伯爵夫人の差配
チチチチチュッ……
小鳥の声が聞こえた気がして、ミレディアナはハッと目を開けた。
明け方近くにようやくベッドに潜り込んだのだが、気が昂っているせいか早々に目が覚める。
少女の様子を見ようとベッドの上を見渡すが、姿がない。
「え!?」
いくら広いベッドとはいえ目に付かないはずはない。転げ落ちたのかと慌てて見回した周囲にもいない。
「ど、どこ!?ええっと……ダ、ダバ遣いの女の子!」
トイレや風呂場を覗いてみても見つからず、居間へ繋がる扉に駆け寄るミレディアナの視界の隅でなにかが動いた。
「……そこに……いる?」
壮麗なカーテンをそっとめくって覗き込むと、身体を丸めてしゃがみこんだ少女の姿があって、ひとまず安堵の息をつく。
「ご、ごめんなさい!すみません!すぐに出ていきますから許してください!」
襲われたことを思い出し恐怖のあまり隠れているのかと思ったのだがそうではなく、自分が豪華な部屋に寝ていたことでパニックを起こしていたらしい。
(わかる。私もこの世界で目を覚ました時そうだった)
などと思っている場合ではない。
「大丈夫だから、落ち着いて」
慌ててカーテンに潜り込み、震える少女を抱きしめてなだめる。しばらく頭を撫でていると、やがて恐る恐るといった様子で顔を上げた。
「あなたをこの部屋へ連れてきたのも、寝台に寝かせたのもわたくしよ。だから、怖がらなくて大丈夫」
噛んで含めるように言い「わかった?」と問うと、微かに頷く。
「では、ひとまずここから出ましょうね」
言ってカーテンの裏から這い出すと、ベッドに腰掛けるよう促し、並んで座る。
「名乗るのが遅くなってしまったけれど、わたくしはグレイ伯爵の妻のミレディアナよ。あなたの名前を教えてもらえる?」
「ト、トリー、です」
おずおずと名乗った少女――トリーに頷いてみせ、ミレディアナは頭を下げた。
「わたくしの軽率な言動のせいで辛い目に合わせてしまってごめんなさい。このような言葉だけで償えると思ってはいないけれど、まずは謝罪をさせてちょうだい」
「い、いえ、あの……」
落ち着かない様子で座っていた少女は、ミレディアナの言葉にモゴモゴと呟く。
「き、昨日……の、ことは……途中からよく覚えてないんですけど……お、奥方様が助けてくれたことは、少しだけ……ご、ごめんなさい、わたしなんかのために……」
「っ……!あなたが謝る必要などひとつもないわ……!」
なにも悪いことをしていない少女が謝罪する姿が痛ましく、膝の上で握りしめている拳に手のひらを重ねると、少女は熱いものに触れたように両手を引いた。
「わ、わたしに触ったら……汚れます……ごめんなさい……」
「汚くないわ。覚えていないかもしれないけれど昨夜お風呂に入ったから、まだ十分にきれいなはずよ」
絞り出すような声に慌てて伝えるが、少女は弱々しく首を振る。
「わたしはダバ遣いだから……」
ミレディアナは天井を仰ぎ、苦いため息をつく。
「汚くないわ。――トリー、あなたは汚くなどない。たとえお仕事で汚れることがあったとしても、そんなものは洗えば落ちるの。洗って取れない汚れなどこの世に存在しないのよ」
身体の後ろに隠すようにしていた両手を強引に掴み、握りしめる。
「わたくしの言葉を信じてくれる?」
零れ落ちそうに見開いた目を見つめて問うと、呆然とした表情で瞬きもせずにミレディアナを見つめ、震えるように頷いた。
「では、この先あなたのことを『汚い』と言う者がいても、その言葉を決して信じてはだめ。あなたは断じて汚れてなどいないのだから」
「は……はい……はい……っ」
何度も頷き嗚咽を漏らす少女の姿に、幼い頃の『私』の姿が重なって見えた。
トリーが落ち着くのを待っていくつかの質問をしたミレディアナは、「よし」と呟いて立ち上がった。
