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受け継がれるもの ――母になれなかった叔母が、ふたりの親になった話――  作者: リフェリア


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第七話 子供たちを守るということ

 月曜の朝、詩稀は目覚ましが鳴るより先に目を開けた。


 眠ったという感覚は、ほとんどなかった。浅く沈んでは浮かび、また沈むだけの夜だった。隣では和樹がいつの間にか詩稀の方へ身体を寄せていて、袖口には小さな指が引っかかっている。香澄は布団の中で目を閉じたまま、起きている人間の呼吸をしていた。


 月曜だった。


 本来なら、学校がある。仕事がある。何もかもが昨日までと同じ顔をして始まろうとしている。けれど、同じものなどひとつも残っていないことを、詩稀はもう知っていた。


「香澄?」


 声をかけると、香澄はすぐに目を開けた。


「眠れなかったの?」


「……少しだけ」


 少しどころではないと、その顔が言っていた。


「和樹はまだ寝てるね」


「夜中、何回か起きてました」


「そっか」


 詩稀は一度だけ息を吐いた。それから、できるだけいつも通りの声を作る。


「昨日話した通り、今日は二人とも学校休もうね」


 香澄は少しだけ瞬きをした。


「でも……」


「今は教室に行っても、たぶんしんどいよ」


 そう言うと、香澄は返事をするまでに少し時間を要した。行かなければならない、と思っているのだろう。けれど、行けるかと問われれば頷けない顔でもあった。


「……はい」


 やっとそれだけ言って、目を伏せる。


 和樹はまだ眠っていた。けれど詩稀が少し動くと、袖を掴んだ指先だけがわずかに力を強める。起きているのか、眠ったまま離れたくないのか、そのどちらともつかなかった。


「私も今日は仕事を休むから」


 詩稀は続けた。


「だから、今日は三人でこの家にいよう」


 香澄は顔を上げた。その言葉に安心したのか、それとも余計に申し訳なく思ったのか、詩稀にはまだ見分けがつかなかった。


     *


 学校への電話は、朝食のあとで入れた。


 香澄の担任にも、和樹の担任にも、家庭の事情で本日欠席させますとだけ伝えた。担任たちは深くは聞かなかった。配慮なのか、朝の忙しさのせいなのかは分からない。ただ、詮索されないだけで助かった。


 次に会社へ連絡する。


 詩稀が自席ではなく、佐伯の内線へ直接かけたのは半ば反射だった。こういう時、まず一番早く状況を掴むのは佐伯だと分かっていた。


『おはようございます、佐伯です』


「おはようございます。笠原です」


 自分の声を聞いて、詩稀は思った。昨日より少しだけ掠れている。


 電話の向こうで、佐伯が一拍置く。


『おはようございます、課長。……もしかして、何かありましたか?』


「うん。ごめんなさい。今日は事情ができたので、お休みをもらいたいと思います。私が抱えている案件で本日中が期限のものはありませんが、状況が変わったら教えてもらえると助かります」


『分かりました』


 即答だった。そこに躊躇がないのが、かえってありがたかった。


『課長。差し支えなければですけど、その事情って、すぐに解決する類のものなんですか?』


 詩稀は台所の流しに目をやった。昨夜使ったコップが、まだ一本だけ伏せられたまま置いてある。


「……今日明日で解決は難しいと思っています」


 そう言うと、佐伯は短く息を吸った。


『分かりました。部長にはその前提で報告します』


「佐伯さん」


『はい』


「私、まだ何も決められていなくて。ただ、今の状態では身動きが取れなくて」


『はい』


「上手く伝えられなくてごめんなさい」


『それだけ分かれば十分です』


 返ってきた声に、詩稀は少しだけ目を閉じた。


『今日は会社のことは考えなくていいです。連絡が必要なものは私で止めます。部長から何かあるかもしれませんが、それも無理に返さなくて大丈夫です』


「……ありがとう」


『謝らないでください。あと』


 佐伯は少しだけためらうように言葉を選んだ。


『課長一人で判断しきれない話になってるなら、一人で決めない方がいいですよ』


 詩稀は返事の代わりに、短く「はい」とだけ言った。


     *


 午前中は、驚くほど静かに過ぎた。


 静かすぎる、という方が近いかもしれない。香澄は自分から何かをしようとし、そのたびに詩稀に止められた。本を読んでいても、ページはあまり進んでいない。和樹は詩稀の近くを離れず、ソファでも台所でも半歩後ろをついて歩く。


