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ホームランの幻動力

 蝉の鳴き声が暑さに拍車をかける8月某日の昼下がり。私は、関東近郊の球場を訪れていた。今季での引退を表明した寺本彰士選手にインタビューをするためである。

 私は関係者用の食堂のテーブルに座って、質問の内容をあれこれ考えながら練習が終わるのを待っていた。今日は月曜で試合が無いから、練習の後に時間の余裕がある。メディア対応にもってこいの時間帯だ。

 とは言え選手の時間が有り余っているという訳ではないし、まして彼は引退を発表したばかりである。そんな貴重な時間を私とのインタビューに割いてくれたのは、長い付き合いがあったからだった。

 実は私が番記者になった年に、彼はドラフト1位で指名された。言わば同期入団である。年が近かったこともあり、寺本選手とは特に仲良くさせてもらった。以来、ルーキーイヤーの交通事故、そこからの懸命なリハビリと回復、そして一軍昇格、スタメン定着と、波瀾万丈の寺本選手のプロ野球生活を追いかけてきた。気付けば取材をする時には、彼がこの食堂で食事をしている時に隣で質問をするのが習慣になっていた。そんな毎日が今シーズンで終わりになってしまうと思うと、やはり寂しいものがある。


 おもむろに食堂の入り口が騒がしくなった。選手たちがロッカーから引き上げてきたようだ。今日は家族と過ごせる選手が多いからか、リラックスした表情が多いように感じられた。選手が入ってくる度に、視線を入り口へ向け、軽く挨拶を交わす。

「今日は寺本さんの取材っすか。もうすぐ来ると思いますよ」

 春川選手からはそう聞いたが、20分待っても寺本選手は現れなかった。現時点での三冠王といえど、その言葉は簡単に信用しないほうが良さそうだ。

 30分以上が経ってから、半袖短パンのラフな格好の寺本選手が姿を見せた。

「よお、鈴木さん。申し訳ないね。引退のこと、隠してて」

「いやいや。商売柄、仕方ないでしょう。それにしても驚きましたよ。まだやれるでしょうに」

「またまた~。お世辞が上手いなぁ。で、今日は引退インタビュー?」

「そうですね。どういう経緯で引退を決断するに至ったかというのを聞ければな、と」

「ハイハイ、了解です。んじゃ、ちょっと注文してきますわ」

 寺本選手がカウンターへと行っている間に、私はメモとペンを用意した。それからボイスレコーダーをもう一度チェックした。番記者になって間もない頃、これが故障したせいで大事なインタビューをポシャらせたことがあった。それ以来、ボイスレコーダーはいつも2つ用意するようにしている。

 しばらくして寺本選手が生姜焼き定食を持って帰ってきた。

「ちょっと隅っこ行きません?」

 そう言って、寺本選手は誰もいない隅の席を指さした。他人には聞かれたくない話なのだろうか。でもそんな話なら記事にされたくはないはずだ。ならなぜ私に? とにかく信頼をしてもらっているのは確かであろう。私は、言われた通りに席を移動した。


 私が席に着くのを見計らって、寺本選手は話を切り出した。

「野球の神様って、いると思います?」

 一瞬、考える。

「いるんじゃないですか。奇跡的な逆転劇とか、そういう神様でもいなきゃ実現できなかったと思える試合ってあるじゃないですか。それこそ長年グラウンドに立っている寺本選手なんかはよく感じるんじゃないんですか?」

「いや、だからこそ俺は信じちゃいないよ。野球ってのは、誰かに助けてもらう競技じゃない。自分でどうにかしなきゃいけないんだ。『神様に打たせてもらいました』なんて、俺には死んでも言えないね。だって俺はそこで打てるように、毎日汗水流して、悩んで、苦しんできたんだから。野球の神様は、結果論の創造物さ」

