スー・ラ・ローズ(一)
「――奥方様、お食事はお気に召していただけましたでしょうか?」
グレイ伯爵が懇意にしている高級レストランの支配人が柔らかな口調で問うた。
伯爵と支配人の親しげな会話を、微笑みを浮かべて聞いていたミレディアナはにっこり笑って「ええ」と頷いた。
「お味は申すまでもなく、盛り付けもとても美しくて。それに、食べたことのないお料理や珍しい食材もあってとても楽しかったですわ。牡蠣を生でいただいたのは初めてですが、美味しいものですのね」
嘘ではない。前の世界で食べたことはもちろんあったが、『ミレディアナ』は生の魚介を食べたのは初めてだった。
「初めて……で、いらっしゃったのですか?」
支配人が意外そうに目を見張った。
「ええ。燻製にしたものはいただいたことがございますが、生の貝を食べたことはありませんでしたの」
伯爵に視線を向けると、ワイングラスを片手に頷きを返す。
「領内に海がないからな。どうしても魚は川のものが多くなる。燻製や塩漬けならば海のものも使うだろうが」
「いや……そうでしたか。美味しそうに召し上がっておられたので、てっきり食べ慣れていらっしゃるのかと。初めて召し上がる方――特にご婦人には苦手とされる方も多いもので」
あー、だよね。生魚を食べる習慣のある世界でも、生牡蠣は無理って人も結構いたし。
(私は好きだけど、好みの分かれるものを初めてのお客に出すのってリスキーじゃない?)
そんなミレディアナの疑念に気付いたのだろう、支配人が申し訳なさそうな顔をする。
「奥方様は好き嫌いなくなんでも召し上がると伺いましたもので、ちょうど手に入った新鮮な牡蠣を生でお出ししたのですが。申し訳ございません、もう少しきちんと確認するべきでした」
頭を下げる支配人をミレディアナは慌てて制した。
「美味しくいただけましたので、なんの問題もございませんわ。それに、わたくしがなんでも食べると申し上げたのは旦那様でございましょう?旦那様はいつもこのようにわたくしをからかって楽しんでおられるのです」
ミレディアナは唇を尖らせて伯爵を軽く睨む。
「旦那様、わたくしだって『なんでも』食べられるわけではございませんのよ?そのようなことをおっしゃって、万が一食べられないものを出されましたら、お店の皆様に申し訳がございませんわ。子供じみたいたずら心を出されるのはお控えください」
子供どころか孫のような歳の妻に『子供じみた』行いをたしなめられている伯爵の姿に、支配人は思わず笑みを浮かべた。
「私どもへのお気遣いありがたく存じます。奥方様のように美味しそうに召し上がってくださいますと、料理人たちも作り甲斐があると大変に喜んでおります。――ぜひ、またお越しくださいませ」
その言葉がお世辞ではない証拠のように、店を出る際には店員が勢ぞろいして見送ってくれた。「見習いの小僧まで出てくるのは初めて見たわ」と伯爵が呟いていたので、どうやら異例のことらしい。
「わたくし、それほど人並外れて美味しそうに食べておりますでしょうか?」
馬車に乗り込んだミレディアナは、微妙な表情で伯爵に問う。一応、誉められてはいるんだろうけど……屋敷の料理人たちだけでなく、レストランの人たちまでもがわざわざ覗き見するレベルだと、さすがにちょっと恥ずかしい。
「見惚れるほどにな。美味そうなだけでなく、これ以上の幸福はないような顔をしておるぞ」
そこまでですか!?……これはきっと、前世での死因が栄養失調による衰弱死だったせいだよね。ミレディアナはそう結論づけ、この件についてはもう諦めることにした。
「それにしても素敵なお店でしたわね。さすがは旦那様ですわ」
お見送りの恥ずかしさはともかくとして、料理も店の雰囲気も素晴らしかった。
満足の笑みを浮かべるミレディアナに、伯爵はニヤリとする。
「昨夜の疲れが残っておらぬようならば、もう一つとっておきの場所へ連れて行ってやろう」
あら、おしゃれなバーかなにかかな?お酒は好きじゃないけれど、伯爵が『とっておき』というくらいなんだから、素敵なカクテルや美味しいスイーツなんかがあるお店かも。
「旦那様のとっておきでしたら、ぜひともご一緒させていただきます」
楽しげに言うミレディアナに機嫌よく頷いた伯爵は、「マーロウ通りへやれ」と御者に行き先を告げた。
◇◆◇
そうして案内されたのは、超穴場の、知る人ぞ知る、通好みの――娼館だった。
うおぉぉぉぉぉい!!伯爵ーーーーー!?
