12話 『翼を授かった日 承Ⅱ』
西暦2080年11月12日。
昼休み。
「天月さん上手!」
ミコトが音楽室で演奏を終えると、昨日と同じように柊木ユキナは机の下から現れ、ミコトへ拍手を送った。
本当に来たんだ――
ミコトは幽霊でも見たかのように、ユキナを凝視した。
昨日――体育が終わったのを見計らい、教室に戻ったミコトは、そこで初めてクラスメイトに関心を寄せた。
どんな人物がいるのかを、観察した。
そしてその中で、柊木ユキナの事も観察した。
彼女は友人が多かった。体育館から戻ってきた時も、彼女の周りにはたくさんの人がいて、彼女は自分と話している時と同じような微笑みを、その人達に向けていた。
誰でもいいのだろうと、その時ミコトは感じた。
彼女はきっと誰にでもあの笑顔を向ける。だから昨日自分のと話したのもただの気まぐれで、もう彼女は二度と来ないだろう。
そう思ってミコトはピアノを弾いた。
けれど彼女は、予想に反して自分の所へと来た。
「またいたの……」
心の内を隠し、呆れた表情でミコトはユキナの方を見る。
「ずっといるよ。私は天月さんの演奏の大ファンだからね」
「一回演奏を聴いただけでファンを名乗るなんて、意識の低いファンだね」
「一回の演奏で人を虜にしてしまう程、天月さんの演奏が魅力的って事だよ」
ユキナは柔らかな微笑みをミコトに向ける。
その微笑みから、ミコトは視線を逸らした。
自分はそんな称賛をもらっていい程の演奏はしていない。
昨日から何も進歩の無いこの演奏は、卑下される事の方が余程納得いく出来だ。
「次は何を弾いてくれるの?」
「今日はもう弾かない……」
「どうして?」
「あなたがいるから」
視線をユキナから斜めに逸らし、ミコトは茶色い木製の床を見る。
「本当捻くれてるなぁ」
ユキナは特に気にする様子も無く、軽やかに笑う。
「じゃあ明日、また聴きに来るから」
「あなたがいるなら、弾かないけど」
「そうだったそうだった!じゃあ来ないから、また弾いてね!」
ちょうどそこで、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。
「天月さん、教室帰ろうか」
ピアノの椅子に座るミコトに、ユキナは手を差し伸べる。
「いいよ。一人で帰る」
ミコトはユキナの手を払うと、立ち上がり先に音楽室から出た。
人が裏切る生き物だという事を、自分は知っている。
今まで出会った人物は、姉以外みんなそういう人達ばかりだった。
きっと彼女も、その人達と一緒だ。
裏切られるくらいなら、最初から関係など作らなければ良い。
それがミコトの生き方だった。
ここまでの拒絶をしたんだ。きっと彼女がもう来る事はないだろう。
そのミコトの予想に反し、ユキナは次の日も、その次の日も――約束通り昼休みに音楽室へ来た。
現れ方はいつも同じだ。
演奏が終わると、拍手と共に机の下から現れる。それに驚いたミコトが怒る。それの繰り返し。
そんな日々が続いてから、一ヶ月が経った――
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
今日も来るのかな――
朝のホームルームが終わった後、教室で友人達と楽しそうに談笑するユキナを、自然とミコトは目で追っていた。
聞けば良い。
そんな事は分かっていた。けれど勇気が無かった。
ユキナとミコトは、音楽室以外では話したことが無い。
彼女は人前で、こんなクラスにいるかも分からないような自分に話しかけられるのを嫌うんじゃないか。
そんは不安が、ここ最近は大きくなってきて、どんどん話しかけるのが難しくなってきていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
昼休み。
昼食――というにはあまりにもお粗末な菓子パン一つだけを食べ終えたミコトは、辺りを見渡す。
教室には他の生徒達が机をくっつけ、談笑している。
その中にユキナの姿は無い。