 寺本選手はそこまで言うと、大きく口を開けて生姜焼きを頬張った。

「だから野球の神様なんていない、と?」

 口をモゴモゴさせながら、寺本選手は頭を縦に振った。飲み込んで、続ける。

「で、今日俺が話をしたいのは、野球の悪魔についてだ」

 野球の悪魔。もう一度頭の中で呟いてみるが、その言葉に心当たりはない。

「それはつまり、野球場に潜む魔物みたいなものですか? 大量リードの試合だったのに大逆転されるとか」

「それは野球の神様と同じ意味でしょ。自分が奇跡的に勝てば、野球の神様のお陰。自分が悲劇的に負ければ、球場に潜む魔物のせい」

「じゃあ、どういう意味なんですか、野球の悪魔って?」

「そう難しい話じゃない。自分の選手寿命と引き換えに、良い成績を残せる契約をしてくれる、そういう悪魔のことだよ」

 そんな言葉があっただろうか。いや、多分何かの喩え話なのかもしれない。魔球と呼ばれるスプリットを多投する投手は肘を壊すとか、そういう類の話を指しているのだろう。

「そんな野球の悪魔と奇妙な契約をした一人の野球選手がいてね。今日はその話を聞いてもらいたいんだ」

 そんな話より引退のことを聞きたいのですが、と言いかけたが、やめた。

 寺本選手の目は、ふざけているようには見えない。むしろこれは寺本選手のの引退と強い結びつきのある話なのだ。私は黙って頷いた。


「まずは彼が野球の悪魔と契約した経緯から始めようか。高卒の彼は、長打力のある即戦力野手として入団した。左の和製大砲とか、そんな呼び名もあったかな。とにかく周囲の期待は凄かったし、本人も活躍は当たり前だと思っていて、当面はタイトル獲得を目標にしていたくらいだった」

 春川選手の話だろうか、と思ってから、私は記憶の彼方に引っかかりを感じた。すっかり忘れてしまっていた記憶が、再びぼんやりと目の前に現れつつあった。

 私はボイスレコーダーに目を遣り、2つとも動いていることをもう一度確認した。

「その彼に試練が訪れた。ルーキーイヤーのキャンプを目前に控えていた彼は、しばしの別れの前に恋人とのデートを楽しんでいた。将来を約束した仲だった。その2人が横断歩道を歩いている時に、運命の瞬間は訪れた。交差点に突っ込んできたトラック。跳ね飛ばされた2人の若者。その結果、恋人は記憶を失い、彼は下半身不随と診断された」

 そこまで聞いて、思わず口走ってしまう。

「え、あれは両脚の複雑骨折だったんじゃ……」

「正確に言うなら、複雑骨折になったんだよ。野球の悪魔との契約によってね」

 眉間にシワを寄せた私の無言の質問に、寺本選手は笑みを浮かべながら答える。

「入院したその日の深夜、彼の病室をノックする者がいた。彼が『誰だ』と尋ねると、その訪問者はこう言った。

『私は悪魔という者です』

 さらに驚くべきことに、声の主は病室のドアを通り抜けて中に入ってきたのだった。彼は少なからず動揺したが、すぐに抵抗できるように身構えていた。

 その彼を前にした悪魔はベッドの脇まで来ると、恭しく頭を下げた。

『夜分遅くに失礼します。このたびは誠に申し訳ございません。実は今回の事故は人違いでして、お名前の似ていた貴方様の野球人生を誤って徴収してしまいました』

 聞けば、彼と名前の似たプロ野球選手が契約違反をしたらしい。そこで徴収係が間違えて、彼にペナルティを与えた、つまり野球のできない体にしてしまったということだった。にわかには受け入れがたい話だったが、その時の彼は納得した。色々なことが立て続けに起こっていたから、混乱していたんだろう。

 そんな彼に対して、悪魔は補償を申し出た。その内容は2つ。下半身不随を複雑骨折ということにして完治させること。そして、恋人の記憶を元に戻すこと。それが悪魔にできる最大限の時間改変だったらしい。

 しかし彼は、怪我による自分の野球人生への影響についても弁償を求めた。いくら複雑骨折が完治するとしても、完治するまでの時間は取り戻せないし、衰えた筋力が元通りになるとは限らない。

