伯爵家のティーマイスター
「でも、私、ちゃんとした作法も知りませんし……」
「構いません。いえ、本当は良くありませんが今回は目をつむりましょう」
メイド生活三日目のトリーは戸惑っていた。
『取り立ててくださった奥様に誠心誠意お仕えなさい。侍女にしたいとまでおっしゃってくださったお気持ちに応えるためにも、一日も早く礼儀作法や技能を身に付け、奥様の前に立てるよう努めなければなりませんよ』
家政婦長より与えられた言葉を胸に、メイドの仕事に加えて、貴族の女性に仕えるに相応しい立ち居振る舞いを身に付けるべく懸命に働き、学ぶ決意を固めていたが、まだほとんどなにも身に付いていない段階で、当のメイヤーからお茶を運ぶようにとの指示を与えられてしまった。
「早々にお側に上がるのはあなたにとっても不本意なことでしょうが、なにしろ奥様が大変に弱っておられるのです。色々と考えたのですが、最も奥様の励みとなるのはあなたの姿を見ていただくことかと。作法に関してはできる範囲で構いません。頼みましたよ」
急き立てるように茶器を渡され、なによりミレディアナの様子が心配でもあったので、緊張でぎくしゃくしながらも、トリーは部屋の扉を叩いた。
「し、失礼いたします。お茶っ、を、お持ちいたしました。……お、奥様!?大丈夫です……だ、大丈夫で、いらっしゃり……られ……ますか?」
長椅子に上半身を投げ出し、クッションに顔を埋めるミレディアナの姿に慌てつつも、手には茶器の載った盆を持っているため駆け寄ることもできず、危なっかしい足取りで歩み寄ったトリーは、そろそろと小卓に盆を置いた。
「ト…………トリーーー!!」
「わっ!」
茶器を割らずに運べたことにまずは安堵したトリーの腰に、長椅子に横たわったままの恰好のミレディアナが抱きついた。
「お、お、奥様!?」
「あら!お仕着せを着ているのね!髪も切って。似合っているわ!かわいいわ~!」
メイド服を着たトリーに気付いたミレディアナは、身体を起こして矯めつ眇めつ眺めては、抱き寄せてわしわしと頭を撫でた。
「はぁ~……癒される……」
思ったより元気そうではあるが、『癒される』と言うからには、どこかが痛かったり苦しかったりするのだろうか。そう考えたトリーが、小首を傾げて「奥様、どこかお苦しいのですか?」とミレディアナの顔を覗き込むと、唐突に目を潤ませたミレディアナが片方の手で口元を押さえ、天を仰いだ。
「ああっ……!たった数日で立派になって……!そうよ!トリーがこんなに頑張っているのだもの!わたくしも……っ、弱音を吐いてはいけないわ……!」
誉めてくれるのは嬉しいが、さすがに大袈裟ではないだろうか……とどこか冷静に考えながら視線を泳がせていると、廊下からそっと顔を覗かせるメイヤーの姿が目に入った。トリーに向かって小さく頷いてみせたメイヤーは、改めて扉を叩くと静々と部屋に入ってくる。
「メイドの業務も礼儀作法も身に付ける途上ではございますが、慣れない場所でよく頑張っておりますよ。さ、奥様がそのように抱えていては彼女がお茶を準備することができません」
「まあ!トリーが淹れてくれるのね!」
嬉しそうに微笑むミレディアナと冷徹に指導すべき点を数え上げているメイヤーに見守られ、冷や汗をかきながら淹れた紅茶は、零さなかっただけ上出来という具合だったが、一口飲んだ主は満足そうに吐息をついた。
「美味しいわ!トリーはお茶を淹れる名人ね!」
いくらなんでもそれはない……とちらりとメイヤーに視線を向けると、厳しくも温かい師は小さく苦笑を浮かべていた。
「あの、奥様はどうなさったんですか?」