 拓治からは何も来なかった。燈からも来ない。義仁からも、一度「燈姉さんはまだ荒れている」と短いメッセージが届いただけだった。


 昼を過ぎても、何も決まらない。


 詩稀は昼食に雑炊を作った。温かくて、喉を通りやすいものの方がいいと思ったからだ。香澄は「美味しいです」と言ったが、その声はまだぎこちない。和樹は黙って食べた。昨日よりは少しましだった。


 食後、和樹が珍しく自分から口を開いた。


「しきちゃん、きょう、ずっといる?」


「うん。今日はずっといるよ」


 それを聞いたあと、和樹はようやく少しだけ肩の力を抜いた。


 たったそれだけの確認で、と思う。けれど、今この子に必要なのは多分、そういう確認なのだ。大きな約束ではなく、今日一日の存在確認。


 午後三時を過ぎた頃、香澄が詩稀のところへ来た。


「しきさん」


「なに?」


「洗濯物、取り込んでいいですか」


 詩稀は少しだけ考えてから頷いた。


「うん。でも一人じゃなくて、私と一緒にやろう」


 香澄は一瞬だけ目を丸くして、それから「はい」と答えた。


 ベランダに出ると、外の風は思ったより冷たかった。洗濯物は薄く乾いていて、まだ少しだけ湿り気が残っている。香澄はいつもの癖で黙々と手を動かし始めたが、途中で何度か詩稀の方を見た。自分が今やっていることが「手伝い」なのか「また余計なこと」なのか、確かめたい顔だった。


