第十四話 選ぶ側になる日
それから数日で、三人の生活には一応の形ができた。
朝は詩稀が先に起きて朝食を作り、香澄が和樹を起こす。学校へ送り出したあとは、詩稀が法務部に教わった手続きの確認や書類の整理を進める。夕方になれば二人が帰ってきて、三人で食卓を囲む。
まだ、きちんと整った生活とは言えなかった。
服は畳んで床に置かれたままだし、ボストンバッグも寝室の端に並んでいる。もともと一人で使っていた一LDKは、相変わらず少し狭くて、どこか仮住まいみたいだった。
それでも、その部屋はもう間違いなく三人の生活の場所になり始めていた。
だからこそ、詩稀は怖かった。
この暮らしを、また誰かの都合で揺らされるのが怖い。
香澄と和樹の気持ちが、大人の言い訳でまた踏みつけられるのが怖い。
法務部の高橋は、次に必要なのは親と子どもの意思確認だと言った。
親権だの監護だのという話の前に、まず誰がどう考えているのかを、曖昧にしないための場が要るのだと。
だから今日は、そのための面談だった。
*
場所は市役所の相談室だった。
白い壁、長机、パイプ椅子。実家でもなく、拓治の家でもない、誰の匂いも染みついていない部屋。だからまだましだった。
詩稀の隣に香澄、その隣に和樹が座っている。
和樹は朝からほとんど喋っていない。今日は詩稀の服の裾ではなく、ハンカチを握りしめていた。香澄は背筋を伸ばしすぎて、逆に肩が固く見える。
向かいには燈と拓治がいた。
燈は痩せたように見えた。化粧はしているのに顔色が悪い。拓治はスーツ姿だったが、以前のような軽薄な愛想はどこにもなかった。なくなったのではなく、出す必要がなくなっただけかもしれない。
部屋の隅には相談員の女性が一人、義仁も壁際の椅子に座っている。誰も口火を切りたがらないまま、時間だけがじりじりと過ぎた。
最初に話し始めたのは、燈だった。
「……私は、無理です」
あまりにも早く、その言葉が出たので、詩稀は一瞬だけ表情を失った。
燈は机の上の自分の指先を見たまま続ける。
「下の三人だけでも今はいっぱいいっぱいで、正直、上の二人まで同時には見られません。私だって好きでこうなったわけじゃない。でも、無理なものは無理なんです」
相談員が何かを書き留める音だけが小さく響いた。
詩稀は燈を見た。
燈は一度も、香澄と和樹の方を見なかった。
拓治は、燈が話し終わるのを待っていたみたいに口を開いた。
「俺も、引き取るのは難しいです」
その声は、電話越しに聞いた時と同じ温度だった。
「会社の処分もありますし、異動も控えています。生活基盤が変わる中で、二人を安定して見られるとは言えません」
安定。
見られるとは言えない。
客観的な事情を説明しているような口ぶりが、詩稀にはひどく不快だった。
相談員が静かに確認する。
「お二人とも、現時点では長女さんと長男さんを監護する意向はない、という理解でよろしいですか」
「……はい」
燈が先に答えた。拓治も少し遅れて頷く。
詩稀の隣で、香澄の指先が小さく震えた。
視線は落としている。けれど、聞こえていないふりはしていない。全部、自分の中に入れてしまっているのが分かった。
詩稀は静かに息を吸った。
「その言い方は、やめてもらえますか」
部屋の空気が一瞬だけ張る。
拓治が顔を上げた。燈もわずかに肩を揺らす。
「意向がない、監護できない、安定しない。そういう言い方をすれば、自分たちが冷静に現実を見ているみたいに聞こえる。でも、実際に言ってることは違うでしょう」
「お姉ちゃん、そういう言い方……」
燈が口を挟みかける。
詩稀は視線を逸らさずに言った。
「じゃあ、違うの?」
燈は口を閉じた。
拓治は少し苛立ったように椅子へもたれた。
「先輩、感情的になられても困るんですけど」
「感情的なのはどっち?」
詩稀は静かに返す。
「自分たちが引き取れない理由ばかり並べて、子どもの前で、それを“仕方ないこと”みたいに話しているのはあなたたちでしょう」
相談員が何か言おうとしたが、その前に香澄の方で空気が変わった。
詩稀は来る前に、二人へ言っていた。
今日は、いい子でいなくていい。
誰かの顔を立てなくていい。
思っていることを、そのまま言っていい。
香澄は最初、何も言わなかった。
けれど燈が、こちらを見ないまま絞り出すように言った一言で、その沈黙は終わった。
「私は、下の子たちを守るので精一杯なの」
その瞬間、香澄が顔を上げた。
泣いてはいない。怒ってもいない。
ただ、妙に静かな目だった。
「じゃあ」
その声は小さいのによく通った。
「私たちは、最初から守るつもりなかったんだ」
燈の顔が強張る。
「香澄、そういうことじゃなくて」
「そういうことだよね?」
香澄は続けた。
「ずっと、そうだったもん。小さい子たちが優先で、私と和樹は大きいから大丈夫って、いつも後回しだった」
「それは……」