ユキナはいつも、昼食は友人達と食堂でとっている。ユキナの友達の姿もない事から、今日もそうであろう事は間違いなかった。
立ち上がり、教室を後にする。
楽しそうに談笑するクラスメイトの会話に、自分の事など話す者はいなかった。
廊下を歩く。
聴こえてくるのは、耳障りな声ばかり。
早く、早くここからいなくならないと。このは私の世界じゃない――
音楽室と書かれた教室。
そこは昨日と同じように電気は消され、人の気配は無かった。
扉を開け、音楽室へと入る。
電気が消され、外の光だけが微かに入る音楽室には、いつも通りユキナの姿は無い。
それはミコトにとって不安であり、また希望でもあった。
ユキナの姿が見えないという事は、まだ“いるかもしれない”という希望を持てる。
そしてミコトにとって、ユキナをいないと思うからこそ自由に演奏が出来る。
『あなたがいるなら弾かない』と前に言った手前、彼女がいる前で堂々と弾く事は出来ない。
ミコトの心は複雑だった。
「よいしょ……と」
ピアノの椅子へと腰を下ろすと、蓋を開け鍵盤に手を添える。
ここ一ヶ月間毎日演奏をしていた事もあり、ミコトの心はだいぶ落ち着いていた。
軽く深呼吸をした後、力強く鍵盤を弾いた。
G7の心を掻く様な和音が響く。
激しい左手の動きの後、オクターブで打鍵を取る。
この一ヶ月、ミコトは家にあるピアノを鳴らしていた。
どうせ弾くのなら、良い演奏がしたい。ただそれだけの理由で。
指は届かないが、打鍵を早く正確に出来る様になる事で、曲が滑るように動く様になっている。
今まで躓いていた小節が、今は至高の音を奏で、音楽室に響いた。
そして、最後の一音を響かせた後、ミコトはその音楽室に響く余韻を堪能したのち、手を膝の上へと置いた。
その直後――
「天月さん、上手!」
ミコトの心配をよそに、ユキナはいつも通り満面の笑みと品性をあまり感じない大きな拍手と共に、いつものように机の下から姿を現した。
「……その現れ方をしないといけない訳?」
怪訝そうな表情で、ミコトはユキナを睨む。
これも日常となっていた。
「この方が天月さんを喜ばせられるかなぁと思って」
「別に……喜ばないけど」
ミコトは少し頬を染めながら、顔を背けた。
「全く、天月さんは本当に素直じゃないねぇ」
クスクスと口元に手を当て、ユキナは小さな赤子でも見るように微笑んだ。
「それにしても天月さん、今日はあそこのフレーズ詰まらなかったね」
おもむろにそう口にしたユキナを、ミコトは驚いた表情で見つめた。
「気付いたの?」
「うん!毎日聴いてれば分かるよ。音が流れるようになってて綺麗だった!」
「家でもちょっと、練習してたから。ちゃんとそう聴こえてたなら、良かったよ」
恥ずかしそうにそう口にするミコト。
だがらすぐにその表情は曇った。
「このぐらい弾けてたら、お母さんにお姉ちゃんみたいに褒めてもらえたのかな……」
結局どんなに上手くなろうと、心に巣食うのは姉と母の事ばかりだった。
「お姉さんって、そんなにピアノ上手かったの?」
ユキナが心配そうにミコトを見つめる。
「上手いなんてものじゃないよ。あなたの言葉を使うなら、それこそプロ級だよ」
「そうなんだ。でも私は、天月さんの演奏もすごい上手だと思う」
「そんなことない。きっとお姉ちゃんの音を聞いたことがないからそんな事が言えるんだ」
ミコトは奥歯を噛み締める。
頭に浮かぶのは、嫌な記憶ばかりだった。
「お姉ちゃんの音は特別なの。聴いた人全てに自分の心の内を伝える表現力を持っているの」
虚しさが心を掻く。
尻すぼみにミコトの声は小さくなっていく。
「私はただ閉じこもってるだけ……私の音は誰にも届かない」
演奏を終えた自分を、褒めてくれる人物など一人もいなかった。
コンクールの審査員は、自分から姉への紹介を求めた。
マスコミは姉の私生活を自分から聞き出そうとした。
そして母は、自分を“失敗作”だと舞台袖で卑下した――
「お姉ちゃんの音を聞いたら、きっとあなたも私を失敗作って言うよ」
「失敗作だなんて、そんなこと言わないよ。だって天月さんのピアノが上手なのは本当だもん」