まずは、着替えだ。
二、三人は寝起きできそうなほどに広い衣裳部屋から、できるだけ地味で簡単に着られそうなドレスを探す。
紺地に上品な刺繍のされた前ボタンのものならばなんとか一人で着られるだろうと選び出し、四苦八苦した末に着替えを済ませると、髪も最低限、見苦しくないように整える。
そこそこきちんとした恰好に見えることを確認すると、身の置き所のない様子でベッドに浅く座っているトリーに微笑みかけた。
「少し用事を済ませてくるわ。わたくしが戻るまでこの部屋には誰も入れないから安心して休んでいてね。――ああ、そうだ」
小机に置いてあったグラスに水を注ぎ、ぶどうやビスケットなどあまり味が落ちていなさそうな食べ物も取り分けて渡す。
「これを食べていてちょうだい。残ると無駄になってしまうから、食べてくれると嬉しいわ」
そう言い置いて居間へ移動し、呼び鈴の紐を引く。初日を除いて朝は決まった時間にメイドが部屋まで来てくれるし、それ以外も誰かしらが側に控えてくれることが多かったのでこれまで使う機会がなかったのだが、これを引くと屋敷のどこかでベルが鳴って使用人が来るらしい。どんな仕組みなのだろうかと考えながら待っていると、ほどなく扉がノックされた。返事をすると、家政婦長が入ってくる。
「旦那様にお会いしたいのだけれど、お目覚めかしら?」
身支度を済ませているミレディアナの姿にわずかに驚いた様子を見せたメイヤーだったが、すぐに丁寧に頭を下げた。
「はい。お支度が整い次第お連れするように、とのことでございます」
「では、お願い。わたくしが戻るまでこの部屋には誰も入れないでちょうだい」
「承知いたしました」
伯爵の部屋へ先導されながら、ミレディアナは後ろ姿に声をかける。
「昨夜はありがとう」
「申し訳ございません。お申し付けに背き勝手なことをいたしました」
「いいえ。助かったわ」
「恐れ入ります」
やがてメイヤーが立ち止まり、金の紋章が付いた扉をノックすると、ヴィンセントが扉を開けた。
「旦那様がお待ちでございます」
見たところ調度品に違いはあるが、造りはミレディアナの部屋とそう変わらない。廊下からつながる居間に伯爵の姿はなく、奥の書斎へ通された。
「来たか」
立派な執務机の向こうに座る伯爵に、ミレディアナは黙ってお辞儀をする。
奥に伯爵、手前の左右にヴィンセントとメイヤーが立っており、居並ぶ屋敷の三巨頭にすくみそうになる心を励まして顔を上げる。
「彼らの処分ですが」
挨拶も前置きもすっ飛ばして本題に入ってしまったが、なんとか声は震えていない。
「解雇してくださいませ」
三人とも表情を動かすことなく、無言で視線を向けてくる。
「ただ、この度のことはわたくしにも非がございました。ですので、三人には賃金のひと月分を余分に与え、紹介状もお渡しください。――余分の賃金につきましては、わたくしに充てられている予算から出していただきますようお願いいたします」
昨夜、一晩かけて考えた。
トリーの受けた恐怖と苦痛を思うと、去勢したうえ手足をへし折って放逐したいほどだった。だが、もしかすると、誤って彼女が小屋に泊められさえしなければ彼らはこの先の人生で悪行をはたらくことはなかった可能性もある……。いや、それでも、立場も力も弱い者を手籠めにしようとした奴らを許す必要などはない……。未遂で済んだということはこの際、関係ない。あと数分遅ければ未遂で済まなかったのは確実なことであるし、踏み込んだ時に目にした彼らの下卑た笑みを思い出すたびに目の前が眩むほどの怒りを覚えた。だが一方で、これまで問題を起こすことなく勤めていた彼らに罪を犯させた責任の一端は自分にあるのではないかという思いも捨てられなかったのだ。
