第一話 できすぎた叔母
不慣れな三人称による習作なので、心情や背景が分かりにくい場面があるかもしれませんが、ご容赦ください。
月末の午後は、いつもより静かだった。
経理課の島に並ぶパソコンのファン音と、紙をめくる乾いた音だけが、薄い膜のようにフロアを包んでいる。詩稀はモニターの数字を追いながら、指先で軽く机を叩いた。
仮払金の精算一覧。支払予定表。支店から上がってきた月次報告。
どれも大きな問題はない。ないはずなのに、見れば見るほど細かな綻びが浮いてくる。部署全体を見渡す立場になって、まだ一か月も経っていないせいか、詩稀は自分でも少し笑ってしまうほど神経質になっていた。
「課長、ここの数字だけ確認お願いしてもいいですか」
向かいの席から声をかけてきた係長の佐伯に、詩稀は顔を上げた。
四十代半ば。数字より人の機微に敏い男だ。詩稀が課長に昇進したときも、表立って何かを言うことはなかったが、引き継ぎの段取りを一番きれいに整えてくれたのは彼だった。
「ありがとうございます。すぐ見ますね」
資料を受け取ると、佐伯は一瞬だけ詩稀の目元を見た。
「休憩、まだですよね」
「大丈夫です。あと少しですから」
「その“あと少し”が長いんですよ、課長は」
小さく笑って去っていく背中を見送り、詩稀もつられて息を抜いた。
経理課長。しかも総務部で初の女性課長。
人事発令の朝、社内では少しだけ話題になった。けれど、表立った不満は出なかった。少なくとも、詩稀の耳に届く範囲では。
家庭の事情で早退することも、子どもの発熱で突発的に休むこともなく、男性社員と同じ働き方を十年以上続け、その上で数字にも人にも強い。
詩稀自身、能力だけでここまで来たとは思っていない。独り身で、家庭の事情に時間を取られずに働けたことも、昇進には有利に働いた。
それでも、その条件の上で結果を出してきた自負はあった。
自負があるぶん、失敗したくなかった。
スマートフォンが震えたのは、その直後だった。
画面に表示された名前を見て、詩稀は少しだけ眉を上げる。
燈。
妹からの連絡は珍しいことではない。むしろ、子どもが五人もいる妹にしては、そのタイミングは妙なくらい正確だった。上の二人を学校へ送り出したあとか、下の三人が昼寝をしている隙か、あるいは夕飯の支度が一段落した頃か。
忙しいはずなのに、そういうところだけは妙に器用だ。
「もしもし」
『あ、お姉ちゃん? 今日さ、夜ちょっとうちに来れない?』
受話口の向こうで、燈は明るく言った。
明るすぎる声音は、昔から少しだけ本音を隠すときの癖だと詩稀は知っている。
「今日?」
『拓治がね、久しぶりに早く帰れそうなんだって。香澄と和樹が、お姉ちゃんに会いたいってうるさくて』
言いながら、遠くで子どもの泣き声がした。下の子だろう。燈が舌打ちまではしないにしても、一瞬だけ息を詰める気配がある。
「分かった。少し遅くなると思うけど寄るよ」
『ほんと? 助かる。よかったら、お惣菜とかでいいから何か買ってきてくれると嬉しいな』
「はいはい」
通話を切ってから、詩稀は一度だけ目を閉じた。
助かる、という言い方をした割に、今夜の集まりが誰のためのものなのか、燈自身もよく分かっていないのだろうと感じる。自分の気晴らしなのか、子どもたちを喜ばせたいのか、あるいは夫婦の空気を取り繕いたいのか。
そこまで考えて、詩稀は小さく眉を寄せた。
妹の家庭を、必要以上に分析する癖はよくない。
父が亡くなったのは昨年の秋だ。まだ一年も経っていない。実家で独りになった母の様子も気になっている。燈の家の空気が多少ぎこちないのも、そのせいかもしれなかった。