顔を逸らすミコトに構わず、ユキナは話を続けた。
「天月さんの音はね、たしかに閉じこもってると思う。だけどね、その中にある情熱を、私は感じるよ」
「情熱……?」
「静かなのに凄い何かに怒ってるみたいな音――。あんまり他の人からは感じない音な気がする。きっとそれは、天月さんだからこそ奏でられる唯一無二の音なんだと思うよ」
ふふっ、とユキナは悪戯っぽく微笑む。
「どうでしょう?プロを比較に出さずに褒めてみました。これなら失礼じゃないよね?」
ミコトはその言葉に、沈黙した。
その直後、昼休みの終わりを告げるチャイムが響いた。
「もう終わりかぁ。じゃあ天月さん、先戻ってるね」
首を縦に振り、ミコトは頷く。
ミコトに気を遣って、ユキナは敢えてミコトを一緒に帰ろうと誘おうとはしなかった。
ミコトはそのユキナの優しさに気付いていた。
ずっと前から、思っている事があった。
彼女の向ける微笑みは、今までの誰とも違う。
邪気が無く、温かな微笑みだった。
きっと彼女なら、自分の事を受け入れてくれるのじゃないだろうか。
そう思える何かを、ミコトは初めて人から感じた。
音楽室の扉へと手を掛けるユキナ。
その彼女の後ろ姿にミコトは声をかけた。
「実は、最近練習してる曲があるんだ」
ユキナは手を止め、ミコトの方を振り向く。
自分の意思を伝えるのは難儀だ。
捻くれた言葉ならいくらでも出てくるというのに。
はやる気持ちを抑え、ミコトはどうにか口を動かす。
「多分、喜んでくれると思うから――」
言葉を紡ぐのには、こんなにも労力がいる事なのだと、初めてミコトは実感した。
そして――
「明日、聴きに来てよ」
生まれて初めて、ミコトは家族に伝えた事も無い自分の意思を、そのまま誰かに伝える事が出来た。
「…………」
ユキナはミコトの顔を見て呆けている。
やはり駄目だったか。引かれてしまっただろうか。
ミコトは顔を逸らす。
「や、やっぱり何でもな――」
「え⁉︎天月さんから誘ってくれるの⁉︎」
ミコトへと走り寄ったユキナが、出会った時と同じようにミコトの両の手を取って微笑んだ。
「ありがとー!絶対行くからね!もう取り消せないから!」
ミコトは目を丸くして驚いた。
だが驚きだけではない。
初めて感じた、人から認めてもらえた喜び――
思わず自分の顔がニヤケそうになったのに気付いて、ミコトは慌てて顔をユキナから背けた。
「あ、あんまり期待しないでね。きっと期待するほどのモノは、演奏出来ないから……」
「そんなのはいいんだよ!大事なのは何を聴かせたいか、誰に聴いて欲しいのかだよ!天月さんが私の為に弾いてくれる演奏が、悪いものになるはずがないよ!」
ミコトは沈黙した。
今口を開いてしまえば、まるで自分らしく無い言葉が出てきてしまいそうだった。
「そっ……まぁ、じゃあそんな感じで」
「うん!楽しみにしてるよ!天月さん!」
ユキナは手を振ると、満面の笑みと共に音楽室を後にした。
「うん、頑張るよ――」
ユキナの言葉を思い出し、ミコトは微笑んだ。
「ユキナさん」
誰もいなくなった教室で、ミコトは少し背伸びをした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
翌日――。
昼休み。いつもの教室で、いつもの時間。
ミコトはピアノの椅子に座り、辺りを見渡す。
そこにはいつも通り、ユキナの姿は見えない。
今日ぐらいは、隠れなくたっていいのに――
だがそれも自分達の関係らしいか、とミコトは苦笑した。
鍵盤に指を置き、深呼吸する。
姿は見えないから、緊張はしない。
自分だけの世界だ。
けれど今日は、この世界にはもう一人住人がいる。
ミコトはその見えない住人を思い浮かべながら、音楽を奏でた。
春の湖を思わせる豊かな音階――そこに水の雫のような高音が響き重なる。
ピアノの上に置かれている譜面は『アラベスク第一番』――ユキナが一ヶ月前、ミコトに会った時に聴きたいと言っていた曲だ。
水を掬う時に感じる重力のような重い低音。
