第四話 結婚記念日のサプライズ
燈から電話がかかってきたのは、土曜の午後三時を少し過ぎた頃だった。
詩稀はその時、自宅のキッチンに立っていた。鍋の中ではカレーが静かに煮えている。香澄はダイニングテーブルで和樹と並んで宿題をしていて、和樹は消しゴムのかすを指先でひとつに寄せていた。
今週は火曜しか顔を出せなかったこともあり、拓治からの「土曜は少し外せない予定があるので、日中だけ二人を預かってもらえませんか」という頼みを、詩稀は深く考えずに引き受けていた。
電話の画面に浮かんだ名前を見て、詩稀は一瞬だけ手を止めた。
燈。
実家へ戻ってからの妹は、忙しい時ほど妙に明るい声を出すようになっていた。そういう時ほど、何かうまくいっていないのだと分かる。詩稀は火を弱め、通話を取った。
「もしもし」
『あ、お姉ちゃん?』
弾んだ声だった。思っていたよりずっと高く、無理に軽くしている感じもない。本当に機嫌がいい時の声に近い。
「どうしたの」
『今から帰るの。サプライズ』
詩稀は眉を寄せた。
「帰るって、自宅に?」
『うん。今日は結婚記念日だし』
その言葉に、詩稀はなるほど、と思った。
結婚記念日。そういえば、そんな時期だったかもしれない。妹がわざわざその日に合わせて帰るという発想自体が少し意外だったが、拓治の言っていた「外せない予定」も、もしかするとこれ絡みなのではないか。そう考えれば辻褄は合う。
『さすがに、これだけ離れてたらさ。拓ちゃんも少しは反省したかなって』
「反省って、拓治くんが?」
『そう。お母さんのことでいっぱいいっぱいだったし、私も余裕なかったから。先週ちょっと喧嘩しちゃったんだよね。でも、ちゃんと話せば分かると思うの』
その“分かる”という言葉の軽さに、詩稀は嫌な予感を覚えた。けれど、それを口に出す前に、燈はさらに明るく続けた。
『陽咲たちも拓ちゃんに会いたがってるし。悠人なんて毎日、香澄姉ちゃん、和樹兄ちゃんってうるさくて』
背後で、カレーの鍋が小さく音を立てる。香辛料の匂いが急に重たく感じた。
『今から帰って、ご飯でも作ろうかなって。久しぶりに手料理食べたら、私のありがたみも分かるでしょ』
燈は笑った。笑ってから、少しだけ声を落とす。
『ねえ、お姉ちゃん』
「なに」
『男の人ってさ、放っとくと駄目になるけど、寂しくなるとちゃんとこっち見るじゃない? 拓ちゃんも私のこと、もっと大事にしたくなると思わない?』
その言い方に、詩稀は言葉を失った。
寂しくなったら、ちゃんとこっちを見る。
燈は本気でそう思っているのだろうか。あるいは、そう思い込まないと帰れないのだろうか。
『じゃ、また連絡するね』
「燈」
呼び止めたが、妹は『あとでね』とだけ言って電話を切った。
通話の終わった画面が黒く沈む。そこに映った自分の顔が、思っていたより硬かった。
「しきさん?」
香澄が不安そうに呼ぶ。詩稀は振り返り、できるだけ何でもない顔を作った。
「お母さん。今から家に帰るって」
香澄の目が一瞬だけ丸くなる。次の瞬間には、もう表情を整えていた。
「ほんとですか……。迎えに来てくれるって言ってました?」
「帰ってご飯を作って、お父さんを待つって言ってたから。準備ができたら来るかもしれないね」
「……そっか」
その“そっか”は、喜びというより確認に近かった。和樹は鉛筆を持つ手を止めたまま、何も言わない。けれど、顔色が変わったのは分かった。
「よかったね、って言えばいいのかな」
詩稀がそう言うと、香澄は少し困ったように笑った。
「うん。たぶん」
たぶん。
子どもがそう答える時、たいてい大人はもう遅い。
*
次の電話は、その四十分後にかかってきた。
今度の燈の声は、さっきとはまるで違っていた。
『お姉ちゃん』
低い声だった。平らで、乾いていて、何かを必死に押し殺している人間の声だった。
「どうしたの」
『ねえ、今どこにいるの?』
「自分の家だけど」
『あれ? 香澄と和樹は?』
「一緒にいるよ」
数秒、間が空く。
『……なんで?』
