11話 『翼を授かった日 承Ⅰ』
西暦2080年11月11日。
高層ビルの真横にある海では、寒空の下で海水浴をする若者でごった返している。
五年前に起きた大地震のせいで地表が割れ、東京の真ん中には、巨大な海が出来た。
近くに海があるというのは、海が好きな人達にとってはそれだけで足を運ぶのに充分な理由となる。
新東京第十三区画中学校――昼休み。そこの三階校舎の窓から海で遊ぶ人達を見ていた生徒が、羨ましそうにため息をついた。
「いいなぁ、早く授業終わらせて私も泳ぎたいー」
「いいよねぇ。白い肌、揺れるおっぱい――海って素敵だよねぇ」
その人物の隣で同じように海を眺める女生徒が、気の抜けた声で答えた。
「どこ見てるのよルリ、あんた思考がおじさんよ」
「えぇ〜逆に海行って他にどこ見るんだ〜い?」
「それはもちろん海行ったら、海見るでしょ」
「海なんて風呂桶に水入れれば、似たようなの見れるよ〜」
「そんなの全然違うでしょ!」
「えぇ〜、一緒だよぅ」
生産性の無い話、馬鹿な人達――
その女生徒達の会話に、机に顔を埋め天月ミコトは耳を傾けていた。
これからの人生において、何の意味も無さない話。
有限である時間を浪費してまでやることだろうか。いや、絶対にそんな価値のある物では無いと断言出来る。
そんな事にも気付かないとは、本当に馬鹿な人達だ。
ミコトにとって、教室は一番退屈な場所だった。
周りは能天気な話をする人ばかり。
姉が死んだというのに、世界は何も変わらない。
皆、昨日までと同じように話し合い、笑い合う。
昨日会った薬師町という女性。
彼女は人一人の命の損失など、取るに足らない物と言っていた。
こうして教室にいると気付く、確かにあの人の言うように、人一人の命など大した事など無いんだ、という現実に。
どうしようも無いその現実に、思わず叫び出したくなりそうだった。
姉は優秀だった。
誰からも評価され、愛される人だった。
その姉でさえ、死んでしまえば忘れ去られ、何事も無かったように世界は同じ日々を刻む。
きっと自分が死んでも、世界は同じように時を刻むのだろう。
何事も無かったかのように、同じ日常がこの先何千年も続いていくのだ。
なら、人類全体の数と比べればどうせ取るに足らない自分の命は、薬師町の言うように有効活用する事が、一番正しい事なのだろうか。
「あれ……」
机から顔を上げ、辺りを見る。
いつの間にか騒がしかった教室から人が全員消えていた事に気付いた。
昼休みが終わるまであと数分。
次の授業が始まるというのに、誰も教室などいないのはおかしい。
「そういえば次の時間って――」
目線を壁へと移し、そこにある時間割表を確認する。
昼休憩の後の五時限目にある授業は『体育』。
通常の授業とは違い、教室では無く体育館で行うため、クラスメイトが消えていたのだ。
「行かなきゃ……」
鞄から体操着を取り出し席を立つ。
廊下へ出ると、ちょうど食堂で昼食を終えたクラスメイト二人組がミコトの横を通り過ぎた。
「次の体育バレーボールだって」
「えぇ〜あれ腕に痣出来ちゃうから嫌だ〜……」
バレーボール――
チームスポーツだ。一人で行うわけには行かない。
チーム決めが行われれば、友達など一人もいない自分が余る事は容易に想像出来る。
一人は怖くない。
けれど、自分とチームを組んだ者が気を使うのは分かっている。それが嫌だった。
同情など、一番の侮辱だ。
肉親を失った事のない人達が、分かったように自分に気を使う。
それで自分は優しいと心の隙間を埋めていくんだ。嫌いだ。
肉親を失ったからと言って同情されるほど、自分は弱くない。
他の人に同情されるほど、自分は惨めなんかじゃない。
「あんまり動くの……好きじゃないし」
どうせ自分がいなくても、誰も気にはしないだろう。
なら――
ミコトは振り返ると、体育館とは逆方向に歩き始めた。