「ありがとう」


 詩稀が先に言うと、香澄の手が止まる。


「でも、今日は“助かった”って意味じゃなくて、一緒にやってくれてありがとう、ね」


 香澄はしばらく黙ってから、こくりと頷いた。


 その言い方ひとつで、この子はまだこんな顔をするのだ、と詩稀は思う。


 壊れてしまったものばかりを見ていたけれど、壊しきれていない部分も、きっとまだある。


     *


 部長が来たのは、夕方の六時を少し回った頃だった。


 インターホンの画面に映った顔を見た瞬間、詩稀は言葉を失った。


「……部長?」


『急に悪い。少しだけ話せるか』


 断る理由がすぐには浮かばなかった。というより、断るべきかどうか判断する余力がなかった。


 玄関を開けると、部長はいつものスーツ姿のままだった。会社帰りなのだろう。けれど表情だけは職場で見る時よりずっと静かで、妙に私情を排していた。


「わざわざ、どうして」


「佐伯から話を聞いた」


 部長は短く答えた。


「このまま電話だけで済ませる話じゃないと思った」


 その言葉で、詩稀はようやく状況を理解した。佐伯が報告したのだろう。怪我。子ども。休み。そこまで聞けば、部長が動くのは不思議ではない。


 部長は靴を脱ぐ前に一度、部屋の中へ視線を向けた。リビングでは和樹がソファの端に座っていて、香澄がその横にいた。二人とも見慣れない大人に身体を固くしている。


「こんばんは」


 部長が穏やかに言うと、香澄が先に立ち上がった。


「……こんばんは」


 和樹も少し遅れて頭を下げる。


「急に来てごめんね。ちょっとだけ、しきさんと話してもいいかな」


 そう言う声は柔らかかったが、必要以上に愛想を作っていないところが部長らしかった。香澄は一瞬だけ詩稀を見て、それから頷く。


「和樹、部屋に行こう」


 和樹は動かなかった。詩稀が視線を合わせる。


「すぐ戻るから」


 そう言うと、和樹はようやく立ち上がった。香澄に手を引かれるのではなく、自分の足で歩いたことに、詩稀は少しだけ救われた。


 寝室のドアが閉まる。


 部長はリビングの椅子に座る前に、詩稀の額のテープと、動かし方のぎこちない肩を見た。


「その怪我……病院は行ったんだな」


「はい」


「診断書は?」


「……取ってあります」


「そうか」


 部長はそれ以上すぐには何も言わなかった。詩稀が向かいに座り、概要を説明するのを待っていた。


 詩稀は、必要なことだけを話した。


 妹夫婦の不倫。燈が暴れたこと。自分の怪我。香澄と和樹を預かっていること。燈も拓治も、今のところ親として機能していないこと。


 話し終えるまで、部長は一度も口を挟まなかった。


「妹夫婦の不倫騒動、暴力、……そして、甥姪を預かっている、か……」


 詩稀は頷いた。


「それで」


 部長の視線がまっすぐ向けられる。


「笠原自身は、今のこの状況をどう思う」


 答えに詰まった。


 どういう状況なのか。

 それを一番知りたいのは自分だ、と一瞬思う。


「……一時的に預かっている、つもりでした」


「昨日までは?」


「はい」


「今日は?」


 部長は追い詰めるような言い方はしなかった。ただ、逃げ道だけを一つずつ消していくみたいに静かだった。


 詩稀は視線を落とした。


「今日は、もうそれだけじゃ済まないと思っています」


「そうだろうな」


 即答だった。


「親は二人とも機能していない。片方は暴力を振るい、片方は子どもを押しつけて逃げてる。そこに子どもが二人いて、今夜もここにいる」


 淡々と並べられた事実が、妙に重かった。


「これは、“数日面倒を見る”で軽く考えていい話じゃないな」


 詩稀は息を呑んだ。


「分かってます」


「分かってない」


 部長ははっきり言った。


「いや、感情では分かってるんだろう。ただ、生活の重さとしては、まだ分かりきってない」


 詩稀は反論できなかった。


「食事を作る。学校に行かせる。休ませるなら連絡を入れる。眠れない夜があれば付き合う。親が突然現れた時に守る。病院に連れて行く。行政や法のことも考える。場合によっては、何か月も、何年も続く」


 部長は詩稀の顔を見たまま言う。


「それを課長職と並行して、善意と根性で回せると思うなら、その考えは今すぐ捨てた方がいい」


 その言葉は厳しかったが、正しかった。


 詩稀は唇を噛んだ。


「でも、今ここで私が手を離したら、あの子たちは」


「だから、手を離せとは言っていない」


 部長は少しだけ声を低くした。


「俺が言ってるのは、守ると決めるなら、代償を見誤るなということだ」


 その一言が、まっすぐ胸に落ちた。


 詩稀は視線を上げる。


「……代償」


「仕事だよ」


 部長は言った。


「少なくとも、今までの笠原の働き方では維持すらできない」


 リビングの空気が、少しだけ張る。


「笠原、お前は優秀だ。真面目で、抱えれば抱えたぶんだけ回そうとする。だからこそ危ない」


 責めているのではなく、知っている人間の言い方だった。


「妹夫婦の身勝手さに腹が立つのは当然だ。あの子たちが放り出されているのを見て、見捨てられないのも分かる。けど、“見捨てられない”と“引き受けられる”は別だ」


 詩稀は何も言えなかった。


 昨夜から、ずっとその境界が曖昧だった。見捨てられないから自分がいる。自分がいるから何とかなる。そう思いたかった。けれど、何とかなる、の中身を具体的に問われると、途端に足元がなくなる。


