スー・ラ・ローズ(二)
お代わりをしたお茶も尽きたころ、半ば空気と化していたグレイ伯爵が口を開いた。
「夜も更けた。そろそろ帰るとしよう」
その声にマリアンヌが腰を上げる。
「それでは、お見送りを」
「お見送りを」
便乗して立ち上がったミレディアナを伯爵が半眼で睨む。
「誰が誰を見送る気だ?」
ミレディアナはプイとそっぽを向いた。
「嫌です。わたくしはまだアンヌ様とお話をしたいのです。明日の朝、馬車を呼んで帰りますから、旦那様はどうぞお先にお戻りください」
梃子でも動かない構えのミレディアナに、ハアッとため息をついた伯爵は、「わかったわかった!」と投げやりに言い、立ち上がった。
「アンヌ、上の部屋は使えるな?儂は先に休むゆえ、そやつの相手をしてやってくれ」
案内は不要だと奥に向かう伯爵に、ミレディアナが首を傾げる。
「あら、どなたかお嬢様をお連れにはなりませんの?」
「夫に娼婦をあてがおうとするな!」
怒鳴り声を上げた伯爵に、女たちは同情の視線を向けた。
「ふふ、邪魔者はいなくなりました。ここからは女だけの時間ですわね」
クッションを胸に抱えクスクス笑うミレディアナに、マリアンヌは少し呆れたような笑みを浮かべた。
「伯爵様もそうですが、ミレディアナ様も本気と冗談の境が分かりにくい方ですのね」
「あら、わたくしは冗談など言っておりません。すべて本気の言葉ですわ」
「それはそれで、とんでもないわよ?」
女の一人が投げた言葉にコロコロ笑ったミレディアナは、天井を見上げて目を見開いた。
「まあ、美しい!薔薇の天井!」
ドームのように丸くなった天井には、中央のシャンデリアを中心として緑の蔓と薔薇の花が描かれている。よく見るとシャンデリアにも薔薇の意匠があしらわれていた。
「お店の名前がスー・ラ・ローズ……『薔薇の下』。それで薔薇の天井ですの?」
マリアンヌの肩にもたれるようにして天井を見上げるミレディアナに、娼館の女主人は意味ありげな微笑を浮かべる。
「ええ。薔薇は『秘密』……。この部屋で、ひいてはこの建物の中で話された言葉はこの場限り。決して外へ漏らすことはいたしません」
(さすがは伯爵御用達の高級娼館。高貴な方やお金持ちの秘め事も醜聞も引き受けて、表には出さないということね)
客商売は秘密厳守が鉄則とはいえ、質の悪い店ならば、すくった水が掌から零れるようにちょろちょろと秘密は漏れてゆく。その点、マリアンヌが女主人を務めるスー・ラ・ローズは信頼の置ける店なのだろう。安っぽさの一切ない、豪奢であるが華美ではない、心が華やぎかつ寛げる調度類に目を向けながらミレディアナは内心で頷いた。この部屋を見るだけでも、上質な客がそろっていることがよく分かる。
「それにしても、静かですわね。今日は他のお客様はいらっしゃいませんの?」
建物の造りが良いにしても、他の人の気配すら感じない。
「ええ。伯爵様がお見えになる際は、いつも貸し切りにしてくださいます」
うわ!お大尽!一晩でいくらかかるんだ?
