ジェイスの来訪
「ん~~~!やはり座ってばかりは良くないわね。肩が凝ってしまったわ」
両腕を掲げて身体を伸ばしながら、ミレディアナは庭園を歩いていた。
「奥様、戻りましょう!お供も連れずに外へ出ちゃダメです!」
「あら、供ならあなたがいるじゃない」
このところ毎日、ミレディアナのためにお茶の支度をしているトリーだったが、ある程度慣れてきたのと、メイヤーに急ぎの用件があったため、今日は初めて一人でミレディアナの居室を訪れていた。
いつもどおり機嫌よくトリーの淹れたお茶を飲み終えたミレディアナは、いたずらを思いついた子供のような顔をすると、トリーを連れて屋敷の外へと繰り出した。途中、廊下ですれ違った若い従僕には、「内緒にしてね」と愛らしい笑みを振る舞って見惚れさせている。
「これで時間が稼げたはずよ」
少年の視界から外れるや、ニヤリと笑ってみせたミレディアナに唖然としながら付き添っていたメイド見習いの少女は、ようやく己の職務に思い至り、慌てて主を引き止めた。
「私じゃ役に立ちません……!お散歩するなら誰か連れて……じゃなくて、えっと、どなたか、別の……かた?をお供にして……なさって……ください!」
言葉遣いに混乱しながらも懸命に説得したが、軽やかに笑い飛ばしたミレディアナは聞く耳をもたない。
「一緒に来てさえくれれば供の役割としては十分よ。気分転換に厩舎へブライアンを見に行きたいの。あなたもビリーの様子が気になるでしょう?」
そう言われてしまうと、反対もしづらかった。
(メイヤー夫人、ごめんなさい)
叱責を受ける覚悟を定め、ミレディアナに従って厩舎へ向かっていたトリーの意識の隅になにかが引っかかった。立ち止まり周囲を見回すと、敷地の内外を隔てる生け垣の向こう側に、姿を隠すようにして佇む長身の男の姿が目に入った。特別に勘が鋭いわけでもないトリーがそれに気付いたのは、男がトリーに視線を向けていたことに加え、その姿を見知っていたからだった。
「あ……!おじさん!」
トリーの声に、ミレディアナが振り返る。
「トリー?……あら、どなた?」
呼びかけられ、わずかに顔をしかめた男は、ミレディアナの声に諦めたように姿を現した。
黒っぽい衣服に身を包んだ男は、長身で細身ながらも体つきに頼りなさはない。無造作に縛られた長髪や、みすぼらしくはないが着古していることが見て取れる服装からも、貴族や商人でないことは明らかだ。なにより――
「まあ……なんて立派な……」
男が手綱を掴んでいるのは、見惚れるほどに逞しく黒光りするようなダバだった。
ビリーは茶色の被毛で、たてがみや尾は赤毛であり、二本の角は太くも長くもないものが耳の間からまっすぐに生えていた。一方で男のダバは、体はビリーより二回りも大きく、被毛もたてがみも漆黒で、素晴らしい存在感の捻じれた角は黒い金属のような光沢を放っている。グレイ伯爵家の厩舎にもこれほどに立派な馬はいなかった。
目を見開いてダバに見入っていたミレディアナは、ハッと我に返った。
「失礼いたしました。立派なダバだったものでつい見惚れておりました。――トリー、この方は?あなたのご親戚でいらっしゃるの?」
「いえ!違います。父さんと仲が良かったおじさんなんです。私も、色々助けてもらいました」
なるほど。『伯父さん』ではなく『小父さん』なのか。それにしても……
黙ったままの男にチラリと視線を向けたミレディアナは、明るい声を上げた。
「そうだわ、トリー!ビリーの様子も見ていただいてはどうかしら?厩舎へ行って連れていらっしゃいな」
「あ!はい!」
慣れない場所で知人に会えたのが嬉しかったのだろう。年相応の無邪気な笑顔でトリーは厩舎へ駆けていった。
その背を見送り、ミレディアナは男の方へ向き直る。
「はじめまして。わたくしはグレイ伯爵の妻のミレディアナと申します」
優雅に礼をするミレディアナの姿を目にした男は、自分をダバ遣いと知りながら貴族の女が丁寧な態度を崩さないことに困惑の表情を隠せない。
「……なぜ、あいつを行かせた?」
「わたくしに訊ねたいことがおありのように見えましたので。勘違いでしたかしら?」
