伯爵夫人の建もの探訪
翌早朝、起き出したグレイ伯爵の身動きでミレディアナは目を覚ました。
(さすがお年寄り。早起きね~)
寝たふりをしながら耳を澄ます。昨夜はマズイことをした、という自覚はあるのでひとまず様子をうかがいたい。加えて激痛は治まったとはいえまだ下腹部はどんよりと痛み、さらに全身くまなくダルい。この状態でまた問い詰められるのは正直、避けたかったので、問題の先送りとは知りつつも狸寝入りを全力で遂行する。
とはいえ相手は傲慢な老伯爵、お構いなしに叩き起こされるかとも思ったのだが、しばらく無言で見下ろしてくる気配がしたあと、静かにベッドを抜け出すと、寝具を軽く整えてそのまま部屋を出ていった。寝たふりをしているミレディアナの身体に布団を掛け直す手つきは思いのほか丁寧で、意外な心遣いに驚きながらもぬくぬくとしたお布団の誘いには抗えず、あっという間に二度寝の快楽へと堕ちていったのだった。
「あーーー……よく寝たー……」
ベッドに身体を起こしたミレディアナは、カーテンの隙間から漏れる太陽の光を見ながら呟いた。思ったよりしっかりと寝直してしまったようで、伯爵が部屋を出てからおそらく三時間くらいは経っている。
座ったまま腕や脚を曲げ伸ばしたり、腰を捻ったりして確認すると、全体的に軽い筋肉痛のような状態ではあるものの動くのに支障はなさそうだ。
実家では決まった時間にメアリが起こしに来てくれて、身支度にも手を貸してくれていたのだが、さて、どうしたものかと思っていると、部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
反射的に返事をすると、一人の女性が入ってくる。
「お目覚めでしょうか?奥様」
あまりのタイミングの良さに、え、この人ずっと部屋の外にいたの?いったいいつから?と軽くゾッとした気持ちになるが、それは一旦、頭の外に追いやった。
(えーっと、確かこの人は……)
なにせ使用人の数が多いので、名前も顔も覚え切れてはいないのだが、某名作アニメに出てくる『ロッテンマイヤーさん』とお呼びしたくなる外見のこの女性は確か……
「家政婦長の……」
「メイヤーでございます」
……ややこしいな。うっかりマイヤーさんって呼んでしまわないように気を付けないと。
「ええ、メイヤー夫人。――ごめんなさい、すっかり寝坊してしまいました」
名前を忘れていたことはおくびにも出さず、恥ずかしそうな口調で言う。
「いえ。旦那様も、目が覚めるまで寝かせてやれ、と仰せでしたので、お起こしいたしませんでした」
「まあ、お優しい旦那様」
心にもないセリフをにっこりと微笑んで言うミレディアナにもメイヤーの表情は揺るがない。さすがは女性使用人の長。
「奥様、朝食のご準備をいたしましょうか。それとも先にご入浴なさいますか?」
朝ごはんで!と叫びかけたが、よく考えると身体は汗やらナニやらで気持ちが悪い。というか、今さらながら自分が裸の上半身を晒しているということに気付き、遅ればせながらそっと布団を引き上げた。「では、お風呂に入ってから、朝食をいただきます」と優雅に微笑んだミレディアナに、熟練の家政婦長は慇懃に頭を下げた。
昨夜より人数は減ったものの、数人のメイドに入浴の世話をしてもらい極楽気分を味わったミレディアナは、ふんだんにレースのあしらわれた高そうなガウンを着て、部屋の窓辺に置かれたテーブルで優雅にブランチを食べていた。
(うんまぁぁぁぁぁ!)
昨日、お菓子や軽食を食べさせてもらった時にも感じていたのだが、ここのコックさん、実家のコックとはレベルが違う。
トーストにバターと果実感たっぷりのジャム。野菜サラダにスクランブルエッグ、スープに果物、あとなんかよく分からないけど肉料理。飲み物は、香りの良い紅茶に搾りたてのジュースに新鮮なミルク!