そういうことにしておくのが、いちばん穏当だった。
*
燈の家に着いたのは、午後七時を少し回った頃だった。
インターホンを鳴らす前に、玄関の向こうから小さな足音がばたばたと近づいてくる。勢いよく扉が開いて、香澄が顔を出した。
「しきさん、おかえりなさい」
十二歳になったばかりの姪は、もう子どもというには目つきが落ち着きすぎていた。笑うとまだ幼いのに、ふとした瞬間だけ妙に大人びた影が差す。そのアンバランスさが、詩稀には少し気がかりだった。
「香澄に『おかえりなさい』って言われるの、久しぶりね」
そう言って頭を撫でると、香澄は少しだけはにかんだ。
すぐ後ろから和樹が覗く。十歳の甥は、相変わらず人見知りが強いくせに、詩稀には自分から寄ってくる。無言で詩稀のコートの裾をつまみ、それから恥ずかしくなったように手を離した。
「こんばんは、和樹。元気だった?」
声をかけると、こくりと頷く。
その仕草が可笑しくて、詩稀は自然に口元を緩めた。
リビングに入ると、ミルクの甘い匂いと煮物の出汁の匂いが混ざっていた。陽咲がソファでうとうとしていて、悠人は床に座ってミニカーを走らせている。律花はベビーベッドの中で機嫌よく手足をばたつかせていた。
「お惣菜買ってきてくれてありがとう。助かる」
エプロン姿の燈が、キッチンから顔を出した。
昔は姉より華やかだと言われたこともあった顔立ちは、今も整っている。ただ、近頃は笑っていても眉間にうっすら力が入っていることが多い。詩稀はその変化に気づいていたが、指摘したことはなかった。
「買ってきてって言われたからね」
「だって、お姉ちゃんが買ってきてくれるデパ地下、いっつも美味しいんだもん」
燈は笑いながら惣菜の袋を受け取り、中身を覗きこんだ。
「わぉ、さすがお姉ちゃん。リッチ」
明るく言う声に、わずかな棘が混じった気がしたが、詩稀は聞き流した。昔から、燈はこういう言い方をするときがある。褒めているのか、拗ねているのか、そのどちらでもないのか分からない声音で。
拓治は少し遅れて帰ってきた。
ネクタイを緩めたまま、玄関先からよく通る声で「ただいま」と言う。昔から、人当たりのいい男だった。社内でも評判は悪くない。詩稀の後輩として入社した頃は、無駄に愛想がいいぶん少し軽いと感じたこともあったが、結婚してからはさすがに落ち着いたように見えた。
「お疲れさまです、詩稀先輩。経理課長の昇進祝い、まだでしたね」
「気にしないで。拓治君こそ、総務班の主任昇進おめでとう」
「いやいや、三十四でやっと主任ですよ。一個しか違わないのに課長になった先輩は、さすがって感じですね」
そう言って笑う拓治の横で、和樹が少しだけ表情を固くしたのを、詩稀は見逃さなかった。
父親が苦手なのだろうか、と一瞬思う。だが次の瞬間には、拓治が和樹の頭を軽く撫で、「ちゃんと宿題やったか?」と優しい声をかけていた。
「うん」
和樹の返事は、驚くほど小さかった。
食卓は賑やかだった。
悠人が好き嫌いで燈に叱られ、陽咲が眠くてぐずり、律花が突然泣き出す。その合間に、香澄が自然な手つきで小皿を配り、弟に水を注ぎ、落ちたスプーンを拾う。
詩稀は何度か「香澄、座ってていいよ」と声をかけたが、そのたびに「大丈夫」と返された。
大丈夫、という言葉を、この子はずいぶん上手に使う。
「香澄、今日のテスト全部返ってきたんだよ」
燈がどこか誇らしげに言うと、香澄は少しだけ背筋を伸ばした。
「へえ、どうだったの」
「算数も国語も九十点以上。理科は百点」
「すごいじゃない」
詩稀が本心から褒めると、香澄はぱっと笑った。
