第十二話 家族の誕生日
詩稀たちが家に戻った頃には、外はすっかり夕方の色に変わっていた。
ボストンバッグを二つ、学校用のサブバッグを一つ、詩稀が抱えていた紙袋を一つ。三人で運び込んだ荷物は、もともと一人で広々使っていたはずの一LDKを、急に手狭なものに変えた。
収納らしい収納は、詩稀が一人暮らしをするぶんには足りていた。けれど、子ども二人が増えた途端に事情は変わる。空いている引き出しはわずかで、タンスひとつ増やすにも場所がない。
とりあえずボストンバッグを寝室の壁際へ寄せ、学校の荷物だけを明日の分として分ける。着替えは畳んで床に置いた。私物もきれいに平積みにするしかない。
仮置き。
全部が仮置きだった。
それでも、詩稀は荷物を一つずつ出しながら思う。
仮置きのつもりで始めたことの中に、いつの間にか本気が混じっている。
香澄は無言で自分の服を揃え、和樹も言われた通りに筆箱とノートを机の端へ置いた。二人とも動いてはいるのに、どこか表情がない。泣き止んだあとにやってくる、感情を使い果たした顔だった。
詩稀はボストンバッグのファスナーを閉め、そこで手を止めた。
このまま夜になれば、また辛い現実だけが強く記憶に残ってしまう。
フォトフレーム。破られた写真。拓治の声。燈の言葉。
それだけがこの子たちの記憶になるのは、どうしても嫌だった。
「ねえ」
詩稀は、できるだけ明るく聞こえるように声を出した。
香澄と和樹が同時にこちらを見る。
「今日を、この家族の誕生日にしようか」
二人とも、すぐには意味が分からなかったみたいに瞬いた。
詩稀は、少し無理をしてでも笑った。
「大変な日になっちゃったけど、私たちが家族になった日でもあるよね。だったら、嫌な記憶だけの日にしたくないなって思って」
香澄は黙ったまま詩稀を見ていた。和樹はまだ少し泣き腫らした目で、詩稀と床の荷物を交互に見た。
「お誕生日……お祝い、するの?」
和樹が小さく聞いた。
「そう」
詩稀は頷く。
「ちゃんとした準備は何もしていないけど、今日から三人で家族になる日ってことにして。ピザでも頼もうか」
その言葉に、香澄の目がほんの少しだけ揺れた。
笑っていいのか、信じていいのか、迷っている顔だった。
「……ケーキも食べていいの?」
遠慮がちに聞いたのは和樹だった。
「もちろん」
詩稀はすぐに答えた。
「お誕生日なら、もちろんケーキもいるよね」
その瞬間だけ、香澄の口元がほんの少し動いた。
笑いかけて、でも最後までは笑えない。そんな、壊れかけの表情だった。
*
スマートフォンの画面を三人で覗き込みながら、ピザを注文した。
何味にするかで、久しぶりに会話が少しだけ弾んだ。和樹はコーンがいいと言い、香澄は照り焼きチキンにしようと言った。詩稀は、だったら半分ずつにしようと提案する。
どうでもいいような会話だった。
けれど、そのどうでもよさが今はありがたかった。
注文を終えたあと、配達まで少し時間があることを確認して、詩稀は財布を取った。
「コンビニ行こうか。ジュースとケーキも買いに行こう」
マンションの隣のコンビニまでの道は、本当にすぐだった。けれど詩稀は、わざとゆっくり歩いた。
右手に和樹、左手に香澄。
久しぶりに、両手で誰かと手を繋ぐ。
和樹は最初から素直に繋いだ。香澄は一瞬だけ戸惑って、それから静かに詩稀の手を取った。十二歳の手はもう小さな子どもほどではないのに、やはりまだ大人よりずっと細く、頼りなかった。
コンビニの明るすぎる照明の下で、三人はジュースを選び、ケーキの並ぶ棚を覗き込んだ。
「どれにする?」
詩稀が聞くと、和樹は迷わずチョコレートケーキを指差した。香澄は少し迷ってからショートケーキを選ぶ。詩稀はモンブランを取った。
店員に袋を渡され、レジを済ませる。
その全部が、ごく普通の買い物のはずだった。
けれど詩稀には、その普通がひどく大事なものに思えた。
*
夜、三人でピザを囲んだ。
