第二話 実家から喪われたもの
父が亡くなってから、実家へ足を運ぶ回数は自然と増えた。
正確に言えば、増やさざるを得なくなった、の方が近い。仏壇に供える花や線香の補充、公共料金の支払い、役所から届く書類の確認。独り暮らしになった母を気にかけて、というには事務的な用件が多すぎたし、詩稀自身もそれを情だとは思いたくなかった。
日曜日の昼前、最寄り駅から実家までの道を歩きながら、詩稀は紙袋の持ち手を持ち直した。中には母に頼まれた湿布と、ついでに買った和菓子が入っている。こういう小さな用事が積み重なって、気づけば毎週のように来ていた。
昔はもっと大きく感じた家が、今は妙に古びて小さく見える。
門扉の軋む音も、玄関先に並べられた植木鉢も、変わっていないはずなのに、父がいないだけで空気の骨組みが抜け落ちてしまったようだった。
インターホンを押す前に、玄関扉が内側から開いた。
「あら、詩稀。ちょうどよかったわ」
母は外出着のまま立っていた。薄いベージュのカーディガンに、春物のスカーフ。どこかへ出かけるつもりだったのかもしれないが、靴は履いていない。
「ちょうどよかったって、今日来るって昨日言ったでしょう」
「そうだっけ」
母は少しだけ首を傾げ、それからすぐに笑った。
「まあ、入って。お茶くらい淹れるから」
その言い方に、詩稀は何も返さなかった。昨日言ったことを覚えていないくらいなら、まだ、よくあることかもしれない。最近はそうやって、自分に言い聞かせる場面が増えていた。
居間には父の遺影があった。
黒縁の額の中で、父は相変わらず無愛想な顔をしている。葬儀のために選んだ写真は、本人なら文句を言いそうなほど愛想のない表情だったが、今となってはその方が父らしい気もした。
仏壇の前には花が供えられていた。ただ、先週詩稀が替えたものよりずいぶんくたびれている。
「お花、買い替えなかったの」
「え? この前買ったばかりじゃない」
「それ、先週のよ」
「そうだったかしら」
母はまた曖昧に笑い、台所へ向かった。
詩稀は小さく息を吐いて、居間の座卓に置かれた封筒の束へ目をやった。銀行からの通知、介護保険料の案内、電気代の請求書。封も切られていないものがいくつか混ざっている。
ひとつ手に取ろうとしたところで、背後から声がした。
「詩稀姉さん、もう来てたんだ」
振り返ると、義仁がリビングの入口に立っていた。休日らしいラフな格好に、まだ若さの残る顔。三十になっても、こうして実家の空気に混じると妙に頼りなく見えるのは、詩稀の偏見かもしれない。
「義仁こそ、約束より早いじゃない」
「落ち着かなくてさ」
言いながら、義仁は座卓の上の封筒に気づき、眉をひそめた。
「これ、また溜まってるのか」
「見れば分かるでしょ」
詩稀がそう返すと、義仁は気まずそうに鼻の頭をかいた。
弟を責めたいわけではない。ただ、誰も責めずにいると、こういうものは自然と詩稀の手元に集まってくる。
台所から、やかんの沸く音がした。
その音を聞きながら、詩稀は封筒をひとつずつ確認していく。電気代は引き落とし日が過ぎている。口座残高が足りなかったのかもしれない。固定資産税の納付書もある。父がいた頃は、こういうものが居間に散らばることはなかった。几帳面な人だった。少なくとも、家のことに関しては。
「病院、行ってもらった方がいいと思うのよね」
封筒から目を離さないまま、詩稀は言った。
義仁は「だよな」と小さく返した。その声が思った以上に素直だったせいで、かえって苛立ちそうになる。
「だよな、じゃなくて。前から言ってるでしょう。電話で同じ話を何回もするし、買い物も重複してるし、支払いも止まってる。車の鍵が冷蔵庫から出てきたって聞いた時点で、私はもう笑えないの」
「でも、本人は嫌がるし……」
「嫌がるから何もしないの?」
語尾が少し強くなってしまった。
義仁は反論せず、ただ黙り込んだ。そこへ母が湯呑みを三つ持って戻ってくる。危なっかしい手元を見て、詩稀は反射的に立ち上がった。
「持つよ」
「大丈夫よ、これくらい」
その“大丈夫”が、最近の母の口癖だった。大丈夫でないことほど、そう言うようになった。
湯呑みを置きながら、母はふと座卓の封筒に目を止めた。
「それ、何だったかしら」
「請求書」
「そんなの来てた?」
「来てるからここにあるの」
少しきつい言い方になった自覚はあったが、母は傷ついた顔をする代わりに、ただ不思議そうに封筒を見つめていた。
「お父さんがいた時は、こういうの全部やってくれてたからねえ」
ぽつりと言う声は、責任逃れというより、本当にそう思っているだけなのだろう。
父がいなくなったことを、一番理解できていないのは母なのかもしれなかった。
*
燈が来たのは、それから一時間ほど経ってからだった。