その笑顔は年相応で、ついさっきまでの妙な落ち着きが嘘みたいだった。褒められるのを待っていたのだと分かる。待っていて、もらえればこんな顔で笑うのに、自分からは決して甘えに来ない。
「香澄はしっかりしてるからねえ」
拓治が箸を動かしながら言った。
「母親の手伝いもしてくれるし、ほんと助かってる」
「助かるじゃなくて。本来は子どもの仕事じゃないでしょ」
詩稀が軽く言うと、拓治は苦笑した。
「そうなんですけどね。つい頼っちゃうんですよ」
その“つい”の重さに、詩稀は何も言わなかった。
代わりに、香澄の皿へ唐揚げを一つのせる。香澄は顔を上げ、少しだけ目を細めた。
食事のあと、下の子たちが順番にぐずり始め、燈は慌ただしく立ったり座ったりを繰り返した。拓治はスマートフォンを見ながら「風呂、先入ってくる」と言って席を外す。香澄は何も言われないうちに食器をまとめ始めた。
「香澄、いいよ。私がやるから」
「でも」
「でも、じゃない」
少しだけ強く言うと、香澄は手を止めた。
詩稀が食器を持って立ち上がると、その隣に和樹が黙ってついてくる。水に濡れた皿を布巾で拭きながら、和樹は小さな声で言った。
「しきねぇちゃん、また来る?」
詩稀は手を止めた。
「また来てほしいの?」
和樹は頷き、それ以上は何も言わなかった。代わりに、リビングの方へ目をやる。
燈は陽咲を抱いていて、拓治はまだ風呂場から出てこない。香澄は悠人の口元についたケチャップを拭いている。
詩稀は、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
この家は、壊れているわけではない。
子どもは五人いて、夫婦は揃っていて、食卓だってこうして囲めている。それでも、どこかの歯車がほんのわずかに噛み合っていないような、そんな違和感がずっと消えなかった。
父が亡くなってから、独りになった母はこの家に来ることが減った。燈も拓治も、少し疲れているだけかもしれない。燈は育児で手一杯だし、拓治だって仕事が忙しいのだろう。
そう考えるのがいちばん穏やかだったし、詩稀自身、そう思いたかった。
帰る支度を始めると、香澄が玄関まで見送りに出てきた。和樹もその後ろにいる。
「お姉ちゃんも大変なのに、今日はありがとね」
燈が言う。口調は柔らかいのに、顔には疲労がにじんでいた。
「気にしないで。燈も無理しすぎないようにね」
「お姉ちゃんこそ。課長になったばっかりなんだから」
それが気遣いなのか、別の何かなのか、詩稀には分からなかった。ただ、分からないまま受け流すのが、姉妹の間ではいちばん平和だった。
靴を履き、立ち上がったところで、香澄がそっと詩稀の袖を引いた。
「しきさん」
「なに?」
香澄は一度だけ、後ろを振り返った。燈たちに聞こえないのを確かめるみたいに。
「今度、また来てくれる?」
その声は小さかった。甘えるというより、確かめるような響きだった。
詩稀はしゃがんで、香澄の目線に合わせた。
「和樹にも言ったけど、また来るよ。約束する」
そう言うと、香澄はようやく安心したように笑った。横で和樹も、ほっとしたみたいに肩の力を抜く。
詩稀はその表情を見て、言いようのない不安を覚えた。
自分が来ることを、子どもがこんなふうに待っているのは、少しおかしい。
夜風はまだ冷たく、マンションの外へ出ると頬にすっと張りついた。詩稀はコートの襟を整えながら、一度だけ背後を振り返る。三階の角部屋には、もうカーテンが引かれていて、中の様子は見えなかった。
見えないままの方がいいこともある、と詩稀は思う。
けれど、その夜はなぜか、香澄の声がずっと耳に残った。
――今度、また来てくれる?
それは、遊びの約束をねだる子どもの声には聞こえなかった。




