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受け継がれるもの ――母になれなかった叔母が、ふたりの親になった話――  作者: リフェリア


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第三話 留守番の家を訪れるもの

 燈が下の三人を連れて実家へ戻ってから、二週間が過ぎた。


 最初の数日は、誰もがそれを一時的な措置のように扱っていた。母の様子が落ち着くまで。


 “まで”は、都合よく使える言葉だった。いつまでなのかを決めなくて済むからだ。


 詩稀は、平日の夜に一度、週末に一度の頻度で拓治の家へ顔を出すようになっていた。毎回行けるわけではない。月末と月初は課長として外せない業務が重なるし、新年度に向けた予算の整理も始まっている。けれど、放っておくという選択肢は、どうしても取れなかった。


 その日も、仕事帰りに駅前のスーパーへ寄り、作り置きできそうなものをいくつか買い込んだ。鶏肉、豆腐、野菜、冷凍うどん。特別なものではない。子どもが食べやすくて、温め直しがきいて、多少は日持ちするもの。それだけを考えて籠に入れていく。


 拓治の家のインターホンを押すと、少し間を置いて扉が開いた。


「しきさん」


 顔を出した香澄は、二週間前より少しだけ痩せたように見えた。頬がこけたわけではない。ただ、表情の力の抜き方が上手くなってしまったような、そんな変化だった。


「こんばんは。ご飯、まだ?」


「うん。お父さん、今日は遅いって」


 部屋へ入ると、いつもより静かだった。下の三人がいないだけで、家はここまで音を失うのかと思う。リビングの床に散らばるはずのおもちゃも少なく、ミルクの匂いも、子どもの泣き声もない。


 和樹はダイニングテーブルで宿題を広げていた。鉛筆を持つ手が止まり、詩稀の姿を見ると小さく立ち上がる。


「こんばんは、和樹」


「……こんばんは」


 声は以前より少しだけ聞き取りやすくなっていた。けれどそれは、心を開いてきたからではなく、必要な返事だけを覚えた結果のようにも思えた。


「何か食べた?」


「おやつにパン」


「香澄は?」


「同じ」


 答えたのは香澄だった。


「大丈夫。冷蔵庫にお父さんが買ってくれたゼリーもあるし」


 その“大丈夫”に、詩稀は曖昧に頷くしかなかった。


 台所に立つと、シンクには洗いきれていない食器が少しだけ溜まっていた。食べ終えたカップ麺の容器、コンビニの惣菜の空きパック、子ども用のコップが二つ。乱雑というほどではない。むしろ、香澄ができる範囲で片づけたのだろうと分かる程度には整っている。


 それが、かえって胸に引っかかった。


「香澄、今日は何してたの」


 野菜を切りながら聞くと、香澄はテーブルの上のプリントを揃えながら答えた。


「学校行って、帰ってきて、和樹と宿題して……洗濯物も取り込んだ」


「洗濯物?」


「だって、雨降りそうだったから」


 何でもないことのように言う。褒められるのを待っているのではなく、報告しておいた方がいいと思っている声音だった。


「そう」


 詩稀は包丁を置いて振り返った。


「ありがとう。でもそれ、香澄が毎日やることじゃないからね」


 香澄は少しだけ困ったように笑った。


「別に、できるし」


「できるからって、香澄の役目になるわけじゃないのよ」


 言いながら、自分の声が少しだけ硬くなっているのが分かった。強く言いたいわけではない。ただ、この子は放っておくと、自分が背負える以上のものまで持ってしまう。


 和樹はそのやり取りを聞きながら、消しゴムをじっと見つめていた。


「和樹、学校どう?」


 声をかけると、鉛筆を持つ手が止まる。


「……べつに」


「友達とは?」


「ふつう」


「困ってることない?」


 少し間があってから、和樹は首を横に振った。


 表面だけ見れば、問題はないのだろう。宿題もやっている。遅刻もしていないらしい。担任から詩稀のもとへ連絡が来たことも、今のところはなかった。


 ただ、だからこそ不安だった。子どもは壊れる時、必ずしも分かりやすく騒ぐわけではない。


 鍋の中で出汁が煮立ち始める。詩稀は豆腐を入れながら、ふと冷蔵庫の横に貼られた紙に目を留めた。拓治の字で書かれたメモだ。


 ――木曜 会議19:00ぐらい

 ――金曜 送別会22:00ぐらい

 ――土曜 未定


 その下に、香澄らしい細い字で、

 ――来週の月曜日は、和樹が図工で箱が必要です。

 と書き足されていた。


 父親の予定と、子どもの学校の準備が、同じ紙の中で妙に不釣り合いに並んでいる。


「お父さん、最近ずっと遅いの?」


 できるだけ軽く尋ねると、香澄は少しだけ考えるような顔をした。


「……前から忙しかったけど、最近はもっと遅くなったかも」


「ふうん」


「でも、お母さんもいないし、仕方ないよね」


 仕方ない。その言葉を香澄が口にするたび、詩稀はひどく嫌な気分になった。仕方ないで片づけていいことばかりではないし、何より、その理屈を子どもが先回りして口にする家は健全とは言えない。


