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受け継がれるもの ――母になれなかった叔母が、ふたりの親になった話――  作者: リフェリア


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第六話 進む時間、進まない問題

 結局、詩稀がうとうとしたのは、空が白み始める少し前だけだった。


 ほんの浅い眠りだった。意識が沈みきる前に、何度も小さな物音で浮かび上がる。隣の布団の擦れる音。和樹の寝返り。香澄が喉の奥で息を詰めるみたいに短く吸う音。


 完全に目が覚めた時、部屋の中はまだ薄暗かった。


 カーテンの隙間から差し込む朝の気配は弱く、時計の数字だけが妙にくっきり見える。午前五時四十二分。体を起こすと、側頭部の傷が鈍く痛んだ。背中も熱を持ったままで、寝た気がしない。


 隣では和樹が丸くなって眠っていた。袖を掴んだまま眠ってしまったらしく、詩稀が少し動いただけでその指先がぴくりと動く。


 香澄はもう起きていた。


 布団の中で膝を抱え、音もなく座っている。目が合った瞬間に、気づかれた、という顔をした。


「起こしちゃったかな?」


 小声で尋ねると、香澄は首を振った。


「あんまり寝れなくて」


 その答え方があまりにも予想どおりで、詩稀は胸の奥が重くなる。子どもらしい言い訳すらもう出てこない顔だった。


「和樹、まだ寝てるね」


「うん。さっきまでは何回か起きてたけど、今は寝てます」


「そっか」


 それ以上、言葉が続かなかった。


 朝になったからといって、何かが整うわけではない。むしろ、夜のあいだ先送りにしていたものが、順番に形を持ち始めるだけだ。


 燈と拓治。

 下の三人。

 義仁。

 自分の怪我。

 そして、明日。


 何ひとつ、軽いものがない。


 詩稀は布団から抜け出し、寝室のドアを静かに開けた。


「ちょっと顔洗ってくるね。香澄はもう少し寝てていいよ」


「……私、朝ごはん作ります」


 ほとんど反射みたいに返ってきた言葉に、詩稀は立ち止まった。


「香澄が作らなくてもいいんだよ」


「でも」


「でも、じゃないの」


 できるだけ強くなりすぎないように言う。


「今日は私がやるから、大丈夫だよ」


 香澄は口を閉じた。納得している顔ではなかったが、押し返す力も残っていないようだった。


     *


 洗面所の鏡の中の自分は、昨夜より少しだけひどい顔をしていた。


 血は止まっている。けれど傷の周囲は赤黒く腫れ、こめかみのあたりには乾いた血がまだこびりついていた。背中の痛みは見えないぶん厄介で、服を脱いで確認する気力もない。ただ、腕を上げるたびにじくじくと熱が走る。


 これでは病院に行かないわけにはいかない、と改めて思う。


 顔を洗ってリビングへ戻ると、香澄がもう台所の前に立っていた。冷蔵庫を開ける手を、詩稀はとっさに止めた。


「今日は私がやるって言ったじゃない」


 香澄はびくりと肩を震わせる。


「ごめんなさい」


 その謝り方が、あまりにも早かった。


 詩稀は一瞬だけ目を閉じた。叱りたかったわけではない。ただ、この子は何か言われると、まず「自分が悪かった」に飛びつくようになってしまっている。


「香澄、私は怒ってるんじゃないよ」


 声を落として言うと、香澄はそっと視線を上げた。


「香澄が頑張ろうとしてくれてるのはわかる。でも、今日は私が二人にご飯を作りたいから作らせて貰ってもいい?」


 そこまで言われて、ようやく香澄は冷蔵庫の扉から手を離した。


 朝食は簡単に済ませた。食パンを焼いて、卵を落としたスープを作って、冷蔵庫にあったヨーグルトを出すだけ。和樹は途中で起きてきたが、寝起きの顔のまま詩稀のすぐそばに立ち、椅子に座るまでなかなか離れなかった。