頭がガンガンするほどに考え抜いてようやく心を定めたのだが、トリーの苦しみを軽んじたような気がしてしまい、眠る少女の傍らに膝をついて心の中で幾度も詫びた。
黙ってこちらを見ていた伯爵が、唇の端を吊り上げる。
「手厚いことだ。……まあ、いいだろう。だが、金についてはそなたが出す必要はない。これは、こやつの失態じゃ――のう、ヴィンセント」
伯爵の言葉を受けたヴィンセントは、なにも言わずに頭を下げた。
不安な気持ちで告げた処断がとりあえずは認められ思わず吐息をつきかけたミレディアナは、慌ててそれを飲み込んだ。大仕事がもう一つ。
「旦那様、もう一点お願いしたいことがございます」
伯爵は視線で続きを促した。
「被害を受けたトリーという少女を、使用人としてわたくしの手元に置くことをお許しください」
伯爵の目が探るように細くなる。
「身分の低い者であることは存じております。伯爵家の使用人には相応しくないのかもしれません。ですが、わたくしのせいで傷ついた少女を放っておくことはできません。――どうか、お聞き届けくださいませ」
伯爵の鋭い目付きに俯いてしまいそうになるが、必死で視線を合わせ続けた。
『私』はもとより、ミレディの記憶にも賤民についての知識はなかった。それどころか、その存在すら知らずにこれまでの人生を過ごしてきていた。そのため、自分の申し出がどれほどの禁忌に当たるのかが分からない。それが、とてつもなく恐ろしかった。
「ふっ」
小さな笑い声を上げた伯爵が視線を伏せる。ふたたび顔を上げた時、そこにはいつもの皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。
「賤民と知ったうえで側に置くか……。よかろう。扱いについてはメイヤー夫人と諮って決めるがよい」
「あ……ありがとう……存じます……っ」
安堵のあまりドレスの下で膝が震える。
「酒を垂らした紅茶でも淹れてもらえ。死人のような顔色をしておるぞ」
「あ……」
揶揄するような伯爵の言葉につられて頬に触れると、指先も震えているのが目に入った。
震える指を隠すように拳を握り、胸を張る。ここは虚勢を張ってでも堂々としてみせるのが、女主人としてのミレディアナの拙い差配を受け入れてくれた伯爵への礼儀であるように思ったのだ。
「お聞き届けくださり感謝いたします」
恭しくお辞儀をすると、全力で優雅な仕草をキープしたまま部屋を出た。
早足に廊下へ向かうと、一目散に手近な空き部屋へと駆け込み床に座り込んだ。
「よかっ……たぁ……!はは……手、震えてる……威圧感すご……」
これまでは、エロジジイの一面しか見えてなかった伯爵だったが、今回わずかに覗かせた為政者としての表情には小娘に太刀打ちできない冷徹さがあった。
(結局、人生楽じゃないってことか)
玉の輿に乗ったシンデレラも、きっと物語の続きは自己研鑽の日々だったのだろう。そこを乗り越えてようやくの『めでたしめでたし』だ。
ろくでもなかった前世から見知らぬ世界へやってきて、どこか他人事のような気分でのらりくらりと安穏な生活を送ってきたが、どうやらここも『めでたしめでたし』の保証のある世界ではないらしい。いや、むしろ簡単に売り飛ばされたり、首を(物理的に)切られることすらあり得るな。
オマケのような第二の人生、さほど執着のあるものではなかったけれど、もう一度、不幸になるのも馬鹿馬鹿しい。
大それた野心も欲もなく、実のところ食べてさえいければ十分なのだが、人間一歩間違えると、そんなものすら手に入らないのは経験済みだ。
(今度こそ天寿を全うしたいものね)
コーラル家のベッドで目を覚ましてから三ヶ月弱。『私』はこの時ようやく『ミレディアナ』として生きていくと腹を括ったのだった。




