。


「下の三人を抱えるので精一杯。可愛がれない二人まで一緒にいたら、私、本当におかしくなる」


 そこでようやく、詩稀は声を出した。


「それでも、あの子たちの母親は燈なんだよ」


 燈の肩がびくりと震える。


「……分かってる」


「分かってるなら……」


「分かってるから苦しいんじゃん!」


 泣き叫ぶ一歩手前みたいな声だった。


「私だって、こんなこと言いたくないよ。言いたくないけど、無理なものは無理なの。あの二人が私よりお姉ちゃんに懐くのも、いざって時にお姉ちゃんの後ろに隠れたのも、全部忘れられない」


 詩稀の指先が冷えていく。


「それに……」


 燈は唇を噛んだあと、もっと低い声で続けた。


「正直、あの子たち、もう可愛いと思えないの……」


 その時だった。


 寝室のドアが、ごく小さく軋んだ。


 詩稀が顔を上げる。


 少しだけ開いた隙間の向こうに、香澄が立っていた。顔色がない。和樹はその後ろで、ドアの縁を掴んだまま固まっている。


 どこから聞いていたのかは分からない。

 けれど、今の一言だけは確実に届いていた。


 燈も気づいた。振り返った顔から、さっと血の気が引く。


「……香澄」


 名前を呼んだところで、もう遅かった。


 香澄は返事をしなかった。泣いてもいない。ただ、ひどく静かな顔で立っていた。ショックで固まるよりも先に、何かを理解してしまった人間の顔だった。


 和樹は声も出せないまま、香澄の服を後ろから掴んでいる。


 詩稀は立ち上がった。


「二人とも」


 その声で、ようやく和樹の目に涙が浮かぶ。けれど泣き声にはならない。声を出したら何かが本当に壊れてしまうとでも思っているみたいに、唇だけを震わせている。


 燈が一歩踏み出しかけた。


「違うの」


 けれど、その言葉の続きがなかった。


 何が違うのか、本人にも分からなかったのだろう。可愛くないと思ったことか。無理だと思ったことか。引き取ってほしいと口にしたことか。


 香澄が、ようやく小さく言った。


「……そうなんだ」


 それだけだった。


 詩稀はその声を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。

 泣き叫ぶより、責めるより、その平坦さの方がずっと危うい。


「香澄、こっちにおいで」


 香澄はすぐには動かなかった。けれど、和樹が詩稀の方へ一歩出たことで、ようやくその後を追うように歩いた。


 和樹は詩稀の服にしがみつく。香澄は少し距離を取ったまま立ち止まった。


 燈は立ち尽くしていた。ソファの前で、何も言えないまま。


「燈、今日はもう帰って」


 詩稀が言うと、燈が顔を上げる。


「お姉ちゃん……」


「帰って」


 自分でも驚くほど低い声だった。


「今、これ以上ここにいたら、全員だめになると思う」


 燈は口を開きかけて、結局何も言えなかった。靴を履く動きまで鈍く、玄関のドアが閉まる音もひどく頼りなかった。


 静かになった部屋で、詩稀は二人の方を向く。


 何と言えばいいのか分からなかった。


 今ここで「本心じゃない」とも言えない。

 「聞かなかったことにしよう」などと、もっと言えない。


 和樹はもう我慢できなくなったみたいに、詩稀に抱きとめられたまま、小さな声で泣き始めていた。香澄は泣かない。泣かないまま、ただ立っている。その方がよほど怖かった。


「香澄」


 和樹を抱えていない方の腕で、香澄を抱き寄せる。


「しきさん」


 その声は妙に落ち着いていた。


「私たち、どこにも帰れなくなっちゃいました……」


 詩稀は、一瞬だけ息を止めた。


 今の言葉は確認ではなく、全てを失った絶望そのものだった。


 詩稀は二人を抱く腕に力を込めた。


「ここにいて」


 それだけは迷わず言えた。


「あなたたちは、ここにいていいの。この家が、私が、あなたたちの帰る場所になるから」


 香澄の表情は変わらなかった。けれど、瞳だけがわずかに揺れた。和樹は詩稀にしがみついたまま、肩を震わせていた。


 この瞬間、何かが決定的に変わったのだと分かった。


 元の場所へ帰す前提で預かっている、という言い訳は、もう使えない。

 燈の本音を聞いてしまった以上、この子たちにとって『帰る場所』は、ただの住所の話ではなくなっているのだ。


 香澄はとうとう詩稀の腕の中で泣きだした。


 声を殺して、でも抑えきれずに肩を震わせながら、子どもみたいに泣いた。

 和樹は泣き疲れてそのまま眠ったが、香澄はなかなか眠れなかった。詩稀が背中をさすり続けても、震えはしばらく止まらなかった。


 灯りを落とした寝室の中で、詩稀は目を閉じて、まぶたの裏の暗闇を見る。


 会社はまだ、選択肢を出すと言っていた。

 けれど、仕事の話より先に、今夜また一つ前提が変わってしまった。


 守るとは、多分こういうことだ。

 帰す場所がある前提で支えるのではなく、帰れないかもしれない現実を、自分が引き受けること。


 香澄の嗚咽が、少しずつ浅くなる。

 詩稀はその背を撫でながら、ゆっくりと息を吐いた。


 明日、会社に何を言うべきか。

 もう、昨日までとは少し違う言葉になるのだろうと分かっていた。

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