「いや……。だが、賤民と二人きりになって危険だとは思わなかったのか?拐かされたり、襲われたりするおそれだってあるだろう」
「わたくしがここを通ったのは偶然ですわ。わたくしを狙った犯罪を企んでいたとは思えません。まあ、突発的に罪を犯すことはあるかもしれませんが、あの子が信頼しているようでしたので、おそらくは大丈夫かと」
場当たり的な犯罪をしでかすヤベー奴には見えなかった、ということもある。伊達にアンダーグラウンドな商売で食べてきたわけではない。
「それで、ご質問はなにかしら?」
「質問……というのは、正確じゃない。ここへはあいつの様子を探りに来たんだが……。想定していた事態とは違うようなので、状況を聞かせて欲しい」
「想定していた事態とはどのようなものですの?」
ミレディアナは首を傾げる。
「捕えられ、伯爵の慰み者にされているのかと」
あんぐりと口を開いたミレディアナは、頭痛をこらえるように額を押さえた。
「……旦那様の悪評もたいしたものですわね」
呻くような声で言うミレディアナに、男は気まずい顔をする。
「思い違いだったようで、申し訳ない」
「自業自得ですのでお気になさらず。ですが、その目でご覧になったように、トリーはわたくしの庇護下にあります。旦那様が悪癖をお出しになるようなことがありましたら、再起不能にしてでもあの子を守るとお約束いたしますわ」
さすがにそんなことはしないだろうけど、万が一、余計な気を起こそうものなら必ずツブす。
「身寄りがないと言っていたけれど、あなたのように気にかけてくださる方がいたのね。よかったわ。ひょっとして、トリーの言っていたダバ遣いの『元締め』というのはあなたのことなのかしら?」
元締め宛てに使用人として働くことになった旨を伝えていたのだが、心配して様子を見に来てくれたようだ。目的が分かって安心したミレディアナは打ち解けた態度を見せる。
「そんなにたいしたものではないが、仕事の割り振り程度はしている」
「お若いのに立派だわ。――それにしても……」
ミレディアナは手の甲を口元に当てて笑いをこらえる。
「お、おじさん……って。あんまりな言いようね!このような男前をつかまえて」
そう。男は若いだけでなく、めったにお目にかかれないほどの美男子だった。顔の造作でいうならばヴィンセントのほうが整っているかもしれないが、浅黒い肌に鋼色の髪と金色の瞳という人の目を引く美しさ。身体つきもネコ科の獣のようにしなやかに引き締まっていて、ミレディアナの好みとしては断然こちらに軍配が上がる。
「子供からすれば、二十も四十も同じなんだろう」
「それにしても、よ。おじさん呼ばわりはお気の毒だわ。ああ、おかしい」
コロコロと笑うミレディアナを珍しいものでも見るように眺めていた男は、思い出したように「ジェイスだ」と名乗った。
「ジェイスね。よろしく。当家のお仕事はあなたが受け持ってくださるの?」
「当面は。伯爵家に出入りするともなれば、よほど信頼を置ける者にしか任せられない。……トリーの父親が最適だったんだが」
苦い口調でジェイスが呟く。
「そう……。誠実な方だったのね」
「ああ。ガキの頃から世話になっていた。――おい、誰か来るぞ」
しんみりとした空気のなか、顔を上げたジェイスが鋭い声で言った。
「え?」
振り返ったミレディアナは「あー……」と呟き、視線を泳がせた。
土煙を立てる勢いで駆けてくるのはイーサンだった。
「ええっとね、怪しい者でも悪い人でもないのだけれど……。あらかじめ謝っておくわ。あなたと……ダバに」
漆黒のダバに奇声を上げて駆け寄ったイーサンは、危うく蹴り飛ばされそうになったところを間一髪ジェイスに引き戻されて事なきを得た。
今は、「この線より前へ出たらヴィンセント直属の内勤に変える」というミレディアナの脅しに不承不承、地面に引かれた線から身を乗り出すようにしてダバを眺めるにとどめている。
「はぁ~。美しい……」
涎を垂らしそうな表情でダバに見惚れるイーサンを、気味悪そうにジェイスは見ている。
「なんなんだ、こいつは」
「ちょっと様子がおかしいくらい動物好きの厩番よ。特にダバに夢中なの」
「この屋敷は変わり者の巣窟か?」
ん……?ちょっと待て。今、私を入れなかった?
