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受け継がれるもの ――母になれなかった叔母が、ふたりの親になった話――  作者: リフェリア


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第八話 会社としての答え

 火曜の朝、詩稀は目覚ましが鳴る少し前に目を開けた。


 昨夜よりは、ほんの少しだけ眠れた気がした。深く休めたわけではない。ただ、身体の方が先に限界を迎えて、短く意識を落としただけのことだった。側頭部の傷はまだ鈍く痛み、背中にも重だるい熱が残っている。


 寝室の隅では、香澄がもう制服に着替え終えていた。髪もきちんと結んでいる。昨日より顔色は少しましに見えるが、それが回復なのか、無理に整えているだけなのかは分からない。


 和樹はまだ布団の中にいた。起きてはいるが、起き上がる気力までは出ないらしい。詩稀が身体を起こすと、すぐにこちらを見た。


「しきちゃん、今日も会社行くの?」


「うん。午前中だけね」


 そう答えると、和樹は布団の中で小さく丸まった。


「帰ってくる?」


「帰ってくるよ」


 詩稀はそう言って笑った。笑顔がちゃんと作れているか、自分では分からなかった。


 今日は、行かなければならない。


 昨日は相談しろと言われた。だから今日は、その言葉に従うだけだ。


 けれど、ただ相談しに行くだけではないことも分かっていた。

 自分の中で、もう退職は現実的な選択肢になっている。

 それを隠して話しても意味はない。


 テーブルの端には、昨夜のうちに用意した封筒が置かれていた。中身は空だ。退職届はまだ書いていない。けれど、そこまで考えているという事実だけは、白い紙みたいにもう自分の中にある。


     *


 香澄と和樹を学校へ送り出したあと、詩稀は一度だけ部屋へ戻った。


 昨日のうちに買い足した二人分の着替えが、洗濯を終えて畳まれている。洗面所には小さめの歯ブラシが二本並んでいた。数日前まではなかったものが、今はもう自然にここにある。


 詩稀は封筒をバッグに入れた。空のまま。

 それでも、それを持っていくという行為自体が、一つの意思表示のように思えた。


 玄関を出る時、靴箱の上に置かれた学校からのプリントが目に入る。香澄の分と和樹の分。連絡帳、提出物、行事予定。どれも、ごく普通の家庭ならただ流れていく種類の紙だった。


 詩稀は鍵をかける手を一瞬止めた。


 自分は本当に、どこまで引き受けるつもりなのだろう。


 そう思ったが、今はまだ答えを出す時間ではない。

 今日は、その答えを一人で出さないために会社へ行くのだ。


     *


 総務部のフロアへ入った瞬間、空気が少しだけ変わった。


 昨日と同じだ。ただ、今日は昨日よりも、その変化がはっきり分かった。

 話が回っているのだろう。視線を向けてくる者もいるが、誰も露骨には見ない。総務部らしいと言えば、総務部らしい反応だった。


「おはようございます」


 詩稀がそう言うと、佐伯がすぐに立ち上がった。


「おはようございます、課長」


 その声色はいつも通りだったが、目だけは違った。詩稀の顔色と、額の絆創膏と、動きの硬さを一瞬で見て取っている。


「部長がお待ちです。専務も」


 短くそう言われて、詩稀は小さく頷いた。


 やはり専務もいるのか、と心のどこかで思う。

 昨日の時点で、それだけの話になっている。部長が包み隠さず上へ上げたのだろう。それは多分、正しかった。


 部長室の扉をノックすると、すぐに「入れ」と声が返る。


 中に入ると、部長と専務が並んでいた。昨日の続きであり、同時に、会社としての面談でもあるのだと一目で分かる配置だった。


「座ってくれ」


 部長が言う。


 詩稀は促されるまま椅子に腰を下ろした。専務はすぐには口を開かなかった。ただ、詩稀の顔をまっすぐに見ている。


「昨日、部長から報告を受けた」


 先に話し始めたのは専務だった。


「佐伯からの報告も合わせて聞いている。今日は、君の意向を確認するために同席している」


「……はい」


 詩稀は短く返した。


「昨日の話の続きだ」


 部長が言う。


「お前、自分の今後についてどう考えてる」


 詩稀は膝の上で手を組み直した。指先は冷えていたが、不思議と震えてはいなかった。


「退職も含めて、考えています」


 その一言が落ちた瞬間、部長の表情がはっきり変わった。


「そこまで行くのか」


「はい」


 詩稀は視線を逸らさなかった。


「昨日の話を聞いて、軽く考えていいことじゃないと分かりました。数日預かるだけでは済まない可能性が高い。もし、あの子たちを本当に守るなら、今の働き方のままでは無理です」