トリーの新しい生活の様子を、目を細めて聞きながらお茶を飲み干したミレディアナが「わたくしも負けてはいられないわ!」と気合いを入れて書物を手にしたのを機に師弟は部屋から退出した。
扉を閉じた途端、心配そうにたずねたトリーに小さく首を振ってみせたメイヤーは、近くの空き部屋へ招き入れた。
「人の耳目に触れる場所で主の噂話をしてはなりません」
「あ……はい!」
生真面目な表情で頷いた部下に謹厳な顔つきで頷き返した家政婦長は、思い出したようにクスリと笑った。
「メイヤー夫人?」
「いえ、笑っては奥様に失礼ですね。実は……奥様は食事と菓子を制限されているのです」
「へっ?」
思わず間抜けな声を上げてしまったトリーは、メイヤーの鋭い視線を受けると慌てて「ええっと、どういうことでしょうか?」と言い直した。
前日の午後、衣装の案もなんとかまとまり、マルグリットに驚異的な手際で採寸をされたミレディアナは、黙々と片づけをする仕立て屋ににこやかに話しかけた。
「素敵なドレスになりそうで嬉しいわ。最近の流行についても伺いたいし、よろしければお茶でもいかが?」
ちらと視線を上げたマルグリットはそっけなく首を振る。
「時間がないので結構です。すぐにでも制作に取り掛かりませんと。――それと、今回は納期に余裕がありませんので仮縫いなしで作ります。なので、夫人は現在の体型を死守してください」
「死守!?――そ、そうね。肝に銘じるわ。で、では、乗馬に精を出さなければね!」
マルグリットから、完璧な仕事をするための時間が足りないことに対する静かな怒りが伝わってくる。体型維持に努めますのでなにとぞお鎮まりください……!
ミレディアナの言葉にメイヤーがさりげなく口を挟んだ。
「舞踏会までにお怪我をされては一大事でございますので、乗馬のお稽古は王都より戻られてからになさいませ」
「は……はいっ!?え、乗馬をしてはいけないの?なら、体型維持は……どのように……?」
恐る恐る問うたミレディアナに対し、メイヤーは判決を言い渡す裁判官のように重々しく頷いた。
「お食事を減らしていただくより他にございませんかと」
「そっ……そんなぁぁぁぁぁ……!」
悲痛な声を上げたミレディアナは、ヨロヨロと長椅子に崩れ落ちた。
「あの時の奥様は、戯曲に出てくる悲劇の女主人公もかくやというご様子でしたよ」
笑っては失礼、と言いながらもメイヤーは、絶望に打ちのめされたミレディアナの様子を思い出してはこみ上げる笑いを噛み殺している。年齢にそぐわぬ肝の太さを見せたかと思えば、食事のことであれほどまでに打ちひしがれる。奇妙な方だと思いながらも、愛嬌があり憎めなかった。
「そういうわけで、今日もお勉強に身が入らないご様子でしたが、あなたの淹れたお茶のおかげでやる気を取り戻されたようでなによりです。――明日からも『名人』のお茶でお元気を回復していただくことにしましょうか」
からかうようなメイヤーの言葉にトリーは顔を青くする。
「お、美味しいはずないです!奥様はお優しいのでああ言ってくださっただけで……!」
もちろん、とメイヤーは頷いた。
「あの淹れ方では味も香りも良くないでしょう。ですが、奥様にはお茶そのものよりもあなたの姿を目にすることが力となっているのです」
なので明日からも顔を見せて差し上げなさい、そう言って微笑んだメイヤーは、「とはいえ」と声を改めた。
「伯爵家の方にお出しできるほどの良質な茶葉をこれ以上無駄にさせるわけにはいきません。明日までに、名実共に『名人』になってもらうとしましょうか」
「は……はい……頑張り……ます……」
そんな無茶な……と思いはしたが、にっこりと笑みを浮かべる上司に向かい、そんなことは口にすることさえできるはずもなかった。