「二人とも、ご飯は食べられそう?」


 尋ねると、和樹は小さく頷いた。


 けれど、トーストは半分も進まない。香澄も同じだった。食べなければと思っている顔で、一口ずつ無理に飲み込んでいる。


 食卓は静かだった。昨日までの静けさとは少し違う。気まずさとか遠慮ではなく、音を立てるだけで何かが壊れそうな沈黙だった。


 詩稀はスープを口に運びながら、二人の顔を見た。


「今日は、病院に行こうと思うの」


 そう言うと、香澄が顔を上げた。


「病院……」


「うん。昨日の怪我、ちゃんと診てもらおうと思って。二人も一緒に来る?」


 香澄は少し迷ってから頷いた。和樹は、病院という言葉そのものには反応せず、詩稀が一緒と言ったところで小さく息をついた。


「そのあとはどうしますか?」


 香澄が尋ねる。


「そのあと……か」


 詩稀は言葉を探した。


 家に戻る。昼を食べる。義仁からの連絡を待つ。燈や拓治からの連絡を待つ。そんな程度のことしか、今は決められない。


「うん。病院が終わってから考えよっか」


 詩稀は、努めて明るく答えた。


 香澄は「はい」と答えたが、その返事はいつもより少し遅かった。予定が決まらないこと自体が不安なのだと、詩稀には分かった。


     *


 義仁に連絡したのは、食後だった。


 一度目は出なかった。二度目でようやくつながる。


『詩稀姉さん?』


「今どこ」


『家だけど。どうしたの』


 呑気というほどではない。ただ、何も知らない人間の声だった。


「燈と拓治が昨日揉めた」


 そう言うと、義仁は少し黙った。


『……また喧嘩?』


「喧嘩で済んでない」


 詩稀は簡潔に話した。不倫のこと。燈が自分の家に来て暴れたこと。上の二人がうちに泊まっていること。下の三人は燈が連れて実家へ戻ったこと。


 義仁は途中から何も言わなくなった。息を呑む気配だけが時々聞こえる。


『え、ちょっと待って。詩稀姉さん、怪我してるの?』


「してる。これから病院行く」


『……燈姉さん、今、実家にいるってこと?』


「多分ね。連絡はないけど」


『母さんは?』


「知らないままじゃないと思う」


 そこで義仁は、長く息を吐いた。


『俺、実家の方に行くよ』


 ようやくそう言った声に、詩稀はわずかに力を抜いた。けれど、次の言葉でまた肩が固くなる。


『でもさ、詩稀姉さん、香澄ちゃんたちはそのままそっちにいた方がいいかも』


「……なんでよ」


『いや、その、実家も今ごちゃごちゃしてるだろうし。母さんもいるし。燈姉さんも落ち着いてないだろうし』


 つまり、自分では引き取れないということだ。遠回しな言い方をしていても、結局はそこに行き着く。


「義仁」


『うん』


「もしかして、もう一晩預かるだけの話だと思ってる?」


 電話の向こうが黙る。


『……どうすればいいのか、ちょっと今すぐには分かんないよ』


 正直な言葉だった。正直だからこそ、詩稀は責める気力も湧かなかった。


「分かった。とりあえず実家の様子見てきて。燈と話せるなら話して。あと、落ち着いたらまた連絡して」


『うん。昼前には一回電話する』


 電話を切ったあと、詩稀はしばらくスマートフォンを見つめていた。


 分からない。

 それは本音だろう。


 けれど、分からないまま立ち止まっていられるのは、自分が今すぐ誰かを抱えていない人間だからだ。


 香澄と和樹は、もう詩稀の家にいる。

 昨夜の泣き声も、眠れなかった顔も、今朝の食べ残したトーストも、全部ここにある。


 「分からない」で止まれる場所にはいないのだと、詩稀だけは知ってしまっていた。


     *


 日曜の当番医は思ったより混んでいた。


 詩稀は二人を連れて、自宅近くの外科へ向かった。さすがに家に置いていくわけにはいかない。待合室の椅子に三人並んで座ると、和樹はすぐに詩稀の袖を掴んだ。香澄は膝の上で両手をきちんと重ね、背筋を伸ばして座っている。診察を待つ子どもというより、付き添いに来た親族みたいな座り方だった。