「今日は拓治くんが外せない用事があるって言うから、うちで預かってるの」
『拓ちゃんに頼まれて?』
「そう」
その瞬間、電話の向こうの気配が変わった。
言葉にならない何かが、一気に冷えて固まっていくような沈黙だった。
『そう』
それだけ言って、燈は電話を切った。
すぐにメッセージを送ったが、既読はつかなかった。
胸の奥に、嫌なざらつきが残る。
それから二十分ほどして、今度はインターホンが鳴った。
扉を開けると、燈が立っていた。律花をおぶって、陽咲と悠人の手を引いている。顔色は悪いのに、口元だけが妙に固かった。
「燈? どうしたの」
「家に帰ったら誰もいなかったから、拓ちゃんに電話したの」
その声は、もう別人みたいだった。
「そしたら、お姉ちゃんの家で“みんなで”過ごしてるって言った。二人に代わってって言ったら、今は先輩と三人で公園に行ってるからいないって」
詩稀は息を呑んだ。
“みんなで”。
“先輩と三人で”。
意味だけ切り取れば嘘ではない。けれど、そう聞こえるように言ったのだとしたら、悪質だった。
「燈、待って。私は――」
「お姉ちゃん、ちょっと下の子たち見てて」
「え?」
「拓ちゃんと話してくるから」
「今の状態で一人で行くの?」
「余計なこと言わないで」
燈はそう言い捨てた。
「拓ちゃんには何も言わないで。大事な話なの」
会話を一方的に断ち切るように、燈は三人の子どもを詩稀の家に置いて踵を返した。
詩稀はしばらく、止めようと伸ばした手をそのままに動けなかった。
「しきさん」
香澄の声で我に返る。いつの間にか、和樹も立ち上がってこちらを見ていた。
「……今の話って」
「お母さんは、お父さんと少し話してくるだけ」
自分でも驚くほど、言葉が頼りなかった。
「二人は気にしなくていいからね」
「……うん」
香澄の顔から、少し色が引いた。和樹は何も言わないまま、詩稀のエプロンの裾を掴む。力は弱いのに、その指先だけが妙に冷たい。
「大丈夫」
咄嗟にそう言ったものの、何がどう大丈夫なのか、自分でも分からなかった。
ただ、子どもたちの前で不安を見せるわけにはいかなかった。それだけで、声を落ち着かせる。
「みんな、こっちにおいで。リビングでアニメでも見ようか」
香澄は頷いたが、和樹の指はなかなか離れなかった。
悠人と陽咲は、母親に置いていかれたまま呆然としていた。律花だけが、何も分からぬままにきゃっきゃと笑っていた。
*
燈が戻ってきたのは、それから四時間後だった。
インターホンは鳴らなかった。鍵を閉め忘れていた玄関が乱暴に開けられ、扉が叩きつけるように壁へ当たる。
そこに立っていた燈は、もう出ていった時の顔ではなかった。肩で息をしている。髪は乱れ、化粧は崩れ、泣いたあとみたいに目だけが赤い。雨に降られたのか、手に握られた傘は濡れていた。
「……燈?」
名前を呼んだ途端、燈は靴も脱がずに上がり込んできた。
「何してるの!」
怒鳴り声というより、悲鳴に近かった。詩稀の方がびくりと身体を震わせる。
燈の視線は、詩稀を見ているようでいて、どこも見ていなかった。膨れ上がった感情が、目の前にあるものを全部同じ熱で焼いている。そういう目だった。
「私が家に帰ったら誰もいなかった」
「うん」
「拓治に電話したら、お姉ちゃんの家で“みんなで”過ごしてるって言った」
「……それは」
「そのあと香澄にメールで聞いた」
詩稀は口を閉じた。
「そしたら、お父さんはほとんど家にいないって。私には毎日すぐ帰ってるって言ってたのに」
燈の声が揺れる。怒鳴っているのに、今にも壊れそうな震えが混ざっていた。
「燈、落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ!」
叫んだ瞬間、律花がびくっと身体を震わせて泣き出した。陽咲もつられて泣く。悠人は事情が分からないまま、母親の膝にしがみついた。
香澄と和樹は、ソファの前で固まっていた。二人とも一言も発しない。香澄は唇をきつく結び、和樹は詩稀の後ろへ少しずつ隠れるみたいに下がる。