何処でもいい、何処か静かな場所に行こう。
体操着を持ったまま、やや早足気味にミコトは歩く。
教室の横を通る度に、中からは友人同士で笑い合う生徒達の声が聞こえてきた。
羨ましくなどない。
自分は孤独じゃない。誰とも関わらない道を、自分で選択しているだけだ。
自分にそう言い聞かせる。
しばらく歩くと、暗く電気の消えている教室へと辿り着いた。
「ここは、音楽室か」
教室の前に貼られたプレートに書かれた名前を、ミコトは読み上げる。
今日の音楽の授業は午前中のみで、午後に使用する事はない。
音楽室の明かりは消され、人の気配は無かった。
「ここなら、静かでいいかな」
扉を開け、音楽室へと入る。
「わぁ……」
薄暗いその教室の風景に、ミコトは息を呑んだ。
教室には、ほのかに外からの日差しが指している。
通常の教室より一回り大きい教室に、豊かな間をとって机が置かれていてた。
普段はここで、多くの生徒が授業や部活動に励んでいる。
そんな場所を、今は自分一人が占拠している。自分の思うがままに出来る。
優越感に似た感覚が、ミコトの中であった。
「ここは落ち着くなぁ――静かでいいや」
ここには生産性の無い話をする人間も、自分に気を使うような人間もいない。自分だけの世界だ。
「ふっふふ〜ん♪」
上機嫌になったミコトは、鼻歌を唄いながら適当にバレエダンスを踊り、くるりとターンする。
ふと、ミコトの視線の端に、教室の奥に静かに佇むグランドピアノが目に入った。
「…………」
ミコトはしばらく固まった後、引き寄せられるようにピアノへと足を運ぶ。
もう七年程前になる。
ミコトは昔、姉に憧れピアノを弾いていた。
だが自分の才能の加減に気付き、ミコトはピアノの世界から離れた。
ピアノのボディに触れる。ニスのかかり艶がかったその触り心地が、ミコトの心に懐かしい感覚を思い出させる。
もう二度と、弾くことは無いと思っていた。
けれど今は誰もいない。誰に自分の音を評価されるわけでも無い。
「弾いて、みようかな……」
蓋を開け、鍵盤に手を添える。
一音――四オクターブ目のドを弾く。
弦を通常より軽くチューニングされた鍵盤は、少しの力で豊かな音色を教室に響かせた。
静寂の教室に響いたその一音は異質だった。
だからこそ、誰もいないというその事への証明が、ミコトの心を惹きつけた。
自分の世界だ。自分の弾きたいように弾けばいい――
深呼吸をすると、ミコトは両の手で曲を奏で始めた。
感情に任せた力強い音が響く。
『ショパン練習曲ハ短調作品10-12』――通称『革命』と呼ばれる曲。
左手が常に激しい音階を弾かされ、右手が和音を奏でるという珍しい曲だ。
右手の和音を奏でる際、小指で隣の鍵盤を触ってしまい不協和音が響く。
この曲はオクターブの和音が多い。ミコトの体は他の女子に比べて低く、手もまた小さかった。
だからオクターブの曲を弾く時はよく失敗し、母に怒られていた。
姉は自分と比べて背が高く、スタイルのいい人で、手も同様に大きかった。
何物も包み込むようなその手で音を拾い上げ、力強い和音を奏でていた。
恵まれた姉に叶うところなど、一つとして無かった。
いや、一度だけあったか。
七年前――自分がピアノをやめるきっかけとなった時だ。
風邪を引いた姉に代わり、自分が賞を受賞した事がある。
だがそれは決していい思い出では無い。
ミコトにとって、母に憎まれるきっかけとなった苦い思い出だ。
また和音を取るのに失敗する。
それに釣られるように左手の音階がズレ、曲が止まりそうになる。
ミコトは必死で持ち堪え、なんとか曲を弾き終わる事に成功した。
弾き終えただけで、曲と呼べるものでは無いと自負を感じながら。
「わー上手ー!」
突然、最前列の机の下から女生徒が現れると、パチパチと手を鳴らしミコトの演奏に拍手を送った。
「ぇ……誰」
「すごいね天月さん!プロ並みだよ!」
自分の名前を知っている……?
