ホームランの言動力
今年のペナントレースは、静かに終わりを迎えようとしていた。例年であれば、クライマックスシリーズへの出場を賭けた3位争いや、上位チームのアドバンテージを狙った順位争いが繰り広げられる時期である。しかし両リーグともほぼ順位は確定しており、変わる可能性もほとんど無かった。どの球団も10試合程度は消化試合になりそうだった。
この偶発的な話題不足に直面した多くのスポーツニュースがこぞって取り上げたのは、春川選手が三冠王を獲得するか否かであった。本塁打と打点は2位と大きく差をつけていたが、打率については熾烈な争いが続いていた。ランキングは1位から3位が毎日のように変動するデッドヒート。シーズン4位が決まりつつあるチーム状況の中で、春川選手の三冠王獲得はファンにとって唯一の希望となった。
首位打者争いは最終戦にまでもつれこんだ。この時点で春川選手は2位につけていた。幸い相手球団は早々にシーズン最下位を決めていたこともあり、「春川君とは正々堂々勝負したうえで勝ちたい」と相手監督はコメントしていた。これがライバルの所属する球団なら、全打席敬遠となっていたことだろう。
その結果は、2本塁打を含む6打数6安打の大暴れ。5安打目で春川選手は暫定1位となった。一方、暫定2位となったライバルは代打で出場したものの、ライトフライに倒れた。これにより弱冠25歳の三冠王が誕生した。
三冠王を手中に収めた春川選手が一人ヒーローインタビューに答えているのを、私はバックネット裏の記者席から眺めていた。インタビュアーは第3打席の体勢を崩しながらのホームランについて質問をしている。だが私が聞きたい場面は違う。第6打席の一二塁間を破るライト前ヒット。それが今の私の最大の関心事であった。
その理由は単純である。前日の試合で寺本選手が9回裏に打ったヒットと同じような弾道だったからだ。それがただのヒットだったなら私も気に留めないだろう。しかしそれが寺本選手の現役最後のヒットであるということに、私は引っかかっていた。もしも春川選手が寺本選手と同じようなヒットを打とうとしていたのなら、それは何を意味するのだろうか。
結局、第6打席の話題に触れられることなく、ヒーローインタビューは終わってしまった。
ところが、ひょんなことから私は春川選手と話をする機会を得ることになった。
最終戦は関東近郊の球場でのデーゲームだったから、私は電車で帰宅することにしていた。混雑は避けたつもりだったが、駅のホームにはユニフォームを着たファンがまだ多く残っていた。空いている列に並んで電車を待ちながら、ついでに社に寄り道して今日で確定した成績一覧を印刷しようか、なんてことを考えていた。
しかしそれが視界に入った瞬間、考えていた予定は全て吹き飛んでしまった。隣の待機列に並んでいる長身の男をよく見れば、春川選手ではないか。しかも顔を眼鏡とマスクで覆った上、スーツを着込んでいる。その変装は案外型にはまっていて、まるで体育会系のサラリーマンのようだった。
私の知る限り、この球場で試合がある時、春川選手は車で通勤しているはずだった。若手は電車を使うことになっていて、春川選手も三年前までは電車通勤だった。だが春川選手は早々に活躍したこともあり、車通勤が許可されていた。わざわざ電車を使うのは、何か特別な事情でもあるのだろうか。
春川選手が、驚いて凝視している私に気付くのにそう時間はかからなかった。互いに会釈したところで電車が到着して別々に乗り込んだが、自然と隣同士に座った。
何気なく、さっき思い浮かんだ疑問を尋ねてみる。
「どうして今日は電車なんですか? いつも車なのに」
すると春川選手は、堰を切ったように語り始めた。
「しばらくは、この光景が見れそうにないっすからね。たくさんのファンとなら球場で会えますけど、ファンと同じ目線になれるのはこういう所しかないじゃないっすか。実は電車通勤していた頃に、僕が隣にいると知らずに僕の三振を愚痴られてたことがあったんすよ。その時はこんにゃろうと思いましたけど、今はそれもいい思い出っす」
三冠王を獲った今だからこそ、かつての苦い経験を思い返したくなったのだろうか。春川選手も天才と呼ばれてはいるが、その裏にはきっと凡人の想像を遥かに超えた後悔と努力があるに違いない。
ちょっとした沈黙を挟んで、彼は言った。
「ところで、鈴木さんは知らないっすよね、野球の悪魔って」
不意を突かれた私は、「君もか」と呟きそうになるのをこらえながら答えた。
「いや、知ってるよ。誰から聞いたかは言えないけど」
「ホントっすか~? じゃあ僕が野球の悪魔と契約しているとしたら、何をお願いしていると思います?」