 受付で怪我の理由を聞かれた時、詩稀は少しだけ迷った。


「家族間のトラブルで」


 結局そう答えると、受付の女性は表情を変えずに「分かりました」とだけ言った。その反応にむしろ助けられる。踏み込まれなかったことで、どうにか立っていられた。


 診察では、医師が傷を見て眉をひそめた。


「傷は小さいけど、念のため四針くらい縫わせてもらいますね」


「……そうですか」


「頭は念のため注意してください。レントゲンを見る限り骨折はなさそうですが、吐き気とかめまいが強くなるようなら、すぐ受診してください。背中は?」


 シャツを脱いで上半身を見てもらうと、打撲だろうと言われた。湿布と痛み止め。ありふれた処置なのに、自分がこういう説明を受ける側にいることが妙に現実味を欠いていた。


 医師は詩稀の背中を見たまま、少し沈黙してから言った。


「マイナ保険証の診療歴を見る限り、こういう怪我は今回が初めてですね」


「……はい。妹夫婦のトラブルに巻き込まれまして……」


 そこでようやく、医師がこちらを見た。


「正直に言います。頭の傷もそうですが、背中の打撲痕、これは普通の『喧嘩』の傷ではありません。硬い棒状のもので、かなり強く複数回叩かれた痕です」


 詩稀は返事ができなかった。


「今、あなたが警察に言うつもりがないなら、無理には勧めません。ただ、こういう受傷はきちんと記録しておくべきです」


 医師の口調は淡々としていた。だからこそ、その言葉は変に優しい慰めより重かった。


「診断書には受傷部位と状態を細かく書きます。必要があれば、いつでも出せるようにしておきます。今すぐ使わなくても、後から必要になることはありますから」


「……分かりました」


 医師の勧めに従い、女性医師立ち会いのもとで看護師に負傷状況を撮影された。待合室に戻った時には、思っていた以上に時間が経っていた。


 診察室を出ると、和樹がすぐに立ち上がった。


「しきちゃん、大丈夫だった? いたくない?」


「痛いのは痛いよ」


 正直に笑いながら言うと、和樹は目を伏せた。


「でも、大丈夫」


 笑顔のままそう付け足すと、ほんの少しだけ表情が緩む。


 待合室の端で会計を待っている時、拓治からようやく連絡が来た。


 着信ではなく、メッセージだった。


 ――すみませんでした

 ――昨日は本当に申し訳ありません

 ――今、少し頭を冷やしています

 ――香澄と和樹、今日だけお願いできませんか


 詩稀は画面を見たまま、指が止まった。


 今日だけ。

 昨日からずっと、その手の言葉ばかりが耳に残る。


 少しのあいだ。

 とりあえず。

 今日だけ。


 そうやって誰も期限を決めないまま、全部がずるずると子どもの上に落ちてくる。


 香澄が、詩稀の横顔をうかがうように見ていた。


「お父さんですか」


 詩稀は画面を伏せた。


「うん」


「なんて?」


 この問いに嘘をつくべきか、一瞬迷う。けれど、昨日の夜のあとで曖昧なごまかしを重ねることの方が残酷な気がした。


「今日も、二人をうちに泊めて欲しいって」


 香澄は何も言わなかった。和樹も、詩稀の袖を握る指に少しだけ力を込めただけだった。


 詩稀は短く返した。


 ――分かりました

 ――ただし、本当に今日だけで済む話なのか、あなた自身もしっかり整理してください


 送ってから、自分でも驚くほど冷たい文章だと思った。けれど、優しく書ける段階はもう過ぎている。


     *


 病院を出たあと、詩稀は二人を連れて近くの衣料品店へ寄った。


「少し買い足そう」


 そう言うと、香澄がすぐに首を振った。


「大丈夫です。着替え、明日家に取りに行けるかもしれないし」


「行けないかもしれないでしょ」


「でも」


「でも、じゃないの」


 昨夜から何度このやり取りをしているのか分からない。詩稀は苦笑して、かごを手に取った。


「下着と靴下と、あと必要なものだけでも。ね? これは無駄遣いじゃないんだから」


 香澄はなおも遠慮していたが、和樹は黙って詩稀の後ろをついてくるだけだった。子ども服売り場の前に立つと、詩稀はようやく実感する。少なくとも今夜は、この二人は自分の家にいるのだ。