 専務はそこで初めて口を挟んだ。


「退職が最初に来る理由は?」


「時間です」


 詩稀はすぐに答えた。


「会社に残る前提だと、どうしても“仕事をどう回すか”から考えてしまう。でも今、私が先に考えなければいけないのは、子どもたちをどう生活させるかです」


「休職や異動では足りない?」


「足りるかどうかより、私は多分、中途半端に両方抱えます」


 詩稀は少し息を整えてから続けた。


「仕事の責任が残れば、子どもたちの方に全振りできない。逆も同じです。どちらも大事だからこそ、両方を中途半端にすると思います」


 そこで部長が机に肘をついた。


「笠原」


「はい」


「これは、お前が有能だから手放したくない、それだけの話じゃない。それを前提に聞いてくれ」


 詩稀は黙って顔を上げた。


「お前にとっては身内の話だという意識があるだろうが、拓治も、その不倫相手も、同じ総務部の人間だ。部内で発生した倫理規定違反のせいで、お前に皺寄せがいっている。しかもお前は負傷して、子どもまで抱える状況になってる」


 部長の声は低かった。怒鳴ってはいない。だが、怒っているのは分かった。


「総務部長として、俺の管理責任が問われる案件だ。俺の不始末の延長にある被害を、お前一人に背負わせ、あまつさえその負担で辞めさせるわけにはいかない、と考えている」


 その言葉は、詩稀の予想よりずっと重かった。


 部長は人情だけで言っているのではない。

 自分の責任を、自分の責任として引き受ける前提で言っている。


 専務がその横で、静かに口を開く。


「会社としても同じだ」


 詩稀はそちらを見た。


「今回の件を、笠原くん個人の家庭事情として処理するつもりはない」


 専務の言葉は簡潔で、冷静だった。


「部内不祥事の被害を受けた社員に、十分な配慮もせず退職を選ばせたとなれば、それは人材流出という以上に、会社のモラルが問われる」


 詩稀は一瞬、返す言葉を失った。


「君が課長として実績を積んできたことも、部内外に人望があることも事実だ。それを失う損失は小さくない。だが、もっとも大きいのはそこではない」


 専務は一度言葉を区切った。


「被害者である君を切り離して終わりにした、という前例を作ることだ。リスクマネジメントの観点から見ても、会社としてそれは選べない」


 その理屈は冷たく聞こえるはずだった。けれど、今の詩稀にはむしろ救いに近かった。

 情に訴えられているのではない。

 会社が会社として、対応の責任を認めている。


「だから、退職を選択せずに、仕事と子どもの保護の両面を支えられる体制を会社から提案したい」


 専務は続けた。


「そのうえでなお退職を希望するなら、その時に改めて相談しよう」


 部長が苦い顔で言う。


「まっさきに退職を選択させるつもりはない」


「……そう、ですか」


「昨日、俺は言ったはずだ。一人で抱えなくていい、と」


 詩稀は言葉に詰まる。


「それでも責任感の強いお前は、退職まで考えたんだろう。でも、この問題はお前がひとりで抱えなければならない問題じゃない」


 専務が小さく頷く。


「笠原くん。君が子どもたちを守るために人生を組み替える必要がある、と考えていること自体は理解している。その判断は、簡単にできるものではなかっただろう」


 そこまで言ってから、専務は少しだけ声音を和らげた。


「だからこそ、その代償を君一人で負う形にさせるのは、会社としては筋が悪い」


 詩稀は膝の上で手を握りしめた。


 止められている。

 けれど、それは「惜しい人材だから辞めないでくれ」というだけではない。

 会社の側も、自分に生じた被害を、総務部内の延長線上にある問題として見ている。


「……でも、私が守らないと」


 詩稀は掠れた声で言った。


「今、あの子たちを引き取れる人がいないんです」


「そこを否定してるわけじゃない」


 部長がすぐに返す。


「守るなとも、手を離せとも言ってない。ただ、その責任と覚悟は我々にも負うべきところがある、というだけだ」


 専務が続ける。


「自己犠牲で全てを背負い込もうとしないでほしい。それは君たちにとっても、一番危ない選択肢だと思う」


 詩稀は唇を噛んだ。


 分かっていた。

