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受け継がれるもの ――母になれなかった叔母が、ふたりの親になった話――  作者: リフェリア


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第十一話 喪われたもの、与えられたもの

 昼食を終えたあと、詩稀はしばらく食卓に座ったまま動けなかった。


 昼食の器はもう空になっている。香澄も和樹も、食べられる量はまだ少ないままだったが、それでもここ数日ではいちばんまともに箸が進んだ方だった。食べ終えた食器を下げようとした香澄を制して、詩稀がまとめて流しへ運ぶ。


 午後からは、荷物を取りに行く。

 そう口にしたのは自分だった。


 けれど、いざその時刻が近づくと、胸の奥に冷たいものが溜まっていく。


 香澄と和樹の学校用品。着替え。制服の替え。ノートや筆箱。必要なものは確かにある。あの家に取りに行かなければ、生活は回らない。


 それでも、ただ荷物を取りに行くだけでは済まないことを、詩稀はもう分かっていた。


 拓治に電話をかける前、詩稀は一度だけ息を整えた。

 子どもたちはリビングの端で並んで座っている。香澄は姿勢を正しているのに、指先だけが膝の上で落ち着きなく動いていた。和樹は何も言わず、ソファの縁を握りしめている。


「お父さんに電話するね」


 そう言うと、和樹の肩がぴくりと揺れた。香澄は「はい」とだけ答えた。


 拓治は三コール目で出た。


『……もしもし』


 妙に平坦な声だった。詩稀は一瞬、それが誰か分からなかった。社内で聞く時の、無駄に愛想のいい声音とはまるで違う。


「詩稀です」


『ああ……先輩』


 先輩。

 その呼び方が、今はひどく空疎に聞こえる。


「今からそっちに行こうと思うの。香澄と和樹の荷物を取りに行きたいから」


 数秒の沈黙が落ちたあと、拓治はあっさりと答えた。


『ああ、いいですよ。俺、もう家に帰ってないんで』


 詩稀は眉を寄せた。


「帰ってない?」


『はい。鍵、香澄が持ってるでしょ? だから好きに入って、必要なもの持ってってください』


 好きにしていい。

 その言い方に、詩稀の指先が冷えた。


「香澄と和樹、二人ともいるけど、話す?」


 そう聞くと、受話口の向こうで短く息を吐く音がした。


『……何を話せって言うんですか』


「拓治くん」


『いや、先輩に言っても仕方ないですけど』


 そこで拓治は、自分に言い聞かせるみたいに早口になった。


『こっちももう、離婚の方向で話が進んでるんです。会社にも伝えました。総務班主任は外されるし、地方に飛ばされる予定だし、正直それどころじゃなくて』


 詩稀は言葉を失った。


 社内処分の話まで、もう進んでいる。昨日まで詩稀が会社で聞いた内容と、繋がってしまう。


『それに、再婚の話もありますし』


 拓治は続ける。


『相手もいるんで。向こうは子ども連れは無理だって言ってるし、俺も今の状態で二人を引き取るのは現実的じゃないんです』


 現実的じゃない。

 その言葉の軽さに、詩稀は一瞬、声を失った。


「……なんで、二人のことをそういうふうに言うの?」


『じゃあどう言えばいいんですか』


 拓治の声が少しだけ荒れた。


『燈だって、上の二人とはもう親子を続けられないって言ってるんですよ。あっちも要らない、こっちも無理、で親権の話が進まないから、離婚協議だって止まってるんです。あの二人の件がなければすぐまとまるんです。お互い、やり直すのはもう無理なんで』