下の三人を連れての来訪は、家の中の空気を一気に騒がしくする。悠人が玄関先で靴を脱ぎ散らかし、陽咲が眠いとぐずり、律花は燈の腕の中で不機嫌そうに顔をしかめている。
「ごめん、お待たせ。陽咲が車で寝ちゃって」
燈はそう言いながらも、どこか張り詰めた様子で部屋へ入ってきた。実家にいる時の燈はいつも少しだけ声が高い。子どもの頃からそうだ。機嫌がいい時も、悪い時も、実家ではわずかに演技めいた明るさが混じる。
「香澄ちゃんたちは?」
母が尋ねると、燈は靴を揃えながら答えた。
「学校の宿題あるし、今日は置いてきた。和樹も拓治とお留守番」
その言い方に、詩稀はひっそりと引っかかる。上の二人の名をまとめず、香澄と和樹を分けて言う時、燈はたいてい、少し気持ちが荒れている。
燈は律花を母の腕に預けると、居間に入るなり言った。
「で、何の話?」
「何の話、じゃないでしょ」
詩稀は請求書の束を燈の方へ滑らせた。
「お母さんのこと。もう一回、ちゃんと考えた方がいい。もの忘れ外来でもいいし、包括支援センターでもいいし、とにかく今のうちに相談しないと」
「それ、前も聞いた」
「聞いたなら、そろそろ動かないと」
燈の顔から笑みが消えた。
「お姉ちゃんって、ほんとそういうところ変わらないよね」
「何が」
「すぐ施設とか病院とか、そういう話になるところ」
その言葉に、義仁が居心地悪そうに視線を伏せた。
詩稀は、すぐには口を開かなかった。施設、という言葉はまだ出していない。けれど燈の中ではもう、そこまで話が飛んでいるのだと分かる。
「私は順番の話をしてるの。診てもらって、使える制度を整理して、その上で今後どうするか考えるべきだって」
「今後って何。施設に入れるとか?」
「必要なら、それも選択肢に入るでしょ」
燈は鼻で笑った。
「よく言えるね」
その言い方に、詩稀は一瞬だけ息を止めた。
母は何が起きているのかよく分からないという顔で、律花の背中をとんとんと叩いている。義仁はまた、何も言わない。
「独りで暮らすのが危なくなってからじゃ遅いの。火の消し忘れだってあったし、買い物も支払いも怪しい。見守りだけで済む段階かどうか、専門家に判断してもらう必要がある」
「お姉ちゃんは、お母さんをもうそんな目で見てるんだ」
「そんな目って何」
「ボケた年寄り。厄介だから早めにどこかへ預けたいって」
「燈」
「違うの?」
まっすぐ睨まれて、詩稀はわずかに目を細めた。
違う。少なくとも、詩稀自身はそう思っている。けれど、違うと即答できるほど単純でもなかった。現実的な選択肢として施設を考えているのは事実だし、詩稀はそれを悪いことだと思っていない。思っていないからこそ、燈の怒りは余計に埋まらないのだろう。
母が不安そうに燈を見る。
「私、施設になんか入りたくないわよ」
その一言で、燈の表情が変わった。待っていた言葉をやっと引き出せた、というような顔だった。
「ほらね、お母さんだって嫌だって言ってる」
「今、そういう誘導みたいな言い方するのやめて」
「誘導?」
燈は声を上げた。
「何それ。私はお母さんの気持ちを聞いてるだけじゃない」
「自分に都合のいい聞き方しかしてないでしょう」
「お姉ちゃんにだけは言われたくない」
部屋の空気がぴんと張る。
悠人がその空気を感じ取ったのか、さっきまで畳の上で遊んでいたミニカーを止めて、黙って大人たちを見上げていた。陽咲も、眠たげな目をこすりながら燈の膝に寄ってくる。
「私は自宅で面倒見るから」
燈は言った。
詩稀は言葉を失った。義仁もさすがに顔を上げる。
「……は?」
「お母さん、私が見る。しばらく実家に戻る。下の子たちも連れてくるし、専業主婦なんだからそれくらいできるよ」
「何言ってるの」
「何って、そのまま。お姉ちゃんみたいに仕事で帰り遅い人より、私の方が向いてるでしょ」
その言葉には、妙な甘さと棘が同居していた。
専業主婦。子どもが五人。家にいられる女。
言外に滲んだものを、詩稀は聞き流せなかった。
「介護を甘く見ないで。認知症かもしれない相手を、小さい子三人抱えながら一人で見るなんて無理に決まってる」
「無理って決めつけるのはお姉ちゃんでしょ。私はやるの」
「拓治君は?」
「話せば分かる」
その即答の速さに、詩稀はかえって不安を覚えた。話せば分かる、と言い切る時の燈は、たいていまだ何も話していない。
義仁が弱々しく口を挟んだ。
「でもさ、燈姉さん、悠人まだ五歳だし、陽咲も律花も小さいし……」
「だったら義仁が何とかしてくれるの?」
「いや、俺は……」
「ほら」
燈は勝ち誇ったように言って、それから母の方を向いた。
「お母さん、私がいるから大丈夫。施設なんか行かなくていいよ。ちゃんと面倒見るから」
母はほっとしたように笑った。
「そうしてくれるなら、ありがたいわ」