「今日明日で結論を出せと言うつもりはない」


 部長は続けた。


「ただ、軽く決めるな。勢いで“何とかします”と言うな。子ども二人の生活を引き受けるというのは、人生の予定を組み替えることだ」


 組み替える。

 その言葉に、詩稀はゆっくり瞬きをした。


「……私は……どうすればいいんでしょうか……」


 気づけば、そんな弱い言葉が口から出ていた。


 部長は少しだけ視線を和らげた。


「目の前のものから順番に片づけろ」


 答えは簡潔だった。


「今日の夜を回す。明日の学校と仕事をどうするか決める。親が本当に動く気があるのか確認する。今すぐ全部を解決しようとするな」


「はい」


「お前が普段、仕事でやってることと同じだよ。順番をつけろ」


 その言い方だけは、少しだけ職場の部長に戻っていた。


「そのうえで、お前が本気であの子たちを守ると決めたなら」


 部長はそこで一度言葉を切った。


「その時は、自分の立場を守ることと両立できるか、ちゃんと考えろ」


 詩稀は、胸の奥がひどく静かになるのを感じた。


 守る。

 そのために失うものがある。

 その順番で考えたことは、今までなかった気がする。


 仕事は大事だった。ここまで積み上げてきたものだ。やりがいもある。責任もある。ようやく掴んだ場所でもある。


 けれど、もしあの二人を本当に守るなら。

 “今のまま”では、きっと足りない。


「……部長」


「なんだ」


「もし、私が仕事を続けられないって判断したら」


 部長は目を細めた。


「その時は、相談しろ。続けられない原因にあわせて、解決策を一緒に考える。お前一人で背負わなくていい」


 即答ではなかった。けれど、軽く流す声音でもなかった。


「今ここで、感情だけで決めるな。一人で悩むな。そこだけ言いに来たんだ」


 そう言って部長は立ち上がった。


 帰るのかと思ったが、その前に一度だけ寝室のドアの方を見る。


「子どもたちには、今日もここにいていいんだって、はっきり言ってやれ」


「……はい」


「先のことは、まだ言い切れなくていい。だが今夜の居場所だけは、曖昧にするな」


 部長はそれだけ言って玄関へ向かった。


 詩稀は見送りながら、何も返せなかった。


 優しい言葉ではなかった。慰めでもなかった。けれど、昨日から聞いたどの言葉よりも現実だった。


     *


 部長が帰ったあと、詩稀はしばらく玄関に立ったままだった。


 靴箱の上に置かれた鍵。脱ぎ揃えられていない子どもの靴。病院でもらった薬の袋。全部が、自分の生活の中に突然滑り込んできた異物のようでいて、もう一晩あればそれなりに馴染んでしまいそうな顔をしている。


 その馴染み方が、逆に怖かった。


「しきさん」


 振り返ると、香澄が寝室のドアを少しだけ開けてこちらを見ていた。和樹はその後ろにいる。


「もう、帰ったんですか」


「うん。会社の人」


 香澄は少しだけ迷ってから、聞いた。


「……怒られました?」


 詩稀はその問いに、ほんの少しだけ笑ってしまった。


「怒られてないよ」


 それは本当だった。

 ただ、突きつけられた。


「話、聞いてもらっただけ」


 香澄はそれ以上聞かなかった。聞きたくても、聞いてはいけないと思ったのだろう。そういう遠慮をする子だ。


 夕食は簡単に済ませた。炊き込みご飯の素を使って、味噌汁を作るだけ。和樹は昨日より少しだけ食べた。香澄も、食べながら何度か詩稀の顔を見た。額の絆創膏が気になるのだろう。


 夜が更け、二人が寝室に入ったあと、詩稀は一人でリビングに残った。


 灯りはつけたままだった。消すと、何かを決めてしまいそうな気がしたからだ。


部長の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


 見捨てられないことと、引き受けられることは別。

 生活を引き受けるというのは、人生の予定を組み替えることだ。


 詩稀はテーブルの上のノートパソコンを開いた。仕事の資料を見るためではない。無意識に、社内規程のページを開いていた。


 休職。

 異動願い。

 退職届。


 画面に並ぶ文字を見ているうちに、自分の思考がどこへ向かっているのか、もうごまかせなくなった。


 課長職のままでは無理だ。

 いや、課長職どころか、この働き方のままでは無理だ。


 善意で数日支える話ではない。

 もし守るなら、自分の生活の中心をずらさなければならない。


 その時、退職という言葉が、初めて逃げ道ではなく選択肢として形を持った。


 詩稀は引き出しから白い便箋を取り出しかけて、手を止めた。


 今ここで一人で決めるな。

 部長の声が、まだ耳の奥に残っている。


 便箋を引き出しへ戻し、代わりにスマートフォンを手に取る。

 明日、相談しよう。


 守ると決めるなら、失うものがある。

 そしてその選び方だけは、勢いで決めてはいけないのだと、詩稀はようやく理解し始めていた。

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