 詩稀の喉が、きりきりと締まる。


 今、受話口の向こうにいる男は、自分の子どもの話をしているのだ。

 それなのに、言葉のどこにも父親らしさがない。


「拓治くん」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。


「それって、今、私に電話でする話じゃないよね?」


 数秒、沈黙。


 そのあと、拓治は小さく舌打ちに似た息を漏らした。


『……すみません。でも、俺も正直、もうどうしていいか分からないんです』


「分からないで済ませる立場じゃないでしょう」


『もう、先輩が引き取ってくれたらいいじゃないですか……』


 その一言に、詩稀は完全に言葉を失った。


『燈も言っていましたけど、あの二人も先輩のところの方が落ち着いてるんでしょ? だったらもう、それが一番いいんじゃないですか』


 詩稀が何も返せないままでいると、拓治は一方的に『じゃあ、そういうことで』と言って電話を切った。


 通話終了の画面が、やけに明るく見えた。


「しきさん……?」


 香澄の声で、詩稀はようやく顔を上げた。


 二人とも、こちらを見ていた。

 会話の全部が聞こえたわけではないだろう。けれど、何かろくでもないことを言われたのだと察するには十分な沈黙だった。


「……行こうか」


 詩稀はそれだけ言った。


 香澄は何も聞かなかった。和樹も、何も言わなかった。二人とも、自分で確かめるしかない段階に来ていることを、もう感じ取っているのかもしれなかった。


     *


 マンションを出て、見慣れたはずの道を歩く。


 風は冷たくも暖かくもない中途半端な温度で、季節の境目みたいだった。香澄は学校用のサブバッグを持ち、和樹は詩稀の半歩後ろを歩く。何度か信号待ちで手を繋ごうとしたが、和樹は自分から詩稀のコートの裾を掴むだけで十分らしかった。


 拓治の家――二人にとっては、ついこの前まで「自分の家」だった場所へ近づくにつれて、香澄の口数はますます減った。もともと多い子ではなかったが、今日は意識して言葉をなくしているようにも見える。


 マンションの前で立ち止まると、香澄が鞄の中から鍵を取り出した。


 細い指が、ほんの少し震えている。


「開けるね」


 その声に、和樹が詩稀の腕へさらに寄った。


 玄関の扉が開いた瞬間、詩稀は言葉を失った。


 荒れていた。


 散らかっている、という程度ではない。

 人が生活を終わらせる時の乱雑さだった。


 下駄箱の扉は半開きのままで、靴は片方だけが転がっている。玄関先には、引きずられた段ボールの跡が薄く残っていた。廊下を抜けてリビングへ入ると、そこにはもう「家族の家」の形はほとんど残っていなかった。


 ソファのクッションは床に落ち、引き出しは開いたまま。棚の中身はところどころ抜かれ、雑誌や書類が乱暴に踏み散らかされている。カーテンは片側だけ外れて垂れ下がり、食卓の上には何かを物色した跡みたいに細かな紙片が散っていた。


 燈が下の三人に必要なものだけを持ち出し、拓治も自分の衣類や仕事道具だけを抜いていったのだろう。

 生活の中心だけがごっそり持っていかれ、残されたものは、急に意味を失ったみたいに放置されている。


 香澄も和樹も、リビングの入口で立ち尽くした。


 詩稀には、その沈黙の意味が痛いほど分かった。

 ここはもう、自分たちが帰ってくることを前提に保たれた家ではない。

 それが、目の前の光景だけで分かってしまうのだ。


「……必要なもの、探そう」


 詩稀が言うと、香澄がようやく小さく頷いた。


 けれど、二人はすぐには動けなかった。

 詩稀が先に子ども部屋の方へ歩き出して、ようやくその後をついてくる。


 子ども部屋は、リビングほどではないが、やはりどこかおかしかった。引き出しの中身は崩れ、棚の本は半分倒れたまま。悠人や陽咲の絵本だけがなくなっていて、上の段にあった香澄の文庫本や和樹の図鑑はそのままだった。


 選ばれている。

 持っていかれた物と、残された物が。

 そのことが、かえって残酷だった。


「学校のもの、分かる?」


 詩稀が尋ねると、香澄は無言で頷き、机の引き出しを開けた。ノート、教科書、筆箱、体操服袋。必要なものを一つずつ取り出していく。その手つきはいつも通りに見えたが、目だけが死んだように静かだった。


 和樹は最初、自分の机の前に立ったまま動けなかった。

 詩稀がしゃがんで目線を合わせる。


「一緒にやろうか」


 和樹は小さく頷いた。


 ランドセルの中身を確認し、足りないノートを入れ、体操服を探す。制服の替えも必要だろう。詩稀がタンスを開けると、中は半分空いていた。燈が慌てて服を抜いていったのか、引き出しの中身はぐちゃぐちゃに偏っている。


 香澄は途中から何も言わなくなった。ただ、自分の着替えと和樹の着替えを、淡々とボストンバッグへ詰めていく。


 その目から、ぽたりと涙が落ちた。


 声は出ない。泣いているというより、もう止められないものがこぼれているだけみたいだった。


「香澄」


 呼ぶと、香澄は首を振った。


「……大丈夫です」


 大丈夫なわけがない。

 それでも、その言葉しか出てこないのだろう。


 詩稀は何も言わず、ボストンバッグをもう一つ開いて、残った私物を入れていく。下着、学校指定の上履き、裁縫箱。なるべく「また明日戻ってきて取ればいい」ではなく、「当面ここで暮らせる」量になるように、と無意識に考えている自分に途中で気づいた。