よーし、話し合おうじゃないか。顔をしかめたミレディアナが口を開きかけた時、トリーを連れたビリー(逆ではない)が、なぜかブライアンも伴ってやって来るのが見えたため、口論は不発に終わった。
「相変わらず舐められてるな」
ビリーのたてがみを見て、「コイツこんな色だったのか」と感心したように呟いたジェイスが、気ままに振る舞うビリーに振り回されているトリーの様子に小さく笑みを浮かべて言った。
「あ、はい。全然いうこと聞いてくれなくて」
トリーは情けない顔をする。
「ブライアンも連れてきてくれたのね」
不思議そうにミレディアナが言うと、トリーも困惑した表情でイーサンに目を向けた。
「はい。ブライアンが来たがって……」
「そうそう!ふたりはすっかり仲良しですよ!というか、ブライアンがビリーを非常に慕っています」
他の馬たちもビリーには一目置いている様子です、と嬉々として語るイーサンの言葉に改めて二匹の様子を見ると、優等生のブライアンがやんちゃな野生児ビリーに嬉しそうについて回っているふうにも見える。なかなかエモい光景だ。
そしてそんな異種族交流を高みから静かな瞳で見下ろす漆黒のダバ。迫力が凄い……帝王の貫禄……!
そんな感想を抱いていると、「さて……」とジェイスが呟いた。
「こいつらの様子も確認できたし、そろそろ行く」
「あら……ゆっくりお話をしたいところでしたけれど、お仕事がおありですものね」
ちょっぴり名残惜しそうな顔をしているトリーと、めちゃくちゃ未練がましい顔をしているイーサンをたしなめるようにミレディアナは言った。
「またお会いする機会もあるでしょう。今後ともよろしくお願いいたしますわね、トリーのオジサマ」
ミレディアナの言葉に苦笑したジェイスだったが、同時に差し出された手を見て目を見開いた。視線を上げると、美しい女は挑発するような笑みを浮かべている。笑みに煽られるようにしてそっと白い繊手を握ると、しっかりと握り返したミレディアナは手を離して微笑んだ。
ミレディアナを凝視していたジェイスは、大きく息をつくと姿勢を正す。
「賤民ごときに役立てることがあるとは思えんが、もし……俺の力が必要なときは言ってくれ」
言外に汚れ仕事も厭わないという意図を感じたミレディアナは、水色の瞳に困惑の色を浮かべたが、次いでいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「伯爵夫人ごときにお役に立てることがあるかは分かりませんが、なにかお困りのことがあったときはおっしゃってくださいませ。……他ならぬわたくしのメイドがお世話になってきたオジサマでいらっしゃいますもの」
呆れたように笑ったジェイスが立ち去ると、ミレディアナは手を鳴らす。
「さあ、あなたたち!各々、務めに戻るとしましょう。今日のごはんを美味しくいただくためにも一生懸命働かなくてはね」
片や真面目に、片や渋々頷いた使用人たちと歩き出したミレディアナは、トリーに向かって笑いかけた。
「メイヤー夫人のお説教はわたくしが引き受けるから、あなたは上手く逃げるのよ?」
難易度の高い指令に、トリーは小さく首をすくめた。