即座に寺本選手のことが頭をよぎった。あまり踏み込んだことは言わない方が無難だろうか。
「春川選手ならヒットじゃないですか? 首位打者獲りましたし」
それを聞いた春川選手はどこか神妙な面持ちになったように見えたが、マスクでよく分からない。
「ふ~ん、ホームランと打点の方は、2位とだいぶ差があるのに?」
「それもそうでした。最近、首位打者の記事しか見てなかったせいですかね」
なんとか笑って誤魔化した。
「ヒットって言ったのは鈴木さんが初めてっすよ。大抵ホームランか打点絡みのことを言われるんですけどね。でも本当はヒットでもホームランでもないんですよ」
どうやら私は、思わぬところで三冠王の秘密に触れようとしているらしい。声が震えるのを抑えながら、私は尋ねた。
「へぇ、何なんです?」
「あるバッターの選手寿命を延ばすこと」
この時ほどボイスレコーダーが使えないのを後悔したことはない。一方で、ボイスレコーダーを使おうとしたらそれ以上の話が聞けないだろうということも理解していた。私は一言一句逃すまいと、春川選手の声に集中した。
「僕が小学生だった頃、憧れていた野球選手がいました。同じ県内の強豪校でヤバイくらいホームランを打ってたんです。僕は影響されやすい子供だったんで、あんなホームラン打ってみてぇと。それで少年野球に入りました。
そんなある週末、夕方に僕が少年野球から帰ってくると、母が眉間にシワを寄せながら電話で話をしていました。会話内容から察するに、相手は父でした。父はトラックの運転手だったんですけど、どうやら事故を起こしてしまったみたいでした。
電話が終わった母は、悲壮感にあふれた表情で僕に聞いてきたんです。
『ねぇ、あのプロ野球に入る高校生って、寺本君だったっけ?』
それを聞いた瞬間、ビックリっすよね。しかも下半身不随になるかもしれないとか、もう一人は意識が無いみたいだとか、そんなことを動揺した母から立て続けに聞かされました。
だから僕は、野球の悪魔に頼んだんです。僕の野球人生なら幾らでもくれてやるから、寺本選手の怪我を治してくれってね」
春川選手の話は、正直に言って驚きの連続だった。だが意外と冷静にそれを受け止めることができた。すでに寺本選手から変な話を聞いていたからだろうか。
「でも、どうやって野球の悪魔に頼んだんですか? まだ小学生だったんですよね?」
「簡単っすよ。メール送るだけでしたから」
「メール!?」
「ネットの掲示板に書いてあったんすよ。これが野球の悪魔の連絡先だって。それしか手がかりがなかったんでダメ元で送ってみたんです。そしたら『承りました』って返信が来て。『ただし依頼者様がこれから野球で結果を出し続けることが条件になります。それができなければ契約は解除されます』とも書かれてました」
悪魔もIT化の波には逆らえなかったということか。いや、そんなことに驚いている場合ではない。
春川選手の話を信じるなら、寺本選手が人違いで事故に遭ったという話は、きっと悪魔の方便だったのだろう。
つまりはこういうことである。「ある人から契約された」と聞かされても、寺本選手が受け取るとは思えない。でも怪我の補償ということにすれば、寺本選手も受け入れるはず。その補償であるホームランを打たせる能力は、対象を春川選手にすることでキャッシュバックすればよい。悪魔のセールスマンがそう考えたとしても不思議はないだろう。
「要するに僕が活躍しなければ、寺本さんが引退しちゃうってことっすからね。こうなったらもうやるしかないぞと思って、それからはがむしゃらに頑張りました。そのおかげなのか、高校までは順調な野球人生を送ることができました」
「高校”まで”は?」
「えぇ。高校3年の夏の大会が終わった頃から、腰がひどく痛むようになったんです。新人合同自主トレではなんとか隠し通せたんですが、卒業式で一旦地元に帰った時に親に気付かれてしまって。無理やり連れて行かれた医者で、『ヘルニアだね』と言われました。それからは痛み止めの注射を打ってるんです」
ずっと番記者をしているが、その話は初耳だった。
「そのことは球団にも伝えてるんですよね?」
「もちろん内緒ですよ。決まってるじゃないっすか。キャンプでは散々な結果になってしまいましたけど、なんとかバレずに済みました」
苦笑いしながら、春川選手は頭を掻いた。
確かに入団当初の春川選手は不振を極めていた。だがその後、寺本選手の能力によって春川選手はホームランを打つようになった。そのことを本人はどの程度まで自覚しているのか、私は気になった。