制服のリボンを見れば、自分と同じ二学生を示す水色のリボンをしている。
同じクラスの人間なのだろうか。けれどミコトは最近まで学校に通っていなかった為、クラスメイトの顔ですらよく分かっていない。
ミコトは警戒の念を込め、その女生徒を睨んだ。
その行動に女生徒は小首を傾げる。
「あ……もしかして驚かせちゃった?」
「な、何で人がいるの……?授業とっくに始まってるけど」
その言葉に、女生徒は口元をだらしなく緩ませ笑った。
「いやーそれが、体育館と逆に歩く天月さん見ちゃって“どこ行くのかなー”って着いてきたらこんな感じ!」
「こんな感じって……」と呆れるミコト。
自分のあの不甲斐ない演奏を誰かに聴かれていた。
その事実だけで、ミコトの心は恥ずかしさと、隠れて聴いていたこの人物への怒りに満ちていた。
「ねぇ天月さん!」
突然、女生徒がミコトの両の手を握った。
数年ぶりに姉以外の人間に触れられ、思わずミコトは慄く。
「そういえば、こうしてちゃんと話すの初めてだよね。私は柊木ユキナ!覚えてないかもだけど、天月さんと同じクラスだよ!これから仲良くしてこうね!」
「よろしく……」
ユキナの圧に押され、ミコトは視線を逸らす。
さりげなく、自分の手を握るユキナの手を振り解いた。
「あれ……なんか私、嫌われてる?」
「人に演奏聴かれるの嫌だから……別にあなたが嫌いとかじゃ無い」
自分の演奏は人に聴かせるような代物ではない。
母も先生もコンクールの人間も――皆、自分の演奏をそう評価した。
姉のような完璧な演奏をしなければ、人に聴かせてはいけない。
完璧でない者を人に見せるなんて、恥でしかなかった。
「えぇそうなの⁉︎あんなに上手なのに聴かれたくないの⁉︎」
「別に上手くないよ。お姉ちゃんに比べればずっと下手だし」
その言葉に「うーん……」とユキナな両腕を組んで唸った。
「私は天月さんのお姉さんを知らないからよく分からないけど、天月さんの演奏はとっても上手いと思うよ!」
「どうしてそんな事が言えるの?あなたピアノ弾けるの?」
「弾けないけど、オーケストラのコンサートなら見に行った事あるからさ!天月さんの演奏は、その時弾いてたピアニストさんに引けを取らないくらい上手だったよ!」
ユキナのその言葉に、ミコトの表情が曇る。
出来もしない癖に、適当な事を……。
この人は何も知らないから、そんな適当な事が言えるんだ。
「やめてよ、私はそんな凄い人間じゃない。それに……あなた失礼だよ」
「え、失礼だった……?」
「そうだよ。私がオーケストラの舞台で演奏するようなプロのピアニストの人と同じくらい上手い?あなたは音楽で食べていけるような人がどれだけ少ないか知ってるの?」
まるで捲し立てるように、ミコトは苛立ちを含めた声色で話す。
「プロの人達はね、才能もあって、それに加えてあなたが想像もつかないような練習をしているの。それでようやくその舞台に立つ資格を与えられているの。その人達の努力に対して、あなたの今の発言は無責任で失礼だよ」
数秒、ユキナは目をぱちくりと瞬きし驚いた表情をした後、口を開いた。
「天月さんって、もしかして友達少ない?」
「は……」
突然のユキナのその言葉に図星をつかれ、ミコトは思わず呆然となる。
ややあってミコトは苛ついた声で反論した。
「友達少ないから何?あなたに迷惑かけたかな?」
「いやぁなんか……天月さんの言ってる事は分かるんだけど、普通に褒めただけなのに私怒られてて、気難しいというか、もしかして友達少ないのかな〜って」
