第十三話 朝になっても
詩稀が目を覚ました時、寝室にはまだ朝の薄い光しかなかった。
カーテンの隙間から入り込んだ白い明るさが、狭い部屋の輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。左右には、まだ眠っている子どもたちの体温があった。
和樹は詩稀の腕を抱え込むようにして眠っていた。香澄は反対側で、昨夜よりは少しだけ近い位置にいる。二人とも、久しぶりに深く眠れたのだろう。顔つきが、ここ数日で初めて穏やかだった。
詩稀は、しばらくそのまま動けなかった。
昨夜のことを思い出す。
家族の誕生日。
ピザとケーキ。
風呂場で話した昔話。
そして、私の子どもになってくれないか、という問い。
あれは感情に任せた言葉ではなかった。
朝になっても、少しも後悔していなかった。
むしろ、目を開けた瞬間に最初に思ったのは、今日は何を食べさせよう、ということだった。学校へ行かせるなら何時に起こすか、連絡帳はどこに置いたか、そういう細かなことが先に浮かんだ。
それが少し可笑しくて、詩稀は息だけで笑った。
起こさないようにそっと布団を抜け出し、寝室を出る。キッチンに立って冷蔵庫を開けると、昨日買ってきた牛乳と卵が目に入った。パンもある。簡単な朝食ならすぐに作れる。
フライパンに火をつけ、卵を割る。
トースターにパンを入れる。
味噌汁を作るほどの余裕はないが、スープくらいならできそうだった。
包丁を持つ手は、昨日までより少しだけ軽かった。
*
朝食ができる頃、香澄が先に起きてきた。
「おはようございます」
まだ眠そうなのに、きちんとそう言う。詩稀は振り返って笑った。
「おはよう。まだもう少し寝ててもよかったのに」
「……何か手伝おうかと思って」
その返事に、詩稀は一瞬だけ目を細める。やはりこの子は、朝になってもまず“役に立とう”とするのだ。
「今日はいいよ」
なるべく軽く言う。
「その代わり、起きたばっかりの和樹を起こす係、お願いしてもいい?」
香澄は少しだけ安心したように頷いた。
「はい」
寝室へ戻っていく背中を見送りながら、詩稀は皿を並べる。
ほどなくして、和樹の不機嫌そうな声と、それを宥める香澄の小さな声が聞こえてきた。
五分後、二人は揃ってリビングへ出てきた。
和樹はまだ目が半分閉じたままだったが、詩稀の顔を見ると安心したように足を止めた。
「おはよう」
「……おはよう」
声は小さいが、ちゃんと返ってくる。
それだけで、詩稀は少しだけ胸をなで下ろした。
朝食は、トーストとスクランブルエッグとコンソメスープにした。昨日までなら無理にでも食べていた二人が、今日は少しだけ自然に箸を動かしている。いや、箸ではなくスプーンと手だ。そんなことに気づいて、自分が緊張しすぎていたのだと詩稀は思う。
「今日は、学校行けそう?」
聞くと、香澄はパンをちぎる手を止めた。
「……行きます」
小さな声だったが、昨日より迷いがなかった。
和樹も少し遅れて頷く。
「ぼくも」
「しんどくなったら、無理しなくていいからね」
詩稀は二人を見た。
「保健室でもいいし、先生に言ってもいい。帰りたくなったら学校から電話してもらって」
香澄は真面目な顔で頷く。和樹は少し考えてから、ぽつりと聞いた。
「しきちゃん、帰ったらいる?」
詩稀は迷わず答えた。
「いるよ」
それを聞いて、和樹はようやくパンに手を伸ばした。
*
学校へ行く支度は思ったより時間がかかった。
荷物は昨日持ち帰ってきたばかりで、まだ置き場所も決まっていない。学校用のノートはこの袋、体操服はこっち、連絡帳は机の端。三人で確認しながら準備をする。
香澄は途中で何度も「これ、ここでいいですか」と聞いた。
“自分の物をどこへ置いていいのか分からない”という戸惑いが、その一言ずつに滲んでいた。
「うん。そこは香澄の場所にしよう」
そう言うと、香澄は少しだけ目を見開いてから、小さく頷いた。
和樹のランドセルの中身も一緒に確認する。消しゴム、筆箱、教科書。昨日までは“預かっている荷物”だったものが、今日は“この家から持っていく学校の荷物”に変わっている。その変化が、詩稀には静かに重かった。
玄関を出る時、香澄は一度だけ振り返った。
昨日持ち帰ったボストンバッグ、畳んで床に置いた服、狭い寝室。どれもまだ仮置きのままだ。
けれど、その視線は不安だけではなかった。
「行ってきます」
香澄が言う。
「行ってきます……」
和樹も続く。
詩稀は笑って返した。
「行ってらっしゃい」
二人の背中を見送りながら、詩稀は一瞬だけ立ち尽くした。
この家から学校へ行く。
その、ごく普通のことが、今日はたまらなく大事に思えた。
*
会社へ向かう電車の中で、詩稀はずっと窓の外を見ていた。
今日、話さなければならない。
昨日までとは違う形で。
荷物を取りに行ったことも、家の状態も、二人の様子も。そして、自分の中で決まったことも。
逃げるように退職するつもりではなくなった。
だが、その代わりに引き受けるものは、昨日までよりずっと明確だった。
総務部のフロアへ入ると、佐伯がすぐに気づいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
詩稀が答えると、佐伯は一歩近づいて、低い声で聞いた。
「大丈夫でしたか」
「……大丈夫、とは言えないですけど」
詩稀は少しだけ笑った。
「でも、話は進みました」