あんたがどこで遊ぼうと勝手だけど、妻同伴はやめておけ!!
ほら、お店のお姉さんたちも困ってるから!めちゃくちゃ気まずーーーーーい!!
ちょっと前まで同じような職業に従事していた身だ。皆さんの困惑は手に取るように理解できる。女主人だという美しい女性も、落ち着いた物腰のなかに戸惑いを滲ませていた。
どう考えても迷惑だろうに、貴族の屋敷と見まがうような立派な応接室に通されて、丁重におもてなしをしてくれている。本当に、本当にすみません……
「だ、旦那様……、なぜこちらへ……?」
「儂の知る、王都で一番良い場所だからな」
それはおまえが遊ぶときに限った話だーーー!なんで私を連れてきたかって聞いてるんだよ!
怒鳴りつけたい気持ちを押さえて額に手を当てるミレディアナを見かねた女主人のマリアンヌが、伯爵をそっとたしなめる。
「伯爵様……、突然このような場所へ連れて来られては、奥方様が戸惑われるのも当然ですわ。お気の毒に」
ありがとう、マリアンヌさん。もっと言ってやってください。
顔を上げて救い主を見たミレディアナは、眉をひそめる美しい女性と、面白そうな表情で彼女と視線を交わす伯爵を目にして唐突に気がついた。
あ、この人。伯爵の愛人だ。
「旦那様…………。わたくし、旦那様を見損ないましたわ……」
顔を俯け、微かに震える声を上げたミレディアナに、室内に居並ぶ娼婦たちの気配が張り詰める。どう考えてもグレイ伯爵の行動が非常識で、伯爵夫人はかわいそうな被害者なのだが、それでも、姉とも母とも慕う女主人のマリアンヌを、泥水を啜るようなこの生業で多少なりともまともな暮らしをさせてくれている恩人を、非難し罵倒するつもりであろう伯爵の妻に対し、女たちの敵愾心が膨らんでいく。気の強い者は、ミレディアナが一言でもマリアンヌを責めようものなら即座に言い返してやるつもりで心の内の牙を剥いていた。
「このような……」
ミレディアナが強い視線をマリアンヌに向け、場に一触即発の空気が流れる。
「このような素敵な女性がありながら、若いだけが取り柄の小娘を妻に娶るなど、なにを考えておられますの!?」
カッと目を見開いて怒声をあげたミレディアナに、女たちは揃ってぽかんと口を開けた。
「ああ、まったく!これほど素晴らしい女性がいらっしゃるというのに、妻だなどと口にして大きな顔をしていたなんて!身も縮むような思いですわ!」
そこでハッとした様子でマリアンヌへ顔を向けると、顔を歪めて駆け寄り、その手を両手で握りしめた。
「申し訳ございません、マリアンヌ様!わたくし、あなた様のような方がいらっしゃるとは存じ上げなかったのでございます!ぽっと出の小娘に正妻面をされ、さぞご不快だったことでしょう。――そうですわ!わたくし今すぐ修道院へ入ります!どうぞマリアンヌ様が妻として屋敷へおいでくださいませ。あ……けれど、それではマリアンヌ様が社交界で悪しざまに言われてしまうかもしれませんわね……。でしたら!わたくしは敷地の隅に離れを用意してもらいそちらへ引っ込んでおりますわ!ですからどうぞ、マリアンヌ様……」
「落ち着け、粗忽者」
呆れ果てた声を上げ、伯爵が手にしたステッキでミレディアナの頭を軽く小突く。
「痛ぁい!なにをなさいますの!?」
怒りと興奮で顔を真っ赤にしたミレディアナが伯爵を睨んだ。
「勝手な思い込みで話を進めるな。アンヌを妻にすることはない」
「旦那様のご意向などどうだってよいのです!マリアンヌ様のお気持ちこそが唯一にして最重要事項ですわ!そもそも、このような素晴らしい女性を妻とすることに不満などあろうはずがございませんでしょう!」
キャンキャンと子犬のように吠えるミレディアナの手を、マリアンヌが横合いからそっと握った。
「お気遣いくださり、ありがとうございます。本当に心映えの優しい方でいらっしゃいますのね。――ですが、伯爵様のおっしゃるとおり、私が伯爵様の妻となることはございませんし、その立場を望んだこともありませんのよ」
「えぇ~?ですけれど、今でもだんなさ……伯爵様とは男女の仲でいらっしゃいますでしょう?」
「おい……すでに離縁した気になっておらんか?」
顔を引きつらせて口を挟む伯爵を、ミレディアナは完全に無視する。
「それは……まあ……。いえ、申し訳ございません。奥方様にはご不快なことでございますね。これからはきっと弁えますので、どうぞお許しくださいませ」