「でもオープン戦くらいからはホームラン打ってましたよね?」
「そうなんすよね。ただし、”打ってた”んじゃなくって、どちらかと言えば”打ててしまっていた”んすよ。なんか変なタイミングで、ボールがピンポン球みたいに飛んでいく感じっすかね。結果を出すのが自分の目標だったから嬉しいことではあったんすけど、あれは気持ち悪かったっす」
「今年の序盤は不調もありましたけど、そのことは関係あるんですか?」
「その頃にちょうど腰も悪化してきていたし、当然っちゃ当然だったのかもしれないっすね。でも正直、もう駄目かと思いました。
そしたらミーティングで寺本さんが色々言ってくれたじゃないっすか。それで精神的にだいぶ楽になりましたね。それと同時に腰の痛みも軽くなっていったんです。そのせいなのか、力が良い具合に抜けてバッティングの調子が良くなりました。あれがなかったら、僕は寺本さんより先に引退宣言をしていたかもしれないですね」
染み染みと話す春川選手を見て、私は納得した。寺本選手のあの言葉は、春川選手にとっては何よりも価値のあるものだったのだろう。
「寺本選手は憧れだったんですもんね」
「それもあるっす。でも僕、寺本さんから嫌われてるんじゃないかって、入団した時からずっと思ってたんすよ。あまり会話したことなかったし、それに本来なら寺本さんもホームラン量産してたはずですから、僕は気に入らないだろうなって。
そんな寺本さんがわざわざ僕を庇ってくれるなんて、思ってもみなかったっすね。嫌われてたんじゃなかったって分かっただけでも、頑張ってきて良かったなって思えました」
「それがあのホームランに繋がったということですか?」
「あのホームランは重たかったっすよ。いつも色んな人から応援してもらってましたけど、応援を力に変えてホームランを打つっていうのはこういうことなんだって初めて実感できました。それが分かってからは、ホームランを打てるようになりましたね」
寺本選手の言葉が、春川選手にホームランを打たせた。私はそのことを最初から知っていたはずなのに、なぜか目頭が熱くなるのを感じた。寺本選手が結んだ契約は、春川選手の成長を阻んでなどいなかった。むしろ春川選手のプロ初ホームランを手助けしたと言っていいだろう。
「あれ?鈴木さん。もう降りる駅なんじゃないですか?」
私はハッとして外の風景を確認した。気付けばもう社屋に最寄りの駅に差しかかっている。電車が減速に入った。
このまま乗り続けて、春川選手の話を聞くこともできなくはない。だが、今の私は寺本選手の勇気を見習わねばなるまい。
実のところ、私はこれまで若い選手たちとは距離をとってきた部分があった。多分、長年記者をやってきたプライドが慢心を生んだのだと思う。
以前、春川選手の復活劇を記事にしたことがあった。それを後で見返して気付いたのだが、私は春川選手に直接インタビューをせずに原稿を書いてしまっていた。もちろん内容に間違いはない。事実のみを書いている。だが記者として忘れてはいけないものが、そこには欠けてしまっていた。
すなわち、相手の話を”聴く”ということである。
「話を”聞く”だけでは駄目だ。心で”聴け”」
当時新人だった私がボイスレコーダーを壊してしまった一件の時に、先輩から教わった言葉だ。ホワイトボードに書かれた漢字を指して説教をしている先輩の姿は、今でも鮮明に覚えている。なのに私はその教えを、頭で理解したつもりになっていただけだった。情けない自分に腹が立つ。私はこの歳になるまで何をしてきたのか。歯痒さを拳に込めたくなるのを、私は抑えた。その代わり、行き場を失った歯痒さのエネルギーで、慢心する自分を思いっきりぶん殴った。
なんだか新人に戻ったような気分だった。
「じゃあ私はここで失礼します。貴重なお話、どうもありがとうございました」
続けて、春川選手に尋ねる。
「それと、今度、食堂で食べてる時に横でお話を聞いてもいいですか?」
一瞬驚いたように目を丸くした春川選手は、微笑みを浮かべながら答えた。
「僕は別に構いませんけど、どうせなら他の人にした方がいいっすよ。僕の隣にいても記事になんてならないっすから」
その屈託のない表情を目にした時、私は彼の心の声を聴いた気がした。
駅のホームに降り立ってから、私はあの第6打席に打ったヒットの意味をすっかり尋ねそびれてしまったことを思い出した。だが、それを聴く必要はもう無いだろう。ふぅと息をついてから、私は社へと向かった。
春川選手の現役引退が発表されたのは、翌日の午後のことだった。
※本作品はフィクションであり、実在する人物などとは一切関係ありません。