 昨日、部長に言われた時点で、もうそうなのだと分かっていた。

 それでも、一人で切ってしまった方が早い気がしていたのだ。選択肢を並べる時間すら惜しいほど、現実の方が先に来ていたから。


「……私は、どうすればいいんでしょうか」


 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


 専務と部長が、一瞬だけ視線を交わす。


 先に口を開いたのは部長だった。


「目の前のものから順番に片づけるといい」


 その言い方だけは、少しだけ職場の上司に戻っていた。


「今日の夜を回す。明日の学校と仕事を決める。親が本当に動く気があるのか確認する。今すぐ全部を解決しようとするな」


 専務も頷く。


「そして、会社の選択肢を聞いたうえで決めればいい。退職という結論は、最終手段に取っておけ」


 詩稀は小さく息を吐いた。


 自分が今ここで答えを出さなくていいと言われたことに、思った以上の安堵があった。

 自分で決めるべきだと思っていた。

 でも、本当は少しだけ、決めきれないことに疲れていたのかもしれない。


「……分かりました」


「本当に?」


 部長が念を押す。


「はい」


「退職届は持ってきてないな」


 その言葉に、詩稀は一瞬だけ黙った。


「……書いてはいません」


「持ってはきたんだろ」


 見透かされたようで、詩稀は少しだけ視線を逸らした。


 部長が深く息を吐く。専務の方は、逆に少しだけ口元を緩めた。


「持ってきたのなら、今日はそのまま持って帰れ」


 専務が言う。


「明日、また話そう。その時点で会社側の案も出す」


「はい」


 部長が最後に言った。


「笠原。お前が子どもを守りたいと思ってること自体は、誰も否定しない」


 その声は、少しだけ柔らかかった。


「でも、守るために自分だけが全部を捨てるのが正解だと思うな」


 詩稀は、そこでようやく、昨日から固まっていた胸の奥の何かが少しだけ緩むのを感じた。


     *


 会社を出る頃には、空は夕方の色に変わっていた。


 バッグの中には、朝入れてきた白い封筒がそのまま残っている。出さなかった。出せなかった。

 けれど、それを後悔しているかと言えば、そうでもなかった。


 改札を抜ける直前、スマートフォンが震えた。佐伯からだった。


 ――どうでしたか

 ――悪い方向ではないといいんですが


 詩稀は少しだけ立ち止まり、短く返した。


 ――まだ辞めるなと言われました

 ――明日また話します


 すぐに返信が来る。


 ――そうですか

 ――よかった、とはまだ言えませんが

 ――少なくとも、一人で決める話じゃなくなったなら前進です


 詩稀はその文面を見て、ほんの少しだけ息をついた。


 前進。

 何も解決していないのに、その言葉がまったくの嘘には思えなかった。


     *


 家に帰ると、香澄が真っ先に玄関へ出てきた。


「おかえりなさい」


「ただいま」


 その後ろから和樹も顔を覗かせる。二人とも、自分がちゃんと帰ってきたことを確認して、少しだけ表情を緩めた。


 詩稀は靴を脱ぎながら思う。


 今日、自分は退職の相談をしに行った。

 けれど、戻ってきた今、最初に意識するのは会社の返答ではなく、この二人の顔だった。


 香澄が、おそるおそる聞く。


「しきさん……会社、どうでしたか」


 詩稀は少しだけ考えてから答えた。


「まだ決まってない。でも、ちゃんと相談はできたよ」


 香澄はそれ以上追及しなかった。その代わり、小さく頷く。


 和樹が、詩稀の服の裾を掴んだ。


 その仕草が、今はもう当たり前みたいになっている。


 詩稀は二人を見て、それから静かに言った。


「今日も、ここにいていいからね」


 その言葉に、香澄の肩がわずかに下がった。和樹は何も言わなかったが、握る手の力だけが少し緩んだ。


 まだ何も終わっていない。

 それでも、昨日までと同じでもない。


 守るために、自分の何を変えるのか。

 その話は、もう一人で考えるものではなくなっていた。

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