第十話 支えるために、支えてもらう
水曜の朝、詩稀は目覚ましより先に目を覚ました。
眠りは相変わらず浅かった。けれど、一昨日や昨日のように、目を開けた瞬間から胸の内側を掻きむしられるような焦りがあるわけではなかった。代わりにあるのは、重さだった。現実が形を持ち始めた人間にしか分からない種類の重さだ。
隣では、和樹がまだ眠っていた。詩稀の袖を掴む癖は、もう眠っている時にも出るようになっていた。香澄は先に起きていて、布団の上できちんと膝を抱えて座っている。
「おはよう」
詩稀が声をかけると、香澄は「おはようございます」と返した。
少しだけ、声が落ち着いている。昨夜、泣き疲れて少しは眠れたのかもしれない。けれど、それで何かが軽くなったわけではないことも分かる。泣いたあとに残るのは、すっきりした心ではなく、涙の形にえぐられた場所だ。
「今日、学校どうする?」
詩稀が尋ねると、香澄は少しだけ迷ってから答えた。
「……行きたいんですけど、持ち物が足りなくて」
「ぼくも……」
和樹は、いつの間にか起きていたらしい。布団の中から小さな声で続けた。
「体操服とか、ノートとか……」
「あ……そっか」
詩稀は小さく息を吐いた。
土曜に拓治が二人を預けていったきり、まだ家から何も持ち出せていない。着替えは買った。けれど、学校で使う細かいものまでは揃えられていなかった。
昨日登校できたのは、学校に教科書や最低限の筆記用具を、置いていてそれでどうにかなったからだ。だが、いつまでもそれで押し通せるわけではない。
「分かった。今日は休もうか」
詩稀は二人の顔を見て言った。
「私は職場で話があるから、一度だけ出勤する。お昼までには帰るから、それまでここで留守番できる?」
本当は二人だけにしたくなかった。昨夜のことを思えばなおさらだ。けれど、今日は行かなければならない。会社に子ども二人を同席させるわけにもいかなかった。
香澄と和樹は、小さく頷いた。
「学校には私から連絡するね。家のことは帰ってからやるから、何もしなくていいからね」
香澄はこくりと頷く。和樹は少し遅れて、布団の中から小さく頷いた。
今日は会社へ行く。
昨日、専務は言った。会社側の案を出す、と。
だから今日は、自分の答えだけでなく、会社の答えも聞く日だ。
*
朝食を済ませ、手伝おうとする二人を少し強引に部屋へ戻して、詩稀は一人でリビングを片づけていた。
部屋は静かだった。静かすぎて、昨夜の会話の残響だけがまだ壁に貼りついているみたいだった。
正直、燈の言葉はまだうまく整理できていない。
可愛くない。
無理。
引き取って。
どれも聞きたくない言葉だった。けれど、そのどれもをなかったことにはできない。
自分の身の振り方も考えねばならない。今のまま、経理課長を続けるのは無理だ。
いや、課長職どころか、今の働き方のままでいること自体がもう難しい。
善意で数日支える話ではない。
もし二人を守るなら、自分の生活の中心を家庭にずらさなければならない。
それを考えた時、最初に浮かんだのは単純で、もっとも極端な答えだった。
辞めるしかない。
そう思った瞬間、不思議と頭の中は静かだった。
怖くないわけではない。けれど、ようやく形になったものに触れた時の静けさに近かった。
今日は、それを抱えたまま相談に行くことにした。
*
総務部のフロアへ入ると、昨日よりも空気は静かだった。
話が広がった分だけ、人は逆に何も言わなくなる。視線は感じる。けれど誰も詩稀を腫れ物のようには扱わない。それはこの部署の良さでもあり、冷たさでもある。
「おはようございます」
詩稀が言うと、佐伯がいつものように立ち上がった。
「おはようございます、課長」
その呼び方が、今日は少しだけ胸に引っかかった。
佐伯は詩稀の顔を見て、小さく言った。
「今日は社長室にどうぞ。専務も部長もそちらにいます」
詩稀は一瞬だけ息を止めた。
「……社長室?」
「はい」
そこまで来たのか、と思う。
昨日の面談が単なる慰留ではなく、本当に会社の判断に入ったのだと、それではっきり分かった。
社長室の扉をノックすると、すぐに返事が返る。
「どうぞ」
扉を開けると、部長、専務、そして社長がいた。
部長の厳しい顔。専務の静かな目。社長は思っていたより穏やかな表情で、けれどやはり経営側の人間特有の距離感をまとっていた。
「よく来てくれた。まあ、そっちに座ってくれ」
社長自ら、応接セットのソファを勧めながらそう言った。
詩稀は促されるままソファに腰を下ろした。膝の上の手は、今日は少しだけ震えていた。