「少ないどころかいないけど。私は群れて生産性の無い話をするのが嫌いなの」
その言葉に、ユキナはニヤついた顔で「なるほど〜」と頷く。
「やっぱり天月さん、言葉になんか棘があるね」
ユキナのその表情に、自分を馬鹿にされたような感じを覚え、益々ミコトの顔に怒りの色が表れる。
「私が嫌ならどっか行けばいいんじゃない?私は止めないからさ」
「嫌だなんて、そんなこと言ってなくない?」
「だって私の事嫌いな訳でしょ。私に傷付けられたから」
「いやいや勘違いだよ。加害妄想!傷ついてなんかいないよ!たしかに棘はあるけど、私は天月さんのそういうとこ含めて魅力だと思うよ」
ぐっとミコトにユキナは近付くと、再びミコトの手を取った。
「むしろ私は、天月さんのこと、なんか好きになったよ!」
「……何言ってるの、あなた」
眉間に皺を寄せ、ミコトは彼女を睨んだ。
ここまで言われて自分を好きになったなどと、全く思考の読めない相手だ。
「いっつも暗〜い顔で何考えてるのか分からなかったからさ、こうして天月さんが驚いたり、怒ったりする顔を見てね、同じ人間なんだな〜って思えた!」
「今まで何だと思ってたわけ……」
「触れちゃいけない、神様みたいな人」
神様――その言葉にミコトは一瞬動揺した後、弱々しく言葉を投げた。
「やめてよ……笑えない冗談だよ」
『貴方は、人間を超えた上位種――神となったのよ』
昨日の薬師町の言葉が頭に響く。
その言葉を、ミコトは頭を振って無理やり掻き消した。
直後「あっ!」とユキナが驚嘆の声を上げた。
「やばいな、もう30分も経っちゃってる。流石にこれ以上遅刻はトイレじゃ誤魔化せないや」
ユキナが手を差し伸べる。
「天月さん、そろそろ授業行こう!」
自分へと差し伸べられた手――
しばらくミコトは固まった。
だが、
「行かないよ。私はやらない」
顔を背け、小さくそう呟いた。
「そっか……」
ユキナはミコトのその様子を見て何かを察すると、差し出した他を引っ込めた。
きっと彼女には、時間が必要なんだ――
「じゃあさ天月さん。私また来るからさ、明日はあれ弾いてよ!えっとなんだっけ……」
おもむろにユキナが口を開いた。
好きな曲だというのに、頭を悩ませ題名を考えるユキナに、ミコトは眉間に皺を寄せる。
好きな曲なのに忘れたわけ?何なのこの人、本当に適当な人。
「何だっけなぁ……アベラルク?うーん……アラベンベン?」
「『アラベスク』のこと?」
頓珍漢な言葉を言う彼女に、思わず言葉を発してしまう。
「そうだアラベスクだ!」
謎が解けた事で、ユキナの顔がぱぁっと明るくなる。
「そうだそうだ、それだよ!私その曲綺麗で凄い好きなんだ!それ弾いてよ!」
「弾けないし、弾けたとしても人には聴かせないけど」
「あらら、そうだったんだ。じゃあ明日も今日と同じ曲でいいよ。さっきのもいい曲だったから!」
「明日も私が弾く前提で、話を進めないでくれる?」
「えー、弾いてくれないの?」
「あなたがいるなら弾かない。いないなら弾くかもね」
「捻くれてるなぁ……」
クスクスとさも面白いかのように、ユキナは微笑んだ。
「分かった!じゃあ私来ないから!弾いて弾いて!」
「……絶対来るでしょ」
「あ!あとお願いなんだけど、出来れば休み時間のうちに弾いてくれると授業遅刻しないから嬉しいな!」
「…………」
もはやツッコむまでも無い。
ミコトは無言で教室から立ち去るユキナを睨んだ。
革命のエチュードを弾ける中学生は、家が隣同士でよく窓を伝って上がり込んでいる自分を好きな幼馴染と同じくらいの確率でいません。




