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受け継がれるもの ――母になれなかった叔母が、ふたりの親になった話――  作者: リフェリア


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第十五話 受け継がれるもの

 朝の食卓には、三人分のマグカップが並んでいた。


 白、紺、薄いグレー。どれも形はばらばらなのに、もう長いことこの家の朝の景色として馴染んでいる。トーストの匂いとコーヒーの湯気の向こうで、詩稀はスマートフォンに届いた社内メールを流し読みしていた。


「お母さん、佐伯課長から?」


 向かいから香澄が聞く。


「うん。午前の会議資料、先に確認してほしいんだって」


 そう答えながら、詩稀は小さく笑った。


 “課長”と呼ばれていた頃から、もう十年以上が経った。

 今は総務部長として、かつて自分を支えてくれた佐伯が経理課長を務めている。あの時部長だった人は専務を経て、数年前に定年で退いた。長いようで、振り返ればあっという間だった。


「今日、帰り少し遅くなるかも」


 詩稀が言うと、和樹が味噌汁の椀を持ったまま顔を上げた。


「何時くらい?」


「七時前には帰れると思う」


「分かった」


 もう確認するだけで安心する年齢ではないのに、和樹は今でも時々そう聞く。昔の不安の名残なのだと詩稀は知っていたし、知っていて、わざわざやめさせる気もなかった。


 香澄は自分のスマートフォンを見ながら、「私は今日は定時で上がれそう」と言った。

 和樹はまだ二年目で、会社の空気に馴染んできたばかりだ。香澄も和樹も、詩稀と同じ会社に勤めている。偶然ではない。二人とも、自分で考えて選んだ結果だった。


 気づけばこの家は、一人で暮らしていた頃の静かな部屋とはまるで別物になっていた。

 三人分のスーツ、三人分の弁当箱、三人分の予定。

 それでも、不思議と窮屈ではない。むしろ、ようやく必要なものだけが揃った家のように思える。


「お母さん」


 香澄がふと顔を上げた。


「今日の夜、ちょっと時間ある?」


「あるよ。どうしたの?」


 香澄は一瞬だけ和樹と視線を交わした。


「燈さんから連絡が来てて」


 その呼び方に、今でもほんのわずかに時間の経過を感じる。

 お母さん、ではない。

 けれど、敵意だけでもない。


 詩稀はパンを置いた。


「……何て?」


「会って話したいって。二人に」


 テーブルの上の空気が少しだけ変わる。


 和樹は黙ったままだったが、箸を置く音だけが小さく響いた。

 香澄は続ける。


「悠人たちのこともあるから、無視しない方がいいかなって思って」


 詩稀は二人の顔を見た。


 もう、あの頃の子どもではない。

 それぞれ仕事を持ち、自分の足で立っている。けれど、燈という存在だけは、今でも二人の中の古傷を静かに疼かせる。


「分かった」


 詩稀は頷いた。


「行くなら私も一緒に行こうか」


 香澄は少しだけ迷ってから、「うん」と答えた。


     *


 待ち合わせは、駅前の古い喫茶店だった。


 夕方の店内はほどよく暗く、仕事帰りの客がぽつぽつと散っている。四人掛けの円卓に、香澄、詩稀、和樹と並び、少し間を空けて燈が座っていた。


 燈は実際の年齢よりずっと老けて見えた。

 母の介護と、下の三人を抱えてきた年月が、そのまま顔に刻まれているようだった。髪はきちんと整えているし、化粧もしている。けれど、それで隠せる疲れではない。


 水が運ばれてきても、燈はすぐには口を開かなかった。


「久しぶり」


 ようやく出た声は、妙にかすれていた。


「うん」


 香澄が短く返す。和樹は会釈だけした。


 燈は二人の顔を見て、それから詩稀の方へ視線を逸らした。


「……立派になったわね」


 その言葉が、誰のために発せられたものなのか、詩稀にはよく分かった。

 褒めているようでいて、そこに混ざっているのは後悔だ。あるいは、自分の人生との比較から来る苦さだ。


「それで、今日は何の話?」


 香澄が先に聞いた。声音は静かだった。


 燈はそこで、ようやく本題へ入った。


「悠人、来年受験なの。陽咲もその次にはお金がかかるし、律花もこの先どうなるか分からない。おばあちゃんの介護もまだあるし……正直、もう私一人じゃきついの」


 詩稀は黙って聞いていた。


 燈は少しずつ言葉を速める。


「養育費も払われたり払われなかったりで、拓治はあてにならないし、私だって好きでこんな生活してるわけじゃないのに、悠人たちも荒れてしまって。お母さんを施設に入れるべきだって、あの時お姉ちゃんは言ってたよね」