佐伯はそれ以上その場では聞かなかった。ただ、「部長、今なら空いてます」とだけ教えてくれる。
部長室へ入ると、部長は書類から顔を上げてすぐに言った。
「座れ」
詩稀は勧められるまま椅子に座った。
「昨日の続きか」
「はい」
詩稀は一度だけ息を吸う。
「荷物を取りに行きました」
「それで?」
「……家の中は、もう戻る前提の状態ではありませんでした。必要なものだけが抜かれていて、上の二人の物だけが残っていました」
部長の眉がわずかに寄る。
「燈と拓治の連絡は?」
「拓治とは電話で話しました。燈とはまだ直接は」
そこまで言ってから、詩稀は続けた。
「拓治は、二人を引き取るつもりはないようです。燈も同じです。親権を押し付け合っている状態だと、自分で言っていました」
部長は何も挟まない。ただ、黙って聞いている。
「そのうえで、昨日あの家を見て、二人の様子を見て……私、一時的に預かるつもりでは、もういられないと思いました」
詩稀は視線を上げた。
「引き取る前提で動きたいと思っています」
その言葉を口にすると、不思議なくらい落ち着いた。
昨日まで胸の内だけにあったものが、ようやく外の世界へ形を持って出た気がした。
部長はしばらく黙ってから、小さく息を吐いた。
「そうか」
それは驚きでも否定でもない声音だった。
「覚悟は決まったんだな」
「はい」
詩稀は頷く。
「だったら、次は手続きだ。感情だけでは守れない」
「はい」
部長は内線を取った。
「法務部、繋いでくれ。昨日話していた件だ」
*
法務部の担当は、三十代後半くらいの女性だった。名前は高橋と名乗った。
社長から事前に話が通っていたらしく、会議室へ入るなり必要書類を広げてくれる。
「まず、すぐに養子縁組という話ではありません」
高橋は落ち着いた声で言った。
「離婚協議、親権、監護の実態、親の同意、子ども本人の意思、その順に整理する必要があります」
淡々とした説明だったが、冷たくはなかった。
詩稀の前に並べられるのは、難しい法律の条文ではなく、“今やるべきこと”の順番だった。
「現在の状況ですと、学校や生活の実態をまず固めることが大事です。子どもたちがどこで暮らしているか、誰が監護しているか、日常をどう回しているか。それが後で全部意味を持ちます」
部長が横で腕を組んだまま聞いている。
高橋はさらに続けた。
「暴力や育児放棄に関する記録があるなら、それも保全しておいてください。診断書は?」
「あります」
詩稀が答えると、高橋は頷いた。
「それなら大丈夫です。あと、学校側との連携も大事になります。生活拠点が変わったこと、今後の緊急連絡先、場合によっては家庭状況の共有も必要です」
やるべきことは多かった。
けれど、全部が“遠い話”ではなくなっていた。
高橋が最後に紙を一枚差し出す。
「今日の時点では、これだけ押さえておけば十分です。一つずつやりましょう。全部を一日で片づける必要はありません」
その言葉に、詩稀は初めて少し肩の力を抜いた。
*
会議室を出たあと、部長は廊下で立ち止まった。
「笠原」
「はい」
「来週いっぱいまでは休め」
詩稀は顔を上げる。
「でも」
「でも、じゃない」
低い声だったが、そこに怒気はなかった。
「今は仕事をする時期じゃない。生活を整えて、必要な手続きを進める方が先だ。社長からも、そのための便宜は最大限図れと言われている」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは全部終わってからでいい」
部長はそう言ってから、少しだけ表情を和らげた。
「その代わり、勝手に抱え込むな。進んだこと、止まったこと、困ってることはちゃんと上げろ」
詩稀は、深く頭を下げた。
「はい」
来週いっぱいの休暇。
それは、ただの休みではなかった。
この家族を現実の中で作っていくための時間だった。
*
帰りの電車の中で、詩稀は小さく息を吐いた。
まだ何も終わっていない。
むしろ、ようやく始まったところだ。
けれど、昨日までのような宙吊りの不安とは違った。
やるべきことが見えたぶんだけ、怖さも少し形を変えていた。
家へ帰ると、玄関の前に小さな靴が二足並んでいた。
昨日まではなかった景色だ。
それだけで、詩稀は胸の奥がやわらかくなるのを感じた。
鍵を開けると、奥からぱたぱたと足音がする。
「おかえりなさい」
香澄が先に顔を出した。
その後ろから和樹も、少し遅れて覗く。
「ただいま」
詩稀は自然にそう返していた。
その一往復だけで、今日一日の意味が少しだけ報われる気がした。
香澄が、おそるおそる聞く。
「会社……どうでしたか」
詩稀は靴を脱ぎながら答えた。
「少しずつだけど、進んでるよ」
香澄はその言葉を反芻するみたいに頷いた。和樹は何も言わずに近づいてきて、詩稀の服をそっと掴む。
詩稀は二人を見下ろして、静かに思う。
昨夜、家族になった。
そして今日、その約束は朝になっても消えなかった。
もう、戻れない場所を数える必要はない。
これからは、ここを生活の場所にしていけばいい。
詩稀は二人の頭を順番に撫でた。
「今日は何食べようか」
そう聞くと、和樹が少しだけ考えてから言った。
「……オムライス」
香澄が、ほんの少しだけ笑う。
それを見て、詩稀も笑った。
何も解決していない。
それでも、昨日より今日の方が、少しだけ前へ進んでいる。
そのことだけは、もう疑わなくていい気がした。