 そこで悪魔は、もう一つ特別な契約を提示した。それは、本来であれば彼が打つはずだったホームランの数だけ、好きな時に、好きな人にホームランを打たせることができる能力を与えるというものだった。未来を変えることの方が、悪魔には楽なのだそうだ。初め、彼はその案を気に入らなかった。努力に裏打ちされない結果など、誰の役にも立たない。だが他に代案はないらしい。彼は、仕方なくその契約を受入れた」

 そこで寺本選手は一旦話を止め、残っていた生姜焼きと白飯とを勢いよくかっこんだ。

 私もいつの間にか前かがみになっていた姿勢を起こして、1回ゆっくりと深呼吸した。不思議と、彼の荒唐無稽な話を否定するような考えは浮かばなかった。


 寺本選手は水の入ったコップを空にしてから、再び話を続ける。

「それから彼は1年のリハビリを経て、再びグラウンドに立った。しかし怪我の影響で、かつての長打力は失われていた。右足の踏ん張りが利かなくなっていた。

 ポジション争いも熾烈化していた。同じ年に入団した社会人出身の外野手は、20本塁打を放って新人王を獲っていた。さらにその年には大学出の俊足外野手が指名されていた。

 それでも彼は諦めなかった。長距離打者としてのプライドは捨て、チームに貢献できる選手を目指した。堅実にバントを決め、フォアボールを選び、チャンスにヒットを打つ。それが、彼にとって野球選手として生き残るための唯一の方法だった。

 一方で、しばらくの間、彼は例のホームランを打たせる能力を使わなかった。チームを勝たせるために使おうと思ったことはあったが、最後のところで思い留まっていた。使ってしまったら後悔することは、容易に想像できたからね。だからなるべく考えないようにしていた。

 そんな彼の考えが変わったのは、ある後輩が入団してからだった。ドラフト1位で指名されたその後輩は、高卒で左の長距離砲。春のキャンプは一軍スタートとなり、連日多くの報道陣に囲まれていた。

 だが彼は、その後輩が逸材ではあるものの、その技量はプロ野球選手として未熟であることに気付いていた。その後輩の金属バットありきのスイングでは、せいぜい内野の頭を越えるのが精一杯だ。後輩自身も自覚はあるらしく、フリー打撃でも無理に長打は狙わず、広角に打ち分けることに徹していた。

 もちろん打撃コーチは黙っていなかった。後輩の打撃フォームは、無理に長打を狙うようなスイングへと改造された。その過程で、後輩の持っていた天性の素質は全て失われた。当然、紅白戦ではヒットさえも打てないという散々な結果に終わった。このままでは、後輩は自分のバッティングを見失ったまま戦力外になってしまう可能性さえあった。

 悩んだ挙句、彼はその後輩に能力を使うことにした。ホームランさえ打てれば、コーチはバッティングに文句は言えなくなる。そうすれば後輩は本来の打撃を取り戻し、やがては長打力も伸びる可能性がある。それに以前のフォームならば、一軍でもヒットは打てると踏んでいた。周囲から不審に思われることも無いだろう。

 その結果は……ご想像にお任せしましょうとでも言えばいいかな?」

 そこまで言うと寺本選手はアイコンタクトを取ってから立ち上がり、トレーを返却口へと持っていった。ひとまず話すべきことは終わったのだろう。私も息をついてから、思い浮かんだことを忘れないように幾つかノートに走り書きした。


 寺本選手が戻ってきてから、質問を始めた。

「その後輩が、これまで自分の力で打ったホームランの数は?」

「33本」

 頭の中でざっと計算する。通算本塁打のおよそ4/5くらいは、打たせてもらっていたことになる。

「ただし昨年までは0本」

「えっ?……それはつまり、今年は1本以外全て自分の力で打っているということですか?」

「より正確に言えば、今年の4月以降だね。そこで能力を使い切ってしまったから」

 そうか。私は納得した。例の選手の春先の不調は、それが原因だったのだ。

「じゃあ、あの逆転満塁ホームランは」

「アイツのプロ初ホームランだ」

 控えめに笑顔を浮かべながら、寺本選手は言った。

「もしかして、それが引退の理由になったとか?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言えるかな」