その笑顔を見た瞬間、詩稀の中で何かがすっと冷えた。
母は、目の前で何が話し合われているのか、半分も分かっていない。それでも、優しい言葉の方へ流れる。人は弱った時ほど、耳ざわりのいいものを信じる。母は律花を抱いたまま、燈の方へ少しだけ身を寄せた。守ってくれる側を、本能的に選んでいるように見えた。
燈がそれを分からないはずがなかった。
「香澄と和樹は?」
気づけば、そう口にしていた。
燈は一瞬だけ黙った。
「上の二人は学校あるし」
「だから?」
「しばらくは家に残ってもらう。拓治もいるし」
その“いるし”の軽さに、詩稀は思わず眉を寄せる。
「拓治君、仕事あるでしょう」
「最初は何とかするって言ってた」
「最初は?」
「私だってずっと実家と家を往復するのは無理なんだから、そこは調整するしかないでしょ」
詩稀は何か言い返そうとしたが、その前に母がのんびりと言った。
「香澄ちゃんたちなら、もう大きいものねえ。しっかりしてるし」
その言葉に、詩稀は奥歯を噛みしめた。
しっかりしているから、置いていっていいわけじゃない。
子どもが手をかけさせないのは、手をかけなくていい理由にはならない。
けれど、その理屈は、この場の誰にも届きそうになかった。
*
結局、その日の話し合いは、燈の宣言を覆せないまま終わった。
義仁は「とりあえず様子を見よう」と言った。何も決めない時の常套句だと、詩稀は知っている。母は燈が一緒に住んでくれるという話だけを都合よく覚え、仏壇の前で父の遺影に向かって「これで安心ねえ」などと言っていた。
帰り際、燈は玄関で靴を履きながら、ごく軽い口調で言った。
「香澄たちのこと、ちょっと手伝ってくれると助かるかも。私、しばらく下の子たちで手いっぱいになるし」
その言い方は、お願いというより既に決まったことの確認に近かった。
「ちょっと、ってどのくらい」
「週末とか、拓治が厳しい日とか。お姉ちゃんなら子どもたちも懐いてるし」
懐いている。
その言葉の響きが、詩稀には妙に苦かった。
「香澄と和樹は、置いていかれるって分かってるの」
「置いていくって、言い方悪くない?」
燈はむっとした顔をした。
「学校があるから残るだけでしょ。お姉ちゃん、ほんとすぐ大袈裟にする」
「じゃあちゃんと説明して」
「するよ、そのうち」
そのうち。
子どもにとって、そのうち、がどれほど残酷か、燈は本当に分かっていないのか。それとも、分かった上で見ないふりをしているのか。
詩稀には判断できなかった。
外へ出ると、日が傾きかけていた。春先の風はまだ冷たく、門の脇に置かれた植木鉢の葉を小さく揺らしている。
玄関先で義仁が追いかけてきた。
「詩稀姉さん」
「なに」
「燈姉さんもさ、悪気があるわけじゃないと思うんだよ」
詩稀は立ち止まり、弟を見た。
義仁は本気でそう思っているのだろう。だからこそ、腹が立つ。
「悪気があるかどうかなんて、子どもには関係ないでしょう」
義仁は黙り込んだ。
これ以上何を言っても無駄だと分かって、詩稀は踵を返す。実家の門を出たところで、バッグの中のスマートフォンが震えた。
香澄からだった。
珍しい、と思いながら通話ボタンを押す。
「もしもし」
『あ、しきさん?』
少し緊張した声。背後でテレビの音がしている。
「どうしたの」
『今日、お母さんとお話なんでしょ?お母さんに電話したけど繋がらなくて』
「そっか。燈は今、おばあちゃんとお話してるからかもね」
『……お母さん、帰ってくる?』
その問いに、詩稀はすぐには答えられなかった。
香澄は、何となく察しているのかもしれない。大人が思うよりずっと早く、子どもは家の空気の変化を嗅ぎ取る。
『ううん、やっぱりなんでもない』
気を遣うように、香澄はすぐ言い足した。
『……悠人たちいないとなんか静かだな』
「そっか、寂しい?」
『ううん。宿題とかちゃんとできるし大丈夫』
電話の向こうで、わずかな沈黙が落ちる。その沈黙の向こうに、言葉にならない不安があるような気がして、詩稀は空を見上げた。
雲の薄い夕空は、妙に明るいのに冷え切っていた。
「香澄」
『なに?』
「何かあったら、すぐ連絡するんだよ。時間なんて気にしなくていいからね』
できるだけ穏やかな声で言うと、香澄は少しだけ間を置いてから『うん』と返した。
通話を切っても、詩稀はしばらくその場を動けなかった。
胸の奥で、小さな違和感がゆっくり形を変えていく。
第一話の終わりに覚えたあの曖昧な不安が、今度はもっと具体的な輪郭を持ちはじめていた。
燈は本気だ。
母のもとへ戻り、下の三人を連れていくつもりでいる。
そして上の二人は、学校があるからという理由で、父親のいる家に残される。
それが本当に、一番穏当な選択なのだろうか。
詩稀には、どうしてもそう思えなかった。