「話を聞いて。私はずっとここにいた。それだけ」
「それだけ? それだけって何?」
燈は笑った。笑っているのに、顔のどこにも感情の収まりがない。
「私、見たの」
その一言で、詩稀の背骨が冷えた。
「何を」
「うちの寝室に、女連れ込んでた。私の家に。私のベッドに」
部屋の空気が変わるのが分かった。
香澄の目が見開かれる。和樹は意味の分からない言葉を浴びせられた子どもの顔のまま、詩稀の服をさらに強く掴む。
「燈」
「しかも、その女が何て言ったと思う? 『お子さんは大丈夫なんですか?』って」
燈の唇がひきつる。
「そしたら拓ちゃん、笑ってた。『先輩が預かってくれてるから大丈夫』って」
そこで一度、声が途切れた。
「その女も笑ってた。『悪い人ですね』って。分かってたのよ。私の気配にも気づいてた。気づいてて、わざとやったの」
その瞬間だけ、燈の目に確かな憎しみが灯った。向かう先は拓治だけではなかった。詩稀にも、子どもたちにも、そして多分、自分自身にも向いていた。
「私は、そんな……」
“そんなつもりじゃない”。そう言おうとして、声が掠れて最後まで続かなかった。
「そんな、なに?」
燈は一歩、詩稀へ近づいた。
「ずっとそうだよね。お姉ちゃんは何もしてない。関係ない。悪くない」
「燈、やめて」
「私は子ども産んで、家で潰れそうになって、お母さんまで見てるのに、お姉ちゃんは外で綺麗に働いて、チヤホヤされて、困った時だけ外から正しいこと言って」
その言葉の前半は、拓治への怒りとは別の色をしていた。ずっと前から溜まっていたものが、一緒に噴き出している。詩稀にはそれが分かった。分かったからこそ、余計に何も言えなかった。
「私がどんな気持ちで……」
燈の声が途切れる。次の瞬間、傘を持つ腕が上がるのが見えた。
詩稀は反射的に前へ出た。自分を守ろうとしたのではない。燈の視線の先にいたのが、香澄と和樹だったからだ。
「だめ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
香澄と和樹を抱き込むように身体を入れた、その直後、何か硬いものが側頭部にぶつかった。
鈍い痛みが、半拍遅れて走る。
視界が揺れた。何が起きたのか、一瞬分からなかった。ただ、側頭部からこめかみにかけて熱が広がり、次いで生ぬるいものが流れる感覚がした。
血だ、と遅れて思う。
燈の手は止まらなかった。傘が、二人を庇う詩稀の頭と背に何度も叩きつけられる。溢れた感情をぶつけるように、考えるより先に振るわれる力だった。
子どもたちの泣き声が一斉に上がった。
香澄も、和樹も、悠人も、陽咲も、律花も。
誰の声が誰のものか分からないくらい、全部が混ざって響く。
香澄は堰を切ったように泣き崩れ、和樹もそれを見た途端に声を上げた。さっきまで固まっていたものが、一気に壊れたみたいだった。律花は甲高い声を上げ、陽咲は息を詰まらせながらしゃくり上げ、悠人は何が起きているか分からないまま「おかあさん、だめ、おかあさん」と繰り返している。
燈はその泣き声の真ん中で、ふいに動きを止めた。
怒り切った人間の顔ではなくなっていた。自分が何をしたのか理解した瞬間の、取り返しのつかなさだけが浮かんでいる。
その時、間の抜けたチャイムが鳴った。
玄関が開く。
「え……燈? これ、どうなってんの?」
拓治だった。
言葉より先に、燈の呼吸が変わった。今度こそ本当に獣みたいな声が、喉の奥から漏れる。
「『どうなってんの』は、こっちの台詞だよ!」
燈は泣いている子どもたちを振り切るように玄関へ向かった。詩稀は香澄と和樹を庇った姿勢のまま動けない。頭と背中の痛みもあって、立ち上がる気力がわかなかった。血がまだ頬を伝っている感覚だけが、やけに鮮明だった。
「お母さん、やだ……」
両親の方を見て、和樹がしゃくり上げる。香澄は口を結んだまま泣いていたが、目だけは玄関の方を見ていた。見てはいけないものを見てしまった子の目だった。