テーブルにピザ、ケーキ、ジュースのペットボトルを並べる。テーブルはいつもより狭く、紙皿の上のピザは少し冷めるのが早かった。
「じゃあ……」
詩稀は一瞬だけ言葉に迷ったあと、笑って言った。
「家族の誕生日、おめでとう」
「……おめでとう」
香澄が続き、和樹も少し遅れて小さく言った。
三人とも笑っていた。
けれど、どこか無理をしている笑顔だった。
お互いに、無理をしていることは分かっている。
でも、誰も指摘しなかった。
それを指摘してしまったら、笑顔を作るのをやめてしまったら、今度こそ全部がなくなってしまいそうで、怖かった。
ピザは思っていたより美味しかった。和樹はコーンの乗ったところを先に食べ、香澄は紙皿から落ちそうになる端を黙って押さえてくれた。ケーキは少し甘すぎるくらいだったが、その甘さが今日はちょうどよかった。
詩稀は食べながら、何度も二人の顔を見た。
笑っている。
ちゃんと食べている。
それだけのことに、胸の奥が少しずつほどけていく。
けれど、そのほどけ方さえ、どこか無理に作った祝宴の上に乗っているのだとも分かっていた。
無理矢理にでも、楽しい記憶を上書きしたかった。
そうしないと、今日という日が、ただ喪われたものだけで終わってしまいそうだったから。
*
食後、和樹を先に風呂へ入れた。
一人で入らせるには、まだ心細そうだった。詩稀が服を脱がせ、頭を洗い、背中に泡をのせる。和樹は何も言わず、ただ詩稀の手が離れないことだけを確かめているみたいだった。
湯船に浸かった時、和樹はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「しきちゃん」
「なに?」
「今日……へんな日だったね」
詩稀は思わず笑ってしまった。
「うん。ほんとに変な日だった」
和樹はそれ以上何も言わなかったが、湯の中でそっと詩稀の腕に触れた。
その触れ方が、まだ小さな子どものものだった。
和樹を先に寝室へ戻し、次に香澄を風呂へ入れる。香澄は一人で大丈夫だと言ったが、髪だけは詩稀が洗ってやった。顔にかかる泡を目を細めながら拭い、長い髪を指で梳くと、香澄はぽつりと呟いた。
「なんか、ちっちゃい頃みたい」
「そうだね」
「よく覚えてないけど」
「私は覚えてるよ」
香澄は少しだけ目を伏せた。
そのまま何も言わなかったが、拒まなかった。
最後に詩稀が急いでシャワーを浴び、寝室へ戻る。
狭い部屋の中で、三人分のタオルと着替えがいつもより多く場所を取っていた。
ドライヤーを取り出して、和樹から先に髪を乾かす。次に香澄の髪へ温風を当てる。濡れた長い髪が、肩の上でゆっくり乾いていく。
その時だった。
タオルで自分の髪を拭こうとした詩稀の方を、香澄がじっと見ていることに気づいた。
「どうしたの?」
香澄はすぐには答えなかった。視線が向いている先を辿って、詩稀は小さく息を止める。
パジャマに着替える途中で、下腹部のあたりに走る白い手術痕が少し見えていた。
「あ……」
詩稀は、タオルを持つ手を止めた。
「ごめんなさい」
香澄が先に謝る。
「見ちゃって……」
「ううん」
詩稀はゆっくり首を振った。
「別に、隠してるわけじゃないから」
そう言いながらも、今まで子どもたちの前でちゃんと話したことはなかったと思い出す。
傷のことも、離婚のことも、子どもが望めなくなったことも。
和樹はベッドの端で、まだ半乾きの髪のまま二人の顔を見比べている。
詩稀はドライヤーの電源を切り、少しだけ考えてからベッドの縁へ腰を下ろした。
「ちょっと、昔の話してもいい?」
二人とも黙って頷いた。
「私ね、大学を出てすぐ結婚したんだ」
その言葉に、香澄の目が少しだけ丸くなる。
「香澄が産まれる前だから、もうずいぶん前だね。今から思うと、ずいぶん若かったなって思う。子どもも欲しかったし、普通に家族が増えていく未来を、何となく疑わずにいた」
詩稀は、自分の下腹部に触れた。
傷はもう古い。痛みもない。けれど、見る人が見れば分かる形で、ずっと残っている。