深々と頭を下げるマリアンヌに、ミレディアナは目を瞬いた。
「いえ、それは別にどうでもよいのでこれからもお好きになさっていただければ。あ、でも、もしマリアンヌ様が迷惑に感じておられるようでしたら、どのような手段を講じてでもわたくしが阻止いたしますのでお任せください!」
「なにをする気だ……」
もはや会話を諦めた様子の伯爵は、独り言のように呟いた。
「お気持ちだけありがたく頂戴いたします。ですが本当に結婚など私も伯爵様も考えにないことですので、どうぞ奥方様は伯爵様と睦まじくなさってくださいませ」
むぅ……と納得のいかない表情を浮かべたミレディアナだったが、「ね?」とマリアンヌに微笑まれると、頬を赤らめ「わかりました!」と頷いた。
「やれやれ……。まさか、正妻が愛人に籠絡されるとはな」
ようやく落ち着いて腰を下ろしたミレディアナに、ため息をついた伯爵が言う。
「マリアンヌ様が素晴らしい女性だからですわ。このような方とお付き合いされているなんて、少しは旦那様を見直しましてよ」
「見損なったり、見直したり忙しないことだ。――言ったとおりの面白い女であろう?」
嘆かわしげに首を振った伯爵が、マリアンヌに目を向けていたずらっぽく笑うと、クスっと笑ったマリアンヌが頷いた。
「ほら、やっぱり。どう見ても長年連れ添った仲睦まじい夫婦ではございませんか。――皆様もそのように思われません?」
肩をすくめたミレディアナが室内を見回すと、唖然として立ち尽くしていた娼婦たちがぎこちなく顔を見合わせた。
やがて、ぷっ……と一人が小さく噴き出したのを皮切りに、波のように部屋中に笑い声が広がっていく。にこにこ笑うミレディアナを目にした女たちからは、笑声と共に敵意が抜けていった。
「もう……なにこれ!あー、びっくりした!」
「修羅場は何度も見てきたけど、こんなおかしなのは初めてだわ」
「伯爵様、おもしろい方とご結婚なさったのねぇ!」
一気に緊張感のなくなった応接室で、当のミレディアナは「怒鳴りすぎて喉が渇いてしまいました」と澄ました顔で冷めたお茶を飲んでいる。
「ねぇ、奥様。本当に伯爵様に愛人がいても気にならないの?」
一旦、隔意がなくなればそこは生業が生業である。女たちは一気に馴れ馴れしくミレディアナに話しかけた。
「ええ。もとより旦那様の放蕩の噂は存じておりましたので。それに加えてマリアンヌ様のような素敵な方がお相手でしたら、文句のつけようがございませんわ」
「お母さんのこと、そんなに気に入った?」
「お母さん?」
ミレディアナは首を傾げる。
「ああ、マリアンヌさんよ。私たちは女主人のことをそう呼ぶの」
そうでしたか、と返したミレディアナは、問いかけに深く頷いた。
「それはもう。豊麗な美しさ、耳をくすぐるような柔らかなお声、優雅な身のこなし、相手を慮った完璧な対応、お手の柔らかさやしっとりとした肌の質感まで、女として生まれたからにはかくありたい……!そう思わせられますわ。――特に、わたくしは今、路線変更の必要に迫られておりまして。そういった意味合いでもお手本にしたい素敵な女性には目が向くのですが……でも、駄目ですわね、マリアンヌ様のお振る舞いを真似すると、ますますたくさんの殿方に言い寄られてしまいます」
もちろんわたくしではマリアンヌ様の魅力の足元にも及びませんが、と傲慢なのか謙虚なのか分からないことを言うミレディアナに、周囲は「ふ、ふぅん」と少々引き気味だ。
「奥方様、あまり過分に褒められては恥ずかしくなってしまいます」
お茶のお代わりを注いでくれながら、マリアンヌがおっとりとした口調で言ってくる。
「まあ!過分だなんてとんでもない。むしろ己の貧困な表現力が恨めしいほどでございますのに」
冗談とも思えない口調で言ったミレディアナは、急にもじもじと口ごもった。
「それに……その……、どうか『奥方様』などと呼ばず、名前で呼んでくださいませ」
「おそれいります。それではミレディアナ様と」
「ミレディでもミリィでも、お好きなように!」
もっと距離を詰めて欲しいミレディアナだったが、柔らかな笑みで受け流され、肩を落とす。
「私のことも、よろしければアンヌとお呼びくださいませ」
幼子を見るような慈愛に満ちた表情でマリアンヌが言うと、一転して目を輝かせ「よろこんで!」とはしゃいだ声で答えた。