 食事ができあがる頃、玄関の鍵が鳴った。


「ただいまー」


 拓治の声は、疲れているようでいてよく通った。リビングへ入ってきた顔には、いつもの人当たりのいい笑みが貼りついている。


「すみません、先輩。また来てもらっちゃって」


「香澄と和樹の為に来てるだけよ」


 わざと少しだけ棘を混ぜて返すと、拓治は苦笑した。


「耳が痛いです」


 ネクタイを緩めながら、拓治はテーブルの上の宿題やプリントに目をやった。


「香澄、ちゃんと和樹見ててくれた?」


「うん」


「助かるなあ、ほんと」


 その言い方に、詩稀は思わず顔を上げた。香澄は嬉しそうにするでもなく、ただ「別に」とだけ返して俯く。褒められているようで、実際には役割を与えられているだけの言葉だった。


「助かるっていう言い方、やめたら?」


 気づけば口にしていた。


 拓治は少しだけ目を瞬いた。


「え?」


「香澄は子どもでしょう。家のことを回してくれて助かる、じゃないの」


「いや、でも実際助かってるのは事実ですし」


「事実なら言っていいわけじゃないでしょ」


 拓治はそれ以上反論せず、「すみません」と曖昧に笑った。その笑顔が、社内で何度も見てきたものと同じ種類だと気づいて、詩稀はひそかに疲れた。衝突を避けるための、角の取れた笑い方。相手を立てて引くように見せて、実際には何も変えない人間の顔だ。


 食事の最中、拓治は仕事の愚痴を少しだけこぼした。燈がいなくなって家が回らないこと、朝の支度に時間がかかること、上の二人は手がかからないとはいえ食事だけはどうにもならないこと。


「先輩が近くにいてくれて、ほんと助かります」


 まただ、と詩稀は思う。


「毎日は無理だから」


「分かってます。分かってるんですけど……」


 そこで拓治は、少しだけ視線を逸らした。


「正直、俺も限界っていうか。会社の後輩にも、最近ちょっと相談したりしてて」


 詩稀は箸を止めた。


「相談?」


「いや、子どものご飯どうしてるとか、使いやすい宅配とか、そういうのですよ。女性の方が詳しいじゃないですか」


 軽い口調だった。何でもない話として流してしまえる程度には。


 けれど、詩稀の中には小さな違和感が残った。拓治は昔から、困った時に“ちょうどよく頼れそうな女”を見つけるのが妙にうまい。


「そう」


 それだけ返して、詩稀は味噌汁を口に運んだ。ぬるくなりかけた豆腐が、舌の上で頼りなく崩れる。


 食後、和樹は風呂に入る前に眠そうに目をこすり始めた。香澄は何も言われないうちに明日の持ち物を揃え、給食着にアイロンをかけて畳んで袋に入れ、洗面所のタオルまで替えていた。


 帰り際、詩稀は香澄を台所の隅に呼んだ。


「全部やらなくていいんだからね」


 香澄はきょとんとした顔をした。


「全部って?」


「洗濯物とか、和樹のこととか、お父さんの分まで気にすること」


 香澄は少しだけ黙って、それから目を伏せた。


「……だって、お母さんいないし」


「いないからって、香澄がお母さんの代わりになる必要はないよ」


「でも、私がやらないと、お父さん困るし」


 その返答に、詩稀は何も言えなくなった。


 十二歳の子どもが、自分の役割をそんなふうに覚えてしまう家を、どう言い表せばいいのか分からない。


 帰りのエレベーターの中で、スマートフォンが震えた。課内のグループチャットだった。明日の朝までに確認してほしい資料がある、と佐伯から簡潔に入っている。


 詩稀は一度だけ瞼を閉じた。


 仕事もある。家庭はない。だから融通が利く。そういう前提でここまで来たし、それに異論を挟んだこともなかった。けれど最近、その“家庭はない”という言葉が、どこか遠くで揺らぎ始めている。


 マンションの外へ出ると、夜風が思ったより冷たかった。


 今週末も来られるだろうか。来た方がいいのは分かっている。けれど月末の締めは重い。休日出勤になる可能性もある。詩稀が足を運べる回数には限りがあった。


 その夜、ベッドに入って間もなく、拓治からメッセージが届いた。


 ――今日はありがとうございました。

 ――次の土曜、もし難しければ大丈夫です。

 ――職場の後輩が、昼だけなら手伝えるって言ってくれてるので


 詩稀は画面を見つめたまま、しばらく返事を打てなかった。


 助けがあるなら、それでいい。そう思うべきなのだろう。自分が全部抱える義理はないし、抱えきれるとも思っていない。


 それでも、胸の奥に細い棘のようなものが残る。


 詩稀は結局、

 ――分かった。無理そうならまた連絡して

 とだけ返して、スマートフォンを伏せた。


 暗くした部屋の中で、香澄の「大丈夫」と、和樹の小さな返事が、交互に頭の奥で反響する。


 あの家は静かすぎる、と詩稀は思った。


 子どもが二人しかいないからではない。

 黙ってしまったものが多すぎるのだ。


 母親の不在も、父親の困り顔も、子どもたちの不安も。

 何もかもが飲み込まれたまま、音を立てずに沈んでいく。


 その静けさの底で、何かよくないものが育ち始めている気がした。

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