朝食としては豪華すぎる内容のメニューは、前世ではおろか実家でもお目にかかったことのない内容で味も極上。こんなごはんを毎日食べさせてもらえるなら、嫌味なエロジジイだろうがなんだろうが大抵のことはガマンできる……としみじみ思いながら、できるだけ上品な手つきで美味しいごはんをパクついているミレディアナに向かって、メイヤーが口を開く。
「お食事のあとはいかがなさいますか?」
あ、自由に行動していいの?――と思っていると、ふと、あることに気がついた。
「旦那様は?朝のご挨拶もできていませんけれど、どちらにおいでなのかしら」
今の今まで忘れていたし別に会いたくはないけれど、美味しいごはんのためならば多少は媚びてやってもいい……と考えながらたずねると、メイヤーは仮面のような表情で答える。
「旦那様は――お出かけになりました。お帰りは数日後になるかと」
(オンナだな)
必要以上に淡々とした口調にピンときたが、まあ、どうでもいい。というより、顔を合わさなくて済むならむしろ、ありがたい。
「奥様には、邸内で自由に過ごされるように、とのことでございます」
はーい、了解。
「旦那さまはお忙しくていらっしゃるのね。では、屋敷の中を案内してもらってもいいかしら?」
微笑むミレディアナに、メイヤーは「かしこまりました」と頷いた。
自分の家を見学するだけなのに大げさな、とは思ったが、食事のあとはメイドたちの手によってドレスに着替えさせられ、髪も綺麗に整えられた。化粧もされそうになったのだが、このままでは始まる前に日が暮れる……と危惧して断ると、メイドたちはミレディアナ顔をじっと見たあと、納得したように頷いて化粧道具をしまってくれた。
「改めてご挨拶申し上げます。当家の執事を務めております、ヴィンセントと申します」
「ええ、よろしくお願いいたします、ヴィンセント。手間をかけますが、案内を頼みますわね」
厳格そうな家政婦長に続いては、イケメン執事の登場だ。年の頃は三十代……いや、もしかすると二十代後半かもしれない。実家には執事などという上等なものはいなかったのでよく分からないが、伯爵家の執事としてはかなり若いのではないのだろうか。さらりとした黒髪に、ちょっと冷たい感じのする美貌の執事にはぜひいつか『私はあくまで執事ですから』というセリフを言ってみてもらいたい。そんなことを考えながら、ヴィンセントに連れられてお屋敷ツアーへ繰り出した。
昨日、使用人一同が並んでお出迎えしてくれた玄関ホールからスタートしたツアーは、来客とのディナーやパーティー会場として使われる豪華な広間、家族の食事の場である広い食堂へと続き、食後のくつろぎ空間であるという煌びやかな応接室を眺めてから、再びホールを通って二階につながる大階段へと向かう。途中、カーテンで隠された目立たない場所に下りの階段が見えたので質問すると「地下には食料庫や使用人の居室がございます。奥様には関わりのない場所ですので、お気になさらずとも結構です」とそっけなく返された。
(愛想ないなぁ。別にいいけど)
嫌われるようなことをするほど関わってもいないけど、と内心で首を傾げるが、まあ、仕方がない。嫌がらせなどをしてくるわけでないのなら良しとしよう。
大階段を上ると、廊下が左右に伸びている。左に進めば、先ほどまでミレディアナが過ごしていた、風呂・トイレ完備、寝室・リビング・書斎付きの豪華スイートルームがある。
ちなみに、こちらの世界のトイレはまさかの『おまる』だ。実家でそれに気付いた時には衝撃を受け、あの時ばかりは本気で日本に帰りたくなった。とはいえ、おまる本体を木箱のようなものに入れて使うので、一見すると馴染みのある洋式トイレのようなものだし、細かい作りは知らないものの、藁を敷いたり、おが屑を掛けたりと工夫がされているようで、悪臭や不衛生さはそれほど感じない。最大の問題点は、自分の排泄物をメイドに片付けられるという、その申し訳なさと羞恥心。大金持ちの伯爵家ならもしかして水洗トイレがあるんじゃないかとちょっと期待していたのだが、あったのはとっても豪華なおまるだった。
ついでに、お風呂は『半』オート。壁から金属製の配管が伸びていて、給湯のシステムはあるのだが、排水の穴は見当たらない。これ、きっと手作業で捨ててるんだよね……。メイドの皆さん、お疲れ様です。
「左側は伯爵様ご一家の居室です。右側はお客様が宿泊なさる際のお部屋となっております」
(『ご一家』って……私を入れても二人でしょ?)