 燈はそこで初めて、詩稀を見た。


「あれ、正しかったんだと思う。今なら分かる。私、あの時、何も分かってなかった」


 詩稀は何も言わない。

 燈が自分の間違いを認めたからといって、それで過去が変わるわけではないことを、もう知っている。


「私の人生、介護で削られて、子育てで削られて、気づいたら何も残ってなくて……」


 燈は机の上で手を握った。


「だから、お願い。少しでいいから助けてほしいの。あんたたち、今はもう、十分余裕あるでしょう」


 その言葉で、香澄の表情が変わった。


 怒りではない。

 何かをようやく見切った時の、静かな顔だった。


「産んでくれたことには、感謝してる」


 香澄が言う。


 燈の肩がぴくりと揺れた。


「でも、それと、お母さんでいてくれたことは別だよ」


 その一言に、燈の唇がわずかに動く。


「私たちのお母さんは、お母さんだけだから」


 香澄は、隣の詩稀を見た。

 その呼び方は、何の力みもなく自然だった。


「高校に行く時も、大学を選ぶ時も、就職で悩んだ時も、ずっといてくれたのはお母さんだった」


 燈が何か言おうとしたが、言葉にならない。


「だから、あなたの生活まで背負うつもりはありません」


 香澄の声は静かだった。

 責めているのではなく、線を引いていた。


 和樹が続けた。


「俺も同じ気持ち」


 短い言葉だった。けれど、十分だった。


「帰る場所をくれたのは、お母さんだから」


 燈は俯いた。

 指先が小刻みに震えている。


「じゃあ……私が辛い思いしてても、何も感じてないってこと?」


 その問いには、怒りも悲しみも、被害者意識も、全部が混ざっていた。


 詩稀はそこで初めて口を開いた。


「悠人たちのことは、燈の生活とは別に支援する」


 燈が顔を上げる。


「入学金や授業料の相談なら乗る。必要があるなら、進学先での住居や生活の支援もする」


 燈の表情に、わずかな期待がよぎる。

 詩稀はその前に、きっぱりと続けた。


「ただし、燈を養うためのお金は出さない」


 燈の顔が歪む。


「どうして」


「下の三人を助けるのと、あなたの生活を丸ごと背負うのは別の話だから」


 詩稀は静かに言う。


「必要な支援は、直接三人に届く形でやる。受験費用、学費、必要ならその先も。けれど、現金をまとめてあなたに渡すことはしない」


 香澄が小さく頷いた。和樹も同じだった。


「それなら、私たちもやりたい」


 香澄が言う。


「弟妹のために、できることはする。でも、それはあなたを養うためじゃない」


 燈はしばらく黙っていた。


 言い返せないのか、言い返したくないのか、詩稀には分からなかった。ただ、目の奥にある疲れだけが妙にはっきり見えた。


「……そう」


 燈はそれだけ言った。


 受け入れたのか、諦めたのかも分からない声音だった。


     *


 店を出ると、夜風が頬に当たった。


 しばらく誰も喋らなかった。駅前の明かりが歩道を白く照らし、三人の影を細く伸ばしている。


「疲れた?」


 詩稀が聞くと、香澄が小さく笑った。


「ちょっとだけ」


 和樹は「俺はお腹すいた」と言った。

 その一言に、詩稀と香澄が同時に笑う。


「じゃあ、帰りに何か買っていく?」


「今日は、ピザとケーキの気分なんだけど」


「ピザだけじゃなくてケーキも?」


「いいじゃん。俺も久しぶりにジュース飲みたい」


 そんな会話をしながら、三人でコンビニに寄る。

 あまりに普通の帰り道で、詩稀はふと思う。

 普通であることが、こんなにも尊いと知ったのは、あの日からだ。


     *


 家に着いて、玄関を開ける。


 先に靴を脱いだ和樹が、振り返って言った。


「ただいま、お母さん」


 何気ない口調だった。

 けれど、それは昔のように確認のための言葉ではなかった。


「おかえり」


 詩稀は自然に返した。


 香澄も続く。


「ただいま」


「おかえり」


 ピザを待つ間、リビングのテーブルでパンフレットとメモ帳を広げる。さっき店で決めた内容を書き留めるためのものだ。悠人たちの進学、必要になる費用、連絡の取り方。支援すると決めた以上、曖昧にはしない。


 香澄が上着を脱ぎながら言う。


「悠人は、看護系に進みたいって前に言ってた。学費が心配で迷ってるみたいだったから、そこはちゃんと支えたい」


「陽咲は、音楽の先生になりたいって言ってたよね」


 和樹が冷蔵庫からジュースを出しながら口を挟む。


「律花は、まず部活を続けられるようにしてやりたいな。今はそれだけでも十分かも」


 詩稀は二人の声を聞きながら、ピザ用の取り皿を並べた。


 この子たちは、ちゃんと受け継いだのだと思う。


 家族を見捨てないこと。

 けれど、境界線まで失わないこと。

 優しさを、自己犠牲の言い換えにしないこと。


 血ではない。

 それでも確かに、受け継がれるものがある。


 喪われた家族の続きを、三人はもう自分たちの手で作り始めていた。

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