グレイ伯爵の憂鬱
「おかえりなさいませ、旦那様!お戻りを一日千秋の思いで待ちかねておりました!」
二週間ぶりとなったグレイ伯爵の帰宅の報を受け、ミレディアナはホールへと駆けつけた。満面の笑みで出迎える妻に、伯爵は薄気味悪そうな表情を浮かべる。
「さて……どういった魂胆じゃ?」
「うふふふふ。この二週間、どこで、どなたと、どのように過ごしておられたのかは一切詮索いたしませんわ。その代わり……この先は旦那様のお時間をどうかわたくしにくださいませね」
一途なセリフと甘えるような口調を裏切る鬼女のような表情に、伯爵の顔が引きつった。そこへ忠実な執事のヴィンセントがやんわりと口を挟む。
「奥様、旦那様はお疲れでいらっしゃいます」
「あ、ああ、そうだな。いささか疲れた」
話の続きは明日にでも……と言いかけた伯爵を遮って執事はしれっと口を開いた。
「続きは旦那様のお部屋にて、お二人でゆっくりどうぞ」
「そうね!わたくしったら、旦那様がお戻りになられた嬉しさのあまり気遣いができておりませんでした。どうぞお許しくださいませ」
腹心と妻の流れるような連携に伯爵は棒を飲んだように立ち尽くしている。
ハハ、ざまあみろ。不在にしていた伯爵の代わりにさんざっぱら勉強と泣き言に付き合わせてきたヴィンセントは、この件に関してはこっちの味方だ。
新妻に腕を取られながら、伯爵はもう一人の腹心である家政婦長に視線を向けたが、こちらもこの二週間のミレディアナの奮闘を間近で目にしてきているため、伯爵の側につくことはない。付け加えると、メイヤーと共に居並ぶメイドたちもミレディアナを応援してくれている。ダイエットに関する悩みと共感は身分の壁を超えるのだ。
「さあさあさあ。早くお部屋にまいりましょう」
にこやかに微笑んで腕を絡める妻に引きずられるようにして、屋敷の主は大階段を上っていった。
◇◆◇
「はぁ……やれやれ、いったい何だというのだ?」
自室へ戻った伯爵はミレディアナから逃れるように、「ひとまず風呂に入らせてくれ」と言い残し浴室へ姿を消した。
その妻が酒の支度をしているであろう居間の方をうそ寒い心地で見やった伯爵は、脱いだ衣服を片付けている中年のメイドに問いかけた。
「さあ?私には分かりかねます」
クスクスと笑いながら首を傾げるメイドは、明らかになにかを知っている。
「まったく……うかつに屋敷を空けておると乗っ取られかねんな」
湯に浸かりながら嘆かわしげに首を振る。
「お湯加減はいかがでございますか?」
「これでよい。……っ!ミレディアナ!?」
あらかじめ示し合わせていたのだろう、笑いをこらえて浴室から立ち去ろうとするメイドに親しげに笑いかけたミレディアナは、浴槽の縁に腰掛けた。
「あら、そのようにお顔を強張らせられては傷つきますわ。取って喰ったりいたしませんのに」
「わかった!不満があるならはっきり申せ。真綿で首を絞められている気分だ!」
美しい手ですくった湯を伯爵の肩に掛けながら、ミレディアナは嫣然と微笑んだ。
「不満などとんでもない。旦那様のお疲れを癒すお手伝いがしたいだけです。ええ、わたくし本当にお戻りを待ち焦がれておりましたのよ。なにしろ、このままでは旦那様と一度もダンスを踊ったことのないままに舞踏会へ参加することになるのかと、不安で夜も眠れぬほどだったのですから」
明日から練習にお付き合い願いますわね、というミレディアナの言葉に伯爵は安堵の表情を浮かべつつも、呆れたような声を上げる。
「そのような理由であったのか。まったく、ダンスごときで大げさな……」
その言葉に、ミレディアナは絡新婦を思わせる妖しげな笑みを浮かべた。手入れの行き届いた美しい爪が伯爵の裸の肩に食い込んでいく。
「わたくしがこの二週間、ダンスの心配だけをして過ごしていたとお思いですの?よろしいわ。寝物語にたっぷりと二週間分の愚痴と鬱憤を聞かせてさしあげます。ねぇ、旦那様――今宵は簡単に寝かせませんわよ?」
甘い毒のような声音で、ミレディアナは伯爵の耳元に囁いた。
◇◆◇
「旦那様、み~つけた」
朗らかな妻の声に、伯爵は長椅子に沈み込んだ。
「このお部屋に入ったのは初めてですわ」
「……喫煙室は男のための部屋だからな」
内装や美しい造りの遊戯盤などを物珍しげに見回しているミレディアナに、伯爵は苦い声で答えた。
屋敷に戻ってからというもの、ダンスの練習に付き合わされるだけでなく、社交界や貴族について、果ては王国の地理や歴史についてまで質問攻めに遭い、辟易した伯爵は喫煙室に身を隠していた。
「そのようにうんざりとしたお声を出さないでくださいませ。わたくしは今、とっても機嫌が良いのです。――理由をお聞きになりたいですか?」
「……聞こう」
本心から興味があるわけではなかったが、遊び人として名を馳せる人物だけに、女がこのような言い方をしたときにはおとなしく拝聴すべきであることは身に染みている。
そのような伯爵の内心を見透かしたようにフフンと笑ったミレディアナは、だが心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。
「舞踏会で着るドレスの試着が無事に終わりましたの!出来栄えも寸法も問題なし!辛い節制の日々が報われましたわ~!」
両手を広げ、ダンスを踊るようにクルクルと回りながら華やいだ声を上げる妻を、機嫌が良いのは結構なことだ、と思いながら眺める伯爵はついつい余計な口を利く。
「最初からゆとりをもたせて作っておけばよいだろうに」
その言葉にピタリと動きを止めたミレディアナは、伯爵の座る長椅子に歩み寄ると背後から抱きつくように腕を回し、片手の指を夫の頬に触れさせた。一見、甘やかな夫婦の戯れだが、頬に触れる指はグリグリと回され、無神経な発言に制裁を加えている。
「だ・ん・な・さ・ま~?懲りておられませんわねぇ。屋敷の女性陣に目の敵にされたいのですか?」
数日前、ダンスの練習や勉強に巻き込まれた伯爵が呆れたように口にした、「それほど懸命にならずともよい。顔さえ出せば十分だ」という発言に、その場にいた女性(特に既婚者や離婚経験者)は、一様に冷ややかな視線を伯爵に向けた。
はい、地雷~。
男の「気軽な集まりだから服なんて別になんでもいいよ」や「手土産とか気を遣わなくて大丈夫」ほど、当てにならない言葉はない。その言葉を真に受けてしまった女は大抵痛い目に遭ってきている。
ましてや今回の舞台は王宮舞踏会だ。身一つで戦場へ向かって無事で済むはずがない。
時間がないなか、必死で持てるだけの武器や防具をかき集めているミレディアナへのその言葉は、屋敷の女性たちの多くに「これだから男は……」という至極真っ当な感情を抱かせ、伯爵への態度はほんのりと冷たくなった。
ミレディアナの言葉にギクリとした伯爵は、「いや、そういう意味ではない。その――良い衣装ができたようでなによりだ」と慌てて言い繕う。
そんな夫の姿に、ミレディアナは心地の良い笑い声を上げた。