男女の怒鳴り声が重なり、最初は何を言っているのか聞き取れなかった。けれど、断片だけは嫌でも耳に入る。
女。寝室。なんで。子ども。結婚記念日。
そして、不倫。
その言葉だけが、はっきりと部屋の空気を裂いた。
香澄がびくっと肩を震わせる。和樹は意味を知らないはずなのに、その音の重さだけで怯えている。
詩稀は二人を自分の方へ引き寄せた。
「二人は聞かなくていい」
そう言っても、もう遅かった。子どもは意味を全部理解しなくても、自分の家で何かが決定的に壊れたことだけは分かってしまう。
やがて、玄関先の怒鳴り声が一瞬途切れた。次の瞬間、拓治が何かを振り切るように外へ飛び出していく気配がした。逃げたのだ、と詩稀は鈍く理解した。多分、後輩の部屋へ。
そのあとの静けさが、かえって異様だった。
燈がこちらを振り向く。
泣いている。怒っている。憎んでいる。全部が混ざっていて、もはや何に向かう感情なのか、本人にも分からなくなっている顔だった。
「もう、私帰るから」
そう告げる声が、ひどく冷たく聞こえた。
「下の子たちは連れて帰る」
詩稀は耳を疑った。
「待って。香澄と和樹はどうするの」
「無理」
「今このまま置いていくの?」
「無理なものは無理!」
燈はほとんど叫んだ。
「拓治も、香澄も、和樹も、お姉ちゃんも、顔見るのもしんどい!」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の中の音がすべて止まったような気がした。
香澄の顔から、涙とは別の色が抜けていく。和樹は口を開けたまま、何も言えない。
言ってはいけないことを言ったのだと、燈自身も分かったはずだった。けれど、一度外へ出た言葉は戻らない。
「……燈」
詩稀が絞り出すように呼んだが、燈はもうこちらを見なかった。
悠人の手を引き、陽咲と律花を乱暴に抱え上げる。下の三人は泣きじゃくりながら、玄関へ引かれていく。悠人だけが何度も後ろを振り返り、「かすみねえちゃん、かずきにいちゃん」と泣き声で呼んでいた。
香澄は立てなかった。和樹も動けない。
詩稀は二人を抱いたまま、玄関の方へ声を投げた。
「今は帰らないで。一回落ち着いて話そう」
返事はなかった。
扉が閉まる。
泣き声だけが、薄いドア一枚の向こうへ遠ざかっていく。
残された部屋は、さっきまでと同じ形をしているはずなのに、もうまったく別の場所になっていた。
詩稀はその場に座り込んだまま、二人を離せなかった。
側頭部の傷が脈打つたび、血が頬を伝う。けれどそれよりずっとはっきりしていたのは、腕の中の震えだった。香澄は声を殺して泣き、和樹は息がうまくできないみたいに細く肩を揺らしている。
「二人とも、大丈夫?」
まずそれが口をついた。
香澄が何か言おうとして、声にならないまま唇を震わせる。和樹は真っ青な顔で、ただ首を振った。
「痛いとこはない?」
もう一度聞くと、その瞬間、香澄の目から涙が溢れた。
「しきさん……血が……」
「私は大丈夫」
そう言うしかなかった。
「大丈夫だからね」
嘘かもしれない。少なくとも今この瞬間、大丈夫なものなど何ひとつなかった。
それでも、そう言うしかない。
この子たちにとって、今ここで言葉をなくした大人がもう一人増えるわけにはいかなかった。
胸の奥で、何かが静かに切り替わるのが分かった。
さっきまで、この子たちには帰れる場所があった。父親と母親がいて、どれだけ歪んでいても、ぎりぎり家族の形を保っている場所だった。
けれど、もう違う。
この瞬間、香澄と和樹は、親に守られる側から落ちた。
少なくとも、今夜だけはもう戻れない。
詩稀は二人の背を撫でた。震えが少しでも収まるように、一定の速さで、何度も。
涙と血と、子どもの体温が混ざる。
玄関の外は、もうすっかり暗くなっているはずだった。けれどこの家の中だけ、夕方のどこかに取り残されたみたいに、時間の感覚が狂っていた。
壊れたのは夫婦だけではない。
そのことを、腕の中の重さが、いやというほど教えていた。