 もう、荷物を“回収”しているのではない。

 連れて帰るために、必要なものを“移している”のだ。


 その感覚に気づいた時、胸の奥で何かが静かに固まった。


 リビングへ戻ると、和樹が急に立ち止まった。


 視線の先を追って、詩稀も息を呑む。


 床に、フォトフレームが落ちていた。ガラスは割れ、金色の縁は歪んでいた。


 その周りに散らばっていたのは、破り捨てられた家族写真だった。


 どこかの記念日に撮ったのだろう。散らばった破片の中には、拓治と燈、その周りに五人の子どもたちが笑顔で並ぶ一枚もあった。下の子たちはまだ幼く、香澄も和樹も、今より少し幼い顔で幸せそうに笑っていた。


 けれど、その写真は無惨にも破り捨てられていた。


 執拗に、乱暴に、破られている。


「……っ」


 香澄がそこで、初めて声を漏らした。


 細く、短い、喉を引き裂くみたいな音だった。


 次の瞬間、香澄はその場に崩れるように座り込み、声を殺すこともできないまま泣き崩れた。


「いや……もういや……」


 それは否定の言葉というより、現実から目を逸らしたい時に出る音に近かった。


 和樹は泣かなかった。

 泣けないまま、固まった。


 目だけが大きく見開かれて、呼吸の仕方を忘れたみたいに動かない。


 詩稀はすぐに二人のところへ行った。


「見なくていい」


 そう言っても、もう遅かった。

 香澄は顔を覆ったまま泣き続け、和樹はその写真から視線を外せない。


 詩稀は二人を抱き寄せた。


 香澄の身体は細く、信じられないほど強くガタガタと震えていた。和樹は、詩稀に触れられてようやく糸が切れたみたいに、小さく息を吐いて脱力した。その吐息は、すぐに嗚咽に変わる。


 腕の中で壊れていく二人を抱えながら、詩稀は思った。


 もう駄目だ。


 叔母として、預かっているだけ。

 状況が落ち着くまで、帰る場所が整うまで。

 そんな言い方は、もう使えない。


 この子たちは、帰る場所そのものを奪われてしまったのだ。


 燈は言葉で切り捨てた。

 拓治は責任ごと放り投げた。

 そして今、この家は、物の配置でそれを証明している。


 だったら、もう。


 詩稀は涙でぐしゃぐしゃになった香澄の顔を見た。次に、泣くこともできず、硬直も解けきらないまま、詩稀の服を握っている和樹を見る。


 この瞬間、詩稀は自分の中で何かが切り替わるのを感じた。


 叔母であることをやめよう、と。


「香澄、和樹」


 二人の名前を呼ぶ。


 香澄は泣きながら顔を上げた。和樹も、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔で詩稀を見る。


 詩稀は、自分でも驚くほど静かな声で言った。


「私の子どもにならない?」


 二人とも、意味がすぐには分からなかったみたいに瞬いた。


 詩稀は二人を抱く腕に、もう一度力を込める。


「これからずっと、私と暮らそう。私の家族になってくれない?」


 香澄の涙が、さらに強く溢れた。

 和樹は言葉の代わりに、詩稀へしがみついた。


 返事になっているのかどうかも分からない。

 それでも、今はそれで十分だった。


 詩稀は二人を抱いたまま、床に散った写真を見ないように少しだけ身体の向きを変えた。


 この子たちに必要なのは、多分もう「しばらくここにいていい」という仮の許可ではない。

 もっと深くて、揺るがない言葉だ。


 帰る場所になる。

 家族になる。

 そういう、取り消しのきかない約束だった。


 荷物はまだ全部まとまっていない。

 学校のことも、法のことも、燈や拓治との整理も、何ひとつ終わっていない。


 それでも詩稀は、その時初めてはっきりと分かった。


 自分が守ろうとしているのは、一時的に預かった姪と甥ではない。

 これから先、自分の人生の中で一緒に生きていく、私の子どもたちなのだと。


 窓の外は、もう夕方の色になりかけていた。

 詩稀は二人を抱いたまま、ゆっくり息を吐く。


 次に会社へ話す言葉は、もう決まっていた。

 支えるために支えてもらう――その先で、どこまで引き受けるつもりなのか。


 それを、今度は自分の口ではっきりと言わなければならなかった。

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