「話の概要は二人から聞いている」
社長が口を開く。
「まず確認したい。笠原さんは、仕事が嫌で辞めたいわけではないんだよね?」
「はい」
詩稀は答えた。
「ただ、傷ついた二人の子どもを抱えたまま、今と同じように働くことはできない、そう考えています」
「“今と同じように”か」
社長はそこを拾った。
「はい。今までと同じ働き方ができない以上、経理課長としての職責は果たせないと思います。なので、退職を考えています」
社長は小さく頷いた。
「笠原さんの考えは分かった」
そこで部長が身を乗り出した。
「笠原。これはもう、お前個人の問題だけで片づける話じゃない。拓治も、その相手も同じ総務部の人間だ。部内の問題の結果、お前にここまで皺寄せが来ている以上、管理責任を含めて会社として無関係ではいられない」
専務も静かに続けた。
「君を、部内不祥事の被害を受けた社員としてではなく、ただの自己都合退職として処理するつもりはない。会社として必要な配慮と選択肢を示したうえで判断してほしい」
社長が短く言った。
「だから今日は、その案を出すために集まっている」
部屋の空気が少しだけ張った。
詩稀は膝の上で手に力を込める。
「笠原さんを課長職のまま置くのは、君の言う通り現実的ではないと思う」
社長は淡々と言った。
詩稀は頷いた。それはもう、自分でも分かっていた。
専務から書面が渡される。社長はそのまま提案を話した。
「そのうえで、会社側としては、退職ではなく、課長職を解いて、課長補佐という臨時ポストに就いてもらいたい。待遇は係長相当だが、経理課の係長という意味ではない。直接の部下は持たない。勤務時間は始業と終業をそれぞれ一時間短縮する。急な欠勤・遅刻・早退にも対応できるようにする。担当業務は固定し、部長直轄で調整する」
詩稀は資料を見た。簡潔な文面だったが、そこに並んでいる条件の意味は重かった。
課長補佐。
課長を外れる以上、実質的には降格だ。
それでも完全な左遷ではなく、生活を守るための配慮として提示されている。
「経理課長の業務は、どなたに引き継げばよろしいのでしょうか」
詩稀が聞くと、部長が答えた。
「佐伯に一時的に上がってもらう。あくまで代行だ」
「代行……ですか?」
「子どもたちの状況が落ち着いて、お前が働き方を戻せると判断したら、その時にはまた元のポストで腕を振るってもらいたい」
社長の言葉は穏やかだった。
「そもそもこれは、笠原さんを切るための案ではないんだよ。被害を受けた君が、今を乗り切るための提案だ」
詩稀は資料から目を離せなかった。
退職ではなく、残る。
課長ではなく、課長補佐。
時間も責任も、生活に合わせて組み替えられる。
それを、組織が後ろから支えてくれる。
頭では理解できる。けれど、心のどこかでまだ抵抗もあった。
「……そこまでしてもらうのは、ありがたいです。ありがたいんですが、さすがに……」
詩稀が言いかけると、部長がすぐに遮った。
「そこまでしないと駄目な状況に、総務部の不始末でお前を追い込んでるんだ」
「でも、特別扱いが過ぎます」
「そうだ」
専務があっさり認めた。
「ただし、根拠のある特別扱いだ」
詩稀は顔を上げた。
「被害を受けた社員への配慮として必要であり、かつ会社にとっても合理性がある。感情論だけでやっているわけではない」
社長も頷く。
「周囲の理解については会社が責任を持つ。少なくとも、君が周りを気にして断る理由にはしなくていい」
詩稀は小さく唇を噛んだ。
そこまで言われると、もう「迷惑だから」「申し訳ないから」では逃げられない。会社は温情で言っているのではなく、組織として必要な処置として出しているのだ。
「……それでも、特別待遇に不満は出ると思いますし、現場はやりにくい空気になると思います」
詩稀はようやく絞り出すように言った。
「そこは聞いてみるか」
部長が言って、内線を取った。
「佐伯、ちょっと社長室に来てくれ」
数分後、佐伯が社長室へ入ってきた。部屋の空気を一目で読んだらしく、いつも以上に背筋が伸びている。
「失礼します」
部長は単刀直入に言った。
「当面の間、笠原を課長補佐として、時短勤務にしたうえで経理課に残す案を本人に提示している。そこで、課長職はお前に代行を任せたい。現場は回るか」
佐伯は一瞬だけ詩稀を見た。それから、ほんの少し口元を緩めた。
「回りますよ」
「即答か」
「はい」
佐伯はそこで、いつもの少しとぼけたような声音になった。
「課長が補佐として、代行の私を支えてくれるでしょうから。補佐というか、監視になりそうで怖いですけど」