 少し考えるように間が空いた。

「もう思う通りのパフォーマンスができていないし、あとを任せられる若手が大勢いるのも理由の一つ。だけどやっぱり、やるべきことが終わったのが大きいよ。4月に『ただいまの打席が、契約最後のホームランになります』なんて言われた時には焦ったけれど」

「最後の1本だったって知らなかったんですか?」

「まだ結構あると思ってたんだけど、意外とすぐに無くなっちゃったなぁ。ま、俺が打つはずだったホームランなんてこんなもんでしょ」

「素直じゃないですねえ。『ハルのために』なんて言ってたのは誰ですか」

「さぁてね。そんなシケたこと言ってる奴は引退するんじゃないか」

 少し寂しげに、寺本選手はニッと笑った。

「でも、スピーチをやろうと決断するに至ったのは、やはり罪悪感からですか?」

「罪悪感ねぇ。ホームランを打たせるという行為に対してなら、罪の意識なんて無いね。能力は怪我の代償なんだから、使って文句を言われる筋合いはない。ただし、能力を使ったことでアイツの成長を遅らせてしまったのなら、悪いことをしたのかなとは思うよ」

「えっと、『成長が遅れる』というのは、なまじ結果が出てしまうから練習で手を抜いていたかもしれないということですか?」

「んー、それもあるのかもしれないけど、俺はそこまでアイツが馬鹿だとは思えないんだよ。むしろホームランを打つ感覚を鈍らせてしまったんじゃないかって思ってる。だって場合によって打てたり打てなかったりしたら、自分のバッティングが信じられなくなるでしょ、普通。本人の感覚は分からないから、あくまで想像だけど」

 確かに、寺本選手の言わんとすることは分からないでもない。記者で例えるなら、片手間でなんともなしに書いた記事が絶賛されてしまうようなものだ。もしそうなったら、誰だって自分の文章力を疑いたくなるだろう。

「その時の感覚を本人に聞いてみたらいいじゃないですか。別に怪しまれるようなことでもないでしょうに」

 そう尋ねると、寺本選手は苦笑いしながら顔を横に振った。

「いやいや。俺、アイツと話すの苦手なんだ。いつも事務的な会話をするくらいで、雑談もしたことないな。俺はあまり話が上手くないし、それにアイツにどんな顔していいか分からないってのもある」

 そこで彼は、食堂の時計へ目を遣った。

「そろそろ時間なんだけど、記事は書けそう? 今の話をそのまま書いてもらっても構わないんだけど」

「いや、さすがにそれは編集長に怒鳴られるでしょう。上手い具合に切り貼りしてストーリーを作ってみますよ」

「そっか。ありがとう。んじゃ、またよろしく」

 そう言い残して、彼は食堂を去っていった。いつの間にか人気の無くなっていた食堂に、私は1人取り残された。今一度背筋を伸ばしてから、周りの音を吸い取るかのように録音しているボイスレコーダーを2つとも止めた。それをノートやペンと共に鞄へしまう。鞄をテーブルの上に置く音が、ノートの紙が擦れる音が、ガランとした食堂全体に響いた。


 やはり私は記者として未熟だ。

 彼の口から話をするのが苦手だという告白がなされたのは、私にとって意外だった。今まで散々取材してきたが、寺本選手が弱音を吐いたのは見たことがない。いつもは寡黙だが、いざ口を開けば持論を淡々と述べるのが寺本選手のスタイルだった。そんな寺本選手に取材をしているうちに、私は寺本選手は芯が強い人なのだと勝手に思い込んでしまった。だが現実は違った。

 きっと引退を決めたことで、彼は緊張から解放されたのだろう。これまで彼は、ファンからも、チームメイトからも、首脳陣からも、「弱い部分を見せることのない職人気質の人物」という役割を期待されてきた。彼はプロ野球選手として生き残るために全力でその役割を果たし、「寺本選手」という偶像を守ってきたのだろう。臆病な自分を隠して。悪魔からもらった能力があることも隠して。

 彼が引退した暁には、その名前の後ろから「選手」という言葉が外される。果たしてその時の私は、「寺本氏」という言葉を使えるのだろうか。

 重たい脚を引き摺るようにして、私は食堂を後にした。

※本作品はフィクションであり、実在する人物などとは一切関係ありません。

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