夫婦の語らい
「やれやれ、まんまと誑し込みおって」
馬車の中でグレイ伯爵が意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「人聞きの悪いことをおっしゃいますのね。わたくし、そのようなつもりはございませんわ」
むしろ、マリーに誑し込まれたのはこちらのほうだ。
「ふん……ところでそなた、服や手が汚れるのが気にはならんのか?」
「え?……ええ、まあ、それほど」
洗濯するの私じゃないし。
「……はしたないとお思いになられました?」
嫌われても痛くも痒くもないのだが、衣食住を保障してくださるスポンサー様のご意向を一応は伺っておく。
「その程度で思わぬわ。だが、貴族の娘にしては変わった女だと思うてな」
「貴族といっても伯爵家とは違いますもの。鄙びた暮らしにも馴染みがございます」
もちろん、嘘だ。ミレディはりんごの丸かじりなんてしたことがないのはもちろん、かじりつく発想すらないだろう。
この程度のこと適当にごまかしておけば大丈夫……と伯爵家の調査能力を知らないミレディアナは、いたって楽観的なものだった。
「疲れたか?」
久しぶりに屋外を歩き回った心地よい疲労感と馬車の揺れに眠気を誘われながら、夕焼け空をぼんやりと眺めていると、伯爵が穏やかな声で問うてきた。
「少しだけ。でも、今日は本当に楽しかったですわ。……連れてきてくださって、ありがとうございます」
柔らかく微笑んで礼を言う。多分、ふたりとも疲れているせいだろう、皮肉の応酬をすることもなく和やかに会話が続いていた。
「ふむ……あの村はどうじゃった?」
「どう……ですか?ええ、とても良いところのように思いました」
「具体的には?」
ん?なんか始まった?と怪訝に思いながらも、小首を傾げて口を開いた。
「そうですね……マリーのほっぺがぷくぷくとしておりましたし、元気も良くて。きっとごはんをしっかり食べられているのでしょう。小川や茂みもきれいに手入れがされていて荒んだ雰囲気はございませんでした。食料庫に鍵が掛かっていないのには驚きましたが、それだけ治安も良いのでしょうか」
思いつくまま述べていると、伯爵がまじまじとこちらを見ている。
「あの、なにか?」
「いや、思いのほかよく見ておるな。他になにか気付いたことは?」
なにしろ前世では、治安の良くない場所で『お仕事』することもあったからね。周囲の様子をちゃんと見ていないと、生命の危機に直結しかねなかったのだ。
「ええと……マリーと同じくらいの年齢の子供がいないことは、少し気になりましたが……」
ミレディアナの言葉に、伯爵は微かに眉をひそめた。
「数年前、この辺り一帯で疫病が流行ってな。あの村でも年寄りや子供がやられたわ」
「まあ……屋敷の者たちは大丈夫でしたの?」
「ああ。病に罹ったものは幾人かおったがな」
「そうですか……」
どこの世界でも、弱い者から死んでしまうものなんだね。
やるせない気持ちでふたたび窓の外に視線を向け、沈みつつある太陽を見つめていた。
屋敷へ戻ると速やかにお風呂が準備され、汗と埃を流したあとは「お疲れになりましたでしょう」と数人がかりでマッサージまでしてくれる。
気持ちいいけど、いくらなんでも過保護じゃないか?若いんだから一晩寝れば疲れは取れるよ。
数時間後、夕食も食べて肌触りの良いネグリジェに着替えたミレディアナは、広いベッドで身体を伸ばす。あー、気持ちいい。このまま、寝ちゃいそう……と思った時、部屋の扉がノックされた。メイドさんかな?
居住まいを正して「どうぞ」と声をかけると、無遠慮に入ってきたのは寝間着姿の伯爵サマだった。
「まあ、旦那様。どうなさいましたの?」
どうぞお引き取りください、と言いたいのをこらえ、立ち上がってたずねると、わざとらしく目を見開く。
「夫が妻の寝室を訪ねるのに理由がいるか?」
ぐうの音も出ない正論だが、昨夜は来なかったものだから、もう気が済んだのかと思っていた。
「とんでもございませんわ。――お酒を用意させましょうか?」
ツブすか……と思いながら提案したが、伯爵はニヤリと笑って首を振り、我が物顔でベッドに座る。
「ほれ、座れ」
自分の隣をポンポンと叩いて促されたので、渋々、微妙に隙間を開けて腰掛ける。
「つれないのう。儂はそなたの、大切で大好きな旦那様ではなかったのか?」
「子供への戯言でございますわ。旦那様ったら」
ツンとした態度で返すと伯爵は肩をすくめた。
「戯言であったか。それは残念じゃ。――ところでの」
あ、なんか嫌な予感。
「夕刻からなぜか脇腹の辺りが痛んでな。痣でもできておらんか見てはくれぬか」
……痣になるほどつねってないもん。
大袈裟に騒いで医者でも呼んでやろうかと考えたが、最終的に恥をかくのは自分になるような気がして思いとどまった。
「はいはい。確認させていただきます」
勝ち誇った表情を浮かべる伯爵をひと睨みして、ミレディアナはガウンの紐に手をかけた。
◇◆◇
「どうした。今日は淑やかだったではないか」
共寝する伯爵のからかうような口調に、ミレディアナはぷいと顔を背けた。
「なんのことでございましょう?嫁いで来た日のことでしたら、わたくしよく覚えておりませんの。殿方とこのようなことをいたした経験はございませんでしたので、怖くて、記憶もおぼろげで……」
どんなに不自然だろうとあの夜のことはなかったことにする、と心に決めたミレディアナは徹底的にとぼけ通す。
ミレディアナの美しい髪をもてあそびながら、伯爵は「ほおぉ」とまったく信じていない様子で相づちを打つが、嘘もつき通せばいつか真実になるだろう。……多分。
とはいえ、あまり消極的に振る舞ってまた愚弄されるのも腹立たしいので、ある程度のことはいたしましたよ。ええ、ある程度は。事後のご機嫌はよろしいようなので、その辺りの加減はそれなりに上手くいったと思われる。
色々と気を張ったから、というわけではないが、いい加減、眠気を覚えたミレディアナがあくびをすると、小さく笑った伯爵が灯りを消した。
「おやすみ、ミレディアナ」
自分の部屋で寝てくれよ、と思わないでもなかったが、この男がむやみに傷つけてくるようなことはない、とその程度には信じることができたので、まあ、別にいい。半ば夢の世界へと旅立ちながら楽な姿勢を求めて寝返りを打つと、伯爵の胸に顔を埋めるような格好になってしまった。ああ、もう、眠いし、まあ、いいや……
「おやすみなさい……旦那さま……」