 一晩だけではない。

 もう、その前提で考えなければ回らないだろう。


 三日分の着替えを二人分購入し、レジ袋を持って店を出る時、香澄が小さな声で言った。


「迷惑をかけて、ごめんなさい」


 詩稀は歩きながら答える。


「それ、香澄が謝ることじゃないよ」


「でも!」


「それに、今は必要なものを買っただけだよ」


 香澄は少しだけ黙って、それからぽつりと付け足した。


「……しきさんも、ほんとは困ってますよね」


 その言葉に、詩稀は足を止めそうになった。


 困っている。

 もちろん困っている。頭も痛いし、何が正解かもまだ分からない。けれど、その困りごとをこの子に見抜かせるわけにはいかないと思っていた。


「困ってないわけないじゃない」


 少し考えてから、詩稀は笑いながら答えた。


「でも、あなたたち二人が私の家にいることに困っているわけじゃないの。あなたたちのお父さんとお母さんのトラブルには困ってるけど、香澄と和樹は何にも悪くないでしょ?」


 香澄は目を丸くした。


 隣で、和樹が初めて少しだけ顔を上げる。


 詩稀は前を向いたまま歩き出した。


「とりあえず、今はうちに帰って、温かいお昼ごはんを食べよう。それから……その後のことは、またご飯の後で考えよっか」


 言いながら、自分でもその言葉の頼りなさを感じていた。


 けれど今、必要なのは完璧な答えではない。昼までの予定、その次の数時間、その程度の小さな区切りだ。そうしないと、全部が大きすぎて、誰も動けなくなる。


     *


 昼食はうどんにした。


 温かいものを食べた方がいいと思って作ったのに、二人とも食べる速度は遅かった。けれど朝よりはましだった。和樹は少し残しただけで、香澄も麺は最後まで食べることができた。


 昼過ぎ、義仁から短い電話があった。


『実家、まだ落ち着いてない。燈姉さん、上の二人のことは今は考えられないって』


 それだけで十分だった。


 そのあとも、燈からの連絡はなかった。拓治からも、昼以降は何も来ない。


 午後の時間は、驚くほど長く感じられた。


 香澄は本を開いていたが、ページはあまり進んでいない。和樹はテレビの前に座っていても、画面ではなく詩稀の気配の方を見ている。詩稀は薬を飲み、洗濯機を回し、病院でもらった書類を整理し、何度もスマートフォンを見た。


 何も決まらないまま、時間だけが進んでいく。


 夕方になって、香澄がようやく小さな声で言った。


「明日、どうしたらいいですか」


 詩稀はその問いに、すぐには答えられなかった。


 明日は月曜だった。

 学校もある。仕事もある。日曜の間は先送りにできたことが、明日になれば全部、答えを求めてくる。


「学校には行けそう?」


二人に問うと、香澄は少し悩み答えることが出来ず、和樹は俯いたまま黙ってしまう。


「おっけー。じゃあ、明日は学校を休もうか。私も仕事は休むから、一緒にこの家で燈たちの連絡を待とうよ」


 そう提案すると、二人とも困惑しながら、頷いた。


     *


 夜、もう一度三人で布団を敷いた。


 昨夜のような怯えはない。けれど、安心とも違う。疲れているのに眠れない、あの宙づりの感じだけは薄く続いている。


 部屋の明かりを消したあと、香澄が小さな声で言った。


「私たち……明日もここにいていいんですか」


 詩稀は暗闇の中で目を開いた。


 帰る家。

 明日。

 学校。

 仕事。


 答えなければならないことは山ほどあるのに、確実に言えることはまだ少ない。


「先のことはどうなるか、私にも分からない」


 詩稀はゆっくり言った。


「でも、今はここにいていいんだよ」


 香澄は返事をしなかった。ただ、その沈黙が、さっきまでの沈黙よりは少しだけ柔らかかった。


 和樹は何も言わず、また詩稀の袖を掴んだ。


 詩稀は暗闇の中で、その小さな指に手を重ねた。


 日曜は終わる。

 けれど、問題はひとつも終わっていない。


 明日は月曜日だった。

 学校も、仕事も、何もかもが元の形に戻るふりをして始まる。


 けれど、戻る場所の方はまだどこにも決まっていなかった。

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