「でも、妊娠しても上手くいかなかった。子宮外妊娠っていうのを二回して、そのせいで、もう妊娠は難しいって言われたんだ」
和樹は意味を完全には分からない顔で、でも黙って聞いていた。香澄は息を止めるみたいにしている。
「それが理由で、離婚した」
詩稀は淡々と言った。
「誰が悪かったとか、そういう簡単な話ではなくて。あの人は子どもが欲しかったし、私はそれを叶えられなかった。それだけ」
寝室の中は、ひどく静かだった。
「そのあとも、仕事は頑張ってきたよ。頑張れば何とかなることも多かったから。でもね」
詩稀は少しだけ笑った。笑いというより、自嘲に近いものだった。
「やっぱり、子どもが欲しかったなって思うことはあった。独りは寂しいなって思うことも、あった」
香澄が、詩稀の顔をじっと見ていた。
「燈の子どもたちを、自分の子どもみたいに可愛がってたのも……多分、それで自分を慰めてたところがあったんだと思う」
口にしてしまうと、それは思ったよりずっと赤裸々な言葉だった。
けれど今は、隠したまま『家族になろう』と言う方がずっと不誠実に思えた。
「だから」
詩稀は二人を見る。
「昨日言ったこと、あれはその場の勢いだけじゃないし、可哀想だから引き取るっていうのとも違うんだ」
和樹が、少しだけ身を乗り出した。
「私も、二人にいてほしいって思ってる。私が一緒にいたいって思ってるの」
そう言い切ったあとで、詩稀はもう一度だけ、はっきりと口にした。
「だから、私の子どもになってくれない?」
今度は、昨日とは少し違う沈黙が落ちた。
香澄はすぐには泣かなかった。
けれど、その唇は震えていた。
「……私たちが、しきさんの子どもになったら」
香澄がゆっくり言う。
「しきさんは、ひとりじゃなくなる?」
詩稀は頷いた。
「うん」
「役に立てる?」
詩稀は一瞬、目を見開いた。
この子はまだ、自分が守られるだけの存在ではいけないと思っている。
役に立つこと、迷惑でないこと、必要とされること。そこに自分の居場所を結びつけてしまっている。
「役に立つとかじゃなくて」
そう言いかけて、詩稀は途中で言葉を止めた。
違う。今それを否定するだけでは足りない。
「……立つよ」
詩稀は静かに言った。
「すごく役に立つ。いてくれるだけで、もう全然違う」
香澄の顔が、くしゃりと歪んだ。
「じゃあ……なりたいです」
それは、まだ子どもの声だった。
でも、自分の意思で選んだ言葉だった。
「しきさんの子どもに、なりたい」
和樹は、そこまで待てなかったみたいに詩稀の膝へ乗るようにしてしがみついた。
「ぼくも」
詩稀はその頭を抱き込む。
「ぼくも、しきちゃんの子どもになる」
泣きながらの言葉で、ところどころ掠れていた。
それでも、それは確かに返事だった。
詩稀は二人を抱き寄せた。
涙がまた出た。
悲しいからなのか、嬉しいからなのか、自分でももう分からなかった。
「ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
*
灯りを落とした寝室で、三人は同じ布団に潜り込んだ。
セミダブルの布団は、一人で寝ていた時には広く感じたのに、今は笑ってしまうほど窮屈だった。和樹が片側から詩稀の腕にしがみつき、反対側では香澄が遠慮しながらも肩を寄せている。
狭い。身動きも取りづらい。
けれど、温かかった。
詩稀は暗闇の中で、左右の体温を感じた。
独りのベッドで眠る時にはなかった重みが、今は不思議と心地よかった。
「しきさん」
香澄が小さく呼ぶ。
「なに?」
「……おやすみなさい」
その言葉に、詩稀は少し笑った。
「おやすみ」
和樹はもう半分眠っているらしく、返事の代わりに詩稀の服をぎゅっと掴んだ。
その夜、三人は久しぶりにぐっすり眠った。
何も解決していない。
法のことも、学校のことも、会社のことも、まだ全部これからだ。
それでも、その夜だけは確かに、帰る場所があった。
それで十分だと、詩稀は眠りに落ちる寸前に思った。