「私、大丈夫って言えば、お母さんたちが困らないと思ってた」
香澄の手が膝の上で強く握られる。
「いい子にしてたら、ちゃんと家族でいられると思ってた」
部屋の中が静まり返った。
詩稀は何も言わない。
ここで言葉を挟んだら、この子はまた自分を引っ込める。
「でも違った」
香澄は今度は拓治の方を見た。
「お父さんも、お母さんも、もう私たちのこといらないんでしょ」
拓治が顔をしかめる。
「いらないとか、そういう言い方は」
「じゃあ、なんて言えばいいの?」
香澄は問い返した。
「現実的じゃないって言えば、捨ててないことになるの?」
拓治は言葉に詰まった。
香澄はそこで初めて、詩稀の方へ視線を向けた。
「私、もう元の家に帰りたくない」
その一言が、部屋の真ん中にまっすぐ落ちた。
「しきさんのところで暮らしたい」
相談員が静かに顔を上げる。
「誰かに決めてほしいんじゃなくて、私がそうしたい」
そこまで言って、香澄の目にようやく涙が滲んだ。
けれど、声は震えなかった。
これは泣きながら助けを求める言葉ではなく、自分の人生を自分で選ぶ言葉だった。
詩稀の胸の奥が熱くなる。
次に動いたのは和樹だった。
和樹はずっと俯いていた。けれど、香澄が言い終わったあとで、ゆっくりと詩稀の袖を掴みに来た。
「ぼくも」
小さな声だった。
「しきちゃんのところに帰りたい」
それだけだった。
でも、十分だった。
燈が息を呑む音がした。拓治は眉を寄せたまま黙り込んでいる。
詩稀は二人の手をそれぞれ握った。
「聞きましたよね」
詩稀は、今度ははっきりと燈と拓治を見た。
「この子たちは、自分で選んだ」
誰も何も言わない。
「必要な手続きは、私の方で進めます」
声は不思議なくらい落ち着いていた。
「もう、“とりあえず預かっている”つもりはありません。監護の実態も、生活の基盤も、これから整えます。以後のやりとりは、直接この子たちにぶつけるのではなく、必要な形でしてください」
「お姉ちゃん、それは……」
燈がようやくこちらを見た。
その顔には、悲しみも、怒りも、安堵も、全部が中途半端に混じっていた。
詩稀は首を振る。
「もう、曖昧にはしない」
それは燈に向けた言葉であると同時に、自分自身への確認でもあった。
拓治が何か言おうとしたが、結局「分かりました」とだけ口の中で呟いた。燈は唇を噛んだまま、最後まで香澄とも和樹とも目を合わせなかった。
*
相談室を出たあと、誰もすぐには喋らなかった。
廊下を歩き、外へ出る。夕方の風は少し冷たく、相談室の中の息苦しさをようやく薄めてくれるようだった。
香澄は詩稀の半歩後ろを歩いている。和樹はもう隠す気もないみたいに、詩稀の手を握っていた。
「疲れたね」
詩稀が言うと、香澄が小さく「はい」と返した。
「よく言えたね」
そう続けると、香澄は少しだけ首を振る。
「……怖かったです」
「うん」
「でも、言わないと、また誰かに決められる気がしたから」
詩稀は、その言葉を胸の中で繰り返した。
誰かに決められる。
この子はずっと、そうやって生きてきたのだろう。
「もう、勝手には決めさせないよ」
詩稀が言うと、和樹が握る手に少しだけ力を込めた。
帰り道、駅前の信号を渡る時、和樹がぽつりと言った。
「しきちゃん」
「なに?」
「今日は……ちゃんと帰るとこ、あるね」
詩稀は一瞬、言葉を失った。
それから、できるだけいつも通りに答えた。
「あるよ」
その返事に、和樹はようやく小さく頷いた。
*
マンションの前まで戻ってきた時、香澄が立ち止まった。
詩稀が振り返る。
「どうしたの?」
香澄は少しだけ躊躇って、それから小さく息を吸った。
「……ただいま、って言ってもいいですか」
詩稀の胸の奥で、何かが静かにほどけた。
「うん」
香澄は、まだ少しぎこちない声で言った。
「ただいま」
和樹もそれに続く。
「……ただいま」
詩稀は鍵を開けながら笑った。
「おかえり」
その一言だけで、今日一日の意味が報われる気がした。
玄関を開けると、昨日までと同じ狭い部屋がある。床に置いた荷物も、まだ片づけきれていない服も、そのままだ。
けれどもう、それは仮の置き場ではなかった。
ここが、帰ってくる場所だ。
詩稀は靴を脱いだ二人を見て、静かに思う。
親に選ばれなかったことは、消えない。
喪われたものも、なくならない。
それでも今日、この子たちは自分で選んだ。
誰と生きるか。
どこへ帰るか。
その答えを。
詩稀はランドセルを置く二人の背中を見ながら、ようやく本当に覚悟が定まるのを感じていた。
もう、守るだけでは足りない。
この子たちと生きていくのだ。
その先にある面倒も、手間も、不安も、まとめて引き受ける。
次に必要なのは、証明することだった。
この子たちが、自分の家族として、これから先を生きていけるように。
喪われたものの続きを、三人で作っていくために。