社長室の空気が、わずかに緩む。専務も社長も、小さく息を吐いた。
「でも」
佐伯は続けた。
「辞められるより、時短勤務でも残ってくれる方が断然ありがたいです」
それは、飾った言い方ではなかった。
詩稀はそこで初めて、目の奥が熱くなるのを感じた。
昨日から、自分の前には現実ばかり並べられていた。責任、生活、代償、選択。どれも正しい言葉だった。
けれど今の一言は、正しさではなく、ただ気持ちとして沁みた。
部長が言う。
「聞いただろ。現場は回る」
詩稀は返事ができなかった。代わりに、小さく頷く。
社長が最後に口を開いた。
「笠原さん。これは会社からの提案だ。強制ではない」
その言い方が、かえって逃げ道をなくした。
「だが、まずはこの提案でやってみてほしい。君が子どもたちを守りたいと思うように、会社も君を守りたいと思っている」
詩稀は膝の上で手を握ったまま、ゆっくり息を吸った。
「……ありがとうございます」
声は少しだけ掠れていた。
「提案していただいた内容で、お願いします」
言った瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。
退職という一直線の道しか見えていなかったところへ、別の道が一本引かれる感覚だった。
平らな道ではないだろう。
けれど、少なくとも今この瞬間、子どもたちと仕事のどちらかを失わずに済む可能性がそこにあった。
*
社長室を出て経理課の部屋へ戻ると、フロアの空気がほんの少しだけ変わった気がした。
社長室から先に出ていた佐伯が、周りに簡単に説明してくれていたのだろう。皆、何となく状況を理解しているようだった。
「課長……って、呼んでいいのか迷いますね」
その一言に、近くにいた課員がふっと笑う。
「私は、笠原さんが残ってくれる方が嬉しいです」
「ほんとですよ」
「いきなりいなくなられる方が困ります」
誰かが気を遣って言っているのではないと分かる声音だった。
詩稀はそこで、とうとう目頭を押さえた。
「……すみません」
「泣くところそこなんですか」
佐伯が困ったように言って、また周囲が少し笑う。
その笑いが、今の詩稀にはありがたかった。
腫れ物に触るみたいな慰めより、ずっとありがたかった。
*
会社を出る頃には、お昼の時間が近くなっていた。
改札を抜ける直前、スマートフォンが震えた。佐伯からだった。
――あなたは一人ではありません。
――全部を一人で抱え込む必要はないんです。
詩稀は少しだけ立ち止まり、短く返した。
――ありがとうございます。
すぐに返信が来る。
――私も一人で課長代理は自信がありません。
――しっかり補佐してくださいね。
――もちろん、子どもたち優先で(笑)
詩稀はその文面を見て、少しだけ肩の力を抜いて笑った。
*
家に帰ると、香澄が真っ先に玄関へ出てきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
その後ろから和樹も顔を覗かせる。二人とも、自分がちゃんと帰ってきたことを確認して、少しだけ表情を緩めた。
詩稀は靴を脱ぎながら思う。
今日、自分は退職の話をしに行った。
けれど、戻ってきた今、最初に意識するのは会社の返答ではなく、この二人の顔だった。
香澄が、おそるおそる聞く。
「しきさん……会社、どうでしたか」
詩稀は少しだけ考えてから答えた。
「まだ決まってないこともあるけど、少しだけ進んだよ」
香澄はそれ以上追及しなかった。その代わり、小さく頷く。
和樹が、詩稀の服の裾を掴んだ。
その仕草が、今はもう当たり前みたいになっている。
詩稀は二人を見て、それから静かに言った。
「これからは、ずっとここにいていいからね」
その言葉に、香澄が縋るように見つめてくる。和樹は何も言わなかったが、握る手の力だけが少し緩んだ。
まだみんな傷だらけだ。
それでも、昨日までと同じではない。
「ご飯を食べたら、荷物を取りに行こうか」
二人を支えるために、自分も支えてもらう。
そのことに、わずかな申し訳なさと、それ以上の大きな感謝を覚えながら、詩稀はようやく一つの覚悟を固めたのだった。
当初は全十一話で完結する予定でプロットを組んでいたのですが、実際に登場人物たちを動かして会話を書いていくうちに、当初の想定よりも話が膨らんできました。
とくに今回は三人称視点で書いていることもあり、短編とはまた違う難しさを感じています。
プロットを修正して組み直した結果、完結まではあと五話の予定です。
最後までお付き合いいただければ嬉しいです。