そこにまた軽やかな音階が重なる。
ミコトの周りに広がる世界は、天国の湖のようだった。
教室に最後の一音が響く。
余韻が響き終わった後、ミコトは天井を見た。
初めて自身で納得のいく演奏だった。
急拵えなのもあり、メロディーがズレる事もあったが、それを差し引いても満足のいく出来だった。
伝えたい想いを全て演奏に乗せることが出来た事こそが、ミコトにとっては充分な事だった。
だが――
しばらく待っても、あの底抜けな程に明るい声は、聴こえてはこなかった。
その代わり――
「『アラベスク第一番』、いい曲ね。上品な音の中に後を引くように響く悲壮的な音……これはきっと、ミコトにしか奏でられない音色だわ」
ゆっくりと上品な拍手が教室に響いた。
ミコトはその音の先に視線を向ける。
「あなたは……」
絹のように美しい金色の髪――
風で揺れるその優美な美しさに、ミコトは彼女の事を思い出した。
「神様」
サナキの葬式の帰り道出会った、自分を神を名乗る少女。
その人が今、一番前の席で自分に拍手を送っていた。
「そういえば誤魔化したままだったわね。カグラよ。敬称はいらないわ」
カグラは立ち上がる。
同じ学校だったんだ――
カグラの着ている制服を見て、そんな事をミコトは思った。
だがそんな事はミコトにとって、どうでも良いことだった。
ミコトはキョロキョロと辺りを見渡す。
「貴方の待ってるあの子、今日は来ないわよ」
カグラが窓を開けると、冬へ向かう冷たい秋風が吹いた。
「え……?」
「こっちへいらっしゃい」
カグラの手招きされるままに、ミコトは窓へと歩く。
「あそこをよく見て、あの木の下」
カグラの指差す方を見る。
校舎の奥。
夏には多くの人をその草の影で隠す巨大な木――
その下に、友人達と楽しそうに談笑するユキナの姿があった。
「どうして……」
どの言葉よりも、その言葉が早かった。
信じていた人だった。
この人なら自分を受け入れてくれると、そう思っていたのに。
窓のヘリを自然と強く握るミコトの肩に、カグラはそっと手を回し後ろから抱きしめた。
「可哀想なミコト……お友達だと信じた子に裏切られるなんて」
ミコトの表情が揺らぐ。
「泣いてもいいのよ?」
下唇を強く噛む。
絞り出すような声でミコトは返す。
「泣かないよ」
「どうして?」
「だってあの子は、別に友達でも何でも無いし。付き纏われて迷惑なだけだったから」
人に自分の弱さを見せる事を恥と思うミコトは、虚勢を張った。
「自分に嘘をつくのは、自分を傷付ける事になってしまうわよ」
「嘘なんかじゃない。あの子は本当に友達でも何でもない。最初から期待してないし、来なくたって悲しくなんかない。泣く理由なんて一つもないんだよ」
虚勢を張っていると、心が楽になってくようだった。
最初から友達では無い、期待などしていなかった。
そう思えば、自分が傷付く理由は無くなっていった。
「そう、貴方が望むならそれでいいわ」
頑なに自分に嘘をつくミコトにカグラは諦めたように首を振った後、ピアノの方へ歩くと、椅子へ座った。
「おいでミコト、今度は私が弾いてあげる」
カグラに言われるまま、ミコトはピアノを目の前に見る席へと座った。
ミコトが席についたのを確認すると、カグラはそのしなやかな長い指で鍵盤を撫でた。
細い二つの音が響く。
『夜想曲』
山の奥で冬の夜空に輝く星を見た時のような、穏やかな曲が奏でられる。
ミコトはカグラの響かせるその音に、聴き入っていた。
カグラの奏でる音の一音一音が、今の自分の心と同調するようだった。
人は裏切る生き物だと、自分はよく知っているはずだった。
なのに何故、自分は人を信じてしまったのだろう。
そう疑問を問いかけた時、思い出すのはユキナの微笑みばかりだった。
『天月さん』
そう自分を呼ぶ彼女の笑顔が明るい程に、その袂にある影は濃く、暗いものだった。
「お姉ちゃん……」
ミコトの頬を、温かな雫が伝う――
夜の想いに馳せるこの曲は、自分がどうしようもなく孤独なのだという事を感じさせた。
泣いてる女の子が一番!