「まあ、豪勢ですこと。――でも、お姉様たちもゆっくりと過ごすことができますから、良いことですわね」
室内を見ると、仲の良い者同士でお菓子を摘まみながらおしゃべりをしたり、のんびり雑誌を眺めたりといったふうにゆったりとした時間が流れている。いつの間にか長椅子で眠ってしまっている者もおり、伯爵がいつも女の子たちに好きなようにさせてやっているのだろうということが分かった。
「ミレディアナ様は……私どもの仕事への理解が非常にございますのね」
自分より年上の娼婦たちに温かいまなざし向けるミレディアナに、マリアンヌは不思議そうな顔をする。その言葉に小さく笑みを浮かべたミレディアナは黙ってマリアンヌを見つめると、「なにしろグレイ伯爵の妻でございますから」と冗談めかして答え、楽しそうに笑い声を上げた。
◇◆◇
「やっと来たか。朝まで下で過ごすつもりかと思ったぞ」
「起こしてしまいました?申し訳ございません」
とっくに日付も変わった深夜、ひっそりと囁くようにグレイ伯爵夫妻は言葉を交わした。
三、四人は寝られそうな大きな寝台に潜り込んだミレディアナは、伯爵の側に身を横たえた。
「ご機嫌だな」
胸元で忍び笑うミレディアナの髪を撫でた伯爵が眠そうな声で言う。
「ええ、とっても楽しかったですわ。こちらへ来られただけでも、王都へ来た甲斐がございます」
「王宮よりも娼館が良いのか。おかしな女だ」
「旦那様がおっしゃいますか?」
ひそひそと話していた二人はやがて言葉を途切れさせた……が、ミレディアナは顔をしかめて身じろぎをした。
「少々、失礼いたします。コルセットだけ外してまいりますわ」
「外してやろう。……おかしな顔をするな。外すだけでなにもせぬわ」
「いえ……その、拒むつもりはないのですが、やはりアンヌ様に申し訳なく……」
妻としての義務と、人としての義理の間で板挟み。どうしたものか。
「まだ言うか……。よいか?あやつとは付き合いが長いゆえに、そうしたこともたまにはあるが、もはや互いに男女の情愛とは別のものだ。先ほども言ったとおりどちらも結婚する気もない。いい加減に納得せんか!」
胡座をかいて滔々と語る夫を、未だ釈然としない表情で見やるミレディアナだったが、伯爵が無言でドレスを脱がせ始めるとおとなしく身を任せた。
そういえば、いわゆるお姫様風のドレスってワンピースじゃないんだよね。いつも下着から始まって、ペチコート、コルセット、スカート、上着と、なにがなんだか分からないくらいに重ね着をさせられている。当然、舞踏会で着るような気合いの入ったドレスだと、なおのことわけが分からない。郷に入っては郷に従う意向だが、正直なところ、ファストファッションのお店で買えるスッポリとかぶるだけのワンピースが懐かしい。
特にこのコルセット……ウエストを細く見せ、胸を持ち上げる、いわゆる補正下着だが、これがきっつい。幸いミレディアナは細身なので、それほど締め付けられるわけではないが、それでも着けたままで眠れるものではなかった。
着ている本人ですらややこしい作りのドレスを、伯爵は手際よく脱がせていく。よっ!さすがは遊び人!
コルセットを外してもらうと一気に身体が楽になり、ミレディアナは大きく息を吐いた。
「ほら、これで良いだろう。さっさと休め」
伯爵が、脱がせてくれたドレス一式を寝台の足元にある長椅子に乱雑に置いたのが気になったが、どうせミレディアナにも大した手入れはできないので、見なかったことにする。
「あら?本当になにもなさいませんのね」
呟いたミレディアナを、伯爵はジロリと睨む。
「ふん。娼館で妻を抱くのも悪くはないが、連日の寝不足だろう。今日のところはおとなしく休んでおれ」
「はぁい」
二日連続、下着姿での就寝だが、今日に関しては急なお泊まりなので仕方がない。
ふたたび布団に潜り込み、横になった状態で伯爵の顔をじっと見る。
「……なんだ」
そんな嫌そうな声を出さなくても。まあ、嫌がることを聞くつもりなんだけど。
「どうして、アンヌ様とご結婚なさいませんでしたの?」
平民だろうが娼婦だろうが、気にする伯爵ではないだろうに。
「納得せぬな……。縁がなかった、それだけだ。――ついでに言うなら、一度求婚したが断られた。もう何十年も前の話だ」
伯爵の言葉にミレディアナはキョトンと目を丸くした。次いで一気に笑み崩れると、寝具の中で身を捩る。
「なぁんだ!アンヌ様がお断りになりましたのね!さすがはアンヌ様ですわ!それなら納得いたしました。それでしたらよろしいの」
くふくふ笑うミレディアナに憮然とした表情を向ける伯爵を、肘をついて半身を起こした状態で見下ろしながらミレディアナはニンマリ笑った。
「ふふ、旦那様は振られておしまいになったのね。でしたら仕方がありませんわ。わたくしで我慢なさらなくてはね」
楽しげに言うと、伯爵の額に軽く口づけ、慰めるように背中をトントンと叩く。
「何十年も前だと言うのに……。わけが分からん」
独りごちる伯爵に、ミレディアナはクスクスと笑っていたが、その笑みが唐突に固まった。
「あ、あの……旦那様、『何十年も前』とおっしゃいました?……アンヌ様って、おいくつですの?」
「さて、四十は超えておるはずだが」
う……うそぉぉぉぉぉ!?
年齢を聞くことはしていなかったが、先ほどまでミレディアナはマリアンヌを『若く見える三十代』と見積もっていた。つまり、見た目的には余裕で二十代に見える。
首や手や髪、年齢が出やすいどの部分を思い起こしても、三十歳以上には絶対に見えない。絶対に。
「女として、尊敬せずにはいられませんわ……」
目を見開き呆然と呟くミレディアナに、伯爵はいぶかしげな表情を浮かべていた。