どれだけ部屋を余らせているのか。いっそホテル経営でもすればいいのに……と思ったが、口にはしなかった。伯爵の部屋があるのなら忍び込んで弱みの一つでも握っておきたいところだが、案内人の執事が許可してくれるはずもないのでもちろんそれも口には出さず、客室エリアを見るために右方向へと進んでいった。
「こちらはロング・ギャラリーです。代々の領主様やご家族の肖像画などが飾られております」
「……こ」
「こ?」
「……こ……これは、素晴らしい作品の数々ですわね」
――嘘です。本当は「こわっ!」と言いそうになりました。短距離走ができそうな長い廊下にずらりと飾られた老若男女の肖像画。鈍く光る銀の甲冑や石膏像の群れ。夜中にここを一人で歩けと言われたら、絶対に泣く。これがあるのが自室の側じゃなくて本当によかった。
「――こちらの方は、もしかして」
配置からして一番新しそうな肖像画の前で立ち止まったミレディアナは、ちらりとヴィンセントに目を向ける。
「旦那様の亡くなられた奥様でございます。……もっとも私はお目にかかったことはございませんが」
はいはい、質問はするなってことね。
際立った個性はないが、上品な顔立ちの綺麗な女性だ。
(あなたが伯爵のことを愛していたかは存じませんが、私は一切愛してませんし愛される予定もありません。衣食住のために嫁いできただけですので、どうか祟ったり化けて出たりはしないでください!)
心の中でそう唱えながら、肖像画に向かって念入りに手を合わせておいた。
「まあ!ここは図書室?わたくしも使うことができるのかしら?」
長い廊下を通り抜け、またもや延々と続く客室の扉の前を通過すると、行き止まりにようやく興味を持てそうな場所が現れた。部屋の四方を囲むように置かれた本棚にはぎっしりと本が並び、部屋の中央には読書をするための机やソファが置かれている。重厚な雰囲気を出すためか家具は他の部屋に比べるとシンプルなデザインで、ソファの座り心地も良さそうだった。
「さようでございます。――奥様は、読書がお好きでいらっしゃるのですか?」
「え、ええ、好きですわ!けれどわたくしの実家にはこのように立派な図書室はありませんでしたので、それほど多くの本を読んだことはないのですが」
実際には『ミレディ』は読書が好きというわけではなく、これまでの人生で読んだ本の数も両手の指で数えられる程度だった。『私』は、冷暖房費や電気代の節約のために図書館にお世話になっていたため、読書家と名乗るのもおこがましい。だが、ネットもテレビもないこの世界で暇を潰せる手段はさほどなく、刺繍や楽器演奏に比べれば読書のほうがまだ興味をもてるだろうという思いと、くつろげそうなソファに惹かれて、読書好きということにしておいた。まあ、どう見ても漫画や雑誌はなさそうだし、あの怖い廊下を通らないといけないのが難点だけど。
とはいえ、当面の居場所を確保できたミレディアナは、ご機嫌で図書室をあとにした。
「屋敷内の主な場所は案内させていただきました。これ以外にも調理場や洗濯室、屋根裏などがございますが、奥様が立ち入られる場所ではございませんので」
ロング・ギャラリーを戻りながら、ヴィンセントが慇懃無礼な口調で言う。なんだろう、この執事の態度からちょいちょい垣間見える『余計な口出しすんなよ』感は。ちょっとぐらい見学させてくれたっていいじゃないか、と思いはしたが、初っ端からトラブルを起こすほどのことでもないので、おとなしく引き下がる。今日あんたが入れてくれなかった場所いつか全部見てやるからな、とひっそり心に刻み込みつつ、大階段の上で立ち止まったヴィンセントを見て足を止めた。
「屋外には庭園や厩舎などもございますが、ご覧になりますか?」
窓の外に目を向けるとまだ夕方までには時間がありそうだったのだが、ちょっとした商業施設並みにだだっ広いお屋敷の中をドレス姿で歩き回って疲れたので、今日はここまでにすることとした。
「そちらはまた見せていただくわ。お忙しいなかありがとう」
可憐な微笑みを浮かべつつ丁寧にお辞儀をして謝意を述べる。どうやら嫌われているらしい相手に愛想よくする必要もないのだが、前職が『サービス業』だったせいか、つい無駄に愛嬌を振りまいてしまう。
「では、お部屋へお茶をお持ちするよう伝えてまいります。…………奥様」
「はい?」
「伯爵家の女主人ともあろう方が、使用人に頭を下げるのはおやめください」
ど・う・も・す・み・ま・せ・ん・で・し・た!
「……気をつけますわ」
平坦な声で答えながら、ミレディアナは心の中で中指を立てた。




