第二十一話 黒き月
——その頃。
王都。
「……なんだ、これ……」
誰かが、呟いた。
空が——歪んでいる。
黒い亀裂が、ゆっくりと広がっていく。
「……なに、あれ」
人々が、天を仰ぐ。
——その時。
空が、裂けた。
黒い亀裂が、ゆっくりと広がる。
渦を巻く雲の中心から——
“それ”は、落ちてきた。
地面に触れる前に、形を持つ。
狼のような黒い影。
竜のような赤い影。
そして——
それらが、引き寄せられるように集まり始めた。
「逃げろ!」
その場に響く、鋭い声。
カイル、そしてアヤカ、アン、遅れてレナンがその場に駆けつける。
「……なんだよ、あれ……」
カイルが低く呟く。
影は、溶けるように混ざり合い——
ひとつの巨大な“塊”になる。
どくん、と。
脈打った。
「下がれ!」
カイルが叫ぶ。
「全員、距離を取れ!」
「建物の中へ!急いで!」
アンも続ける。
兵と民衆が一斉に動き出す。
だが——
「——触れちゃダメ!!」
声が落ちた。
振り向く。
アヤカが、そこにいた。
その目は——
“それ”を、見ていた。
「……あれに触れたら」
息を呑む。
「未来を、奪われる」
ざわ、と空気が揺れる。
「どういうことだ。」
「存在ごと消えるってこと!」
カイルが歯を食いしばる。
アヤカは"それ"から目を離さない。
(……見える)
黒の塊。
その中心。
一点だけ——
“違う”場所があった。
(……あそこ)
「……核がある」
静かに言う。
「核?」
レナンが反応する。
「あれ全部が歪みなら」
一歩、前へ。
「あれを繋いでる“中心”がある」
視線は動かさない。
「そこだけ——未来が流れてこない」
「なのにそこだけ——"消えてない"」
息を呑む音。
「……そこを壊せば」
「止まる」
沈黙。
「……つまり、あそこに行けばいいんだな」
即座に、カイルが前に出る。
「アン様は下がってください!」
「ここは我々が——」
「……嫌よ」
低く、はっきりとした声。
カイルの言葉を遮ったのは、アンだった。
一瞬だけ、拳が震える。
けれど——その震えを、自分で押さえ込む。
「もう、後ろで守られるだけは嫌なの」
ゆっくりと、腰の剣に手をかける。
抜く。
金属の音が、小さく響いた。
「私は——王女よ」
「この国の人たちは——私が守る」
その瞳に、迷いはない。
カイルが息を呑む。
「……アン様」
一歩、踏み出そうとするアンの前に、立ちはだかる。
「……なりません」
低く、押し殺した声。
「これは危険な戦いになります」
「だからよ」
アンは、真っ直ぐに言い返す。
「だから、ここで逃げるわけにはいかない」
カイルの拳が、わずかに強く握られる。
それでも——道を開けない。
その間に。
「僕も……!」
レナンの声が割って入る。
震えている。
それでも、一歩前に出た。
「僕も戦います!」
拳を握りしめる。
「だから——指示をください!」
必死な声。
「僕にできること、やらせてください!」
カイルの視線が、レナンへと向く。
ほんの一瞬、迷いがよぎる。
だが——すぐに切り替わる。
「……殿下は後方へ」
「兵の統制を」
「混乱を抑えてください。それが最優先です」
レナンの目が見開かれる。
「……っ」
一瞬の迷い。
だが——すぐに頷く。
「……わかりました!」
振り返る。
「皆さん!聞いてください!散開しつつ包囲を維持しましょう!」
声を張り上げる。
まだ幼い声。
それでも——必死に届かせようとする。
兵たちが、反応する。
わずかに、動きが整う。
その様子を見て——
カイルは小さく息を吐いた。
(……それでいい)
そして、再び前を向く。
「アン様」
低く、言う。
「どうしても行くなら——」
一拍。
「私の後ろから離れないでください」
完全に認めたわけじゃない。
それでも——守ることは、やめない。
アンは、わずかに目を細める。
「……ええ」
短く、答えた。
その瞬間。
アヤカの声が落ちる。
「……二人とも、待って」
黒を見据えたまま。
「まだ、動かないで」
静かな声。
けれど——不思議と、全員が止まる。
「これは、“未来”の中に入る戦いになる」
「普通に戦っても——勝てない」
カイルが眉をひそめる。
「じゃあどうする」
一拍。
「あの中にどうやって入る」
「私が行く」
迷いのない声。
「……見えるから」
「私なら、触れないように進める」
その言葉で、空気が変わる。
アンが息を呑む。
カイルの表情が硬くなる。
「……ダメだ」
即座に否定。
「一人では行かせられない」
だが——
アヤカは、もう止まらない。
黒の中心へ向かって、歩き出す。
「アヤカ!!」
振り返らない。
ただ、一言。
「——信じて」
それだけ残して、進む。
その間に、黒が弾け、無数の影が解き放たれる。
「散開しろ!!」
カイルの声が響く。
兵たちが一斉に動く。
「アヤカ!」
アンの声。
振り返ると、ひゅん、と何かが飛んでくる。
反射的に受け取る。
王家の紋章が刻まれた、短刀。
「使って!」
その声に、うなずく。
「俺たちが道を作る!」
カイルが突っ込む。
影を斬り裂く。
「今だ!」
——道が、開く。
アヤカは走る。
黒の中心へ。
(見える)
一瞬先の未来。
どこから来るか。
どこを通ればいいか。
影を避ける。
斬る。
すり抜ける。
そのたびに——
何かが、消える。
(……っ)
——まだ見ていない景色。
——誰かと笑っている未来。
それが、唐突に途切れる。
(……これ)
息が浅くなる。
(……削られてる)
それでも——止まらない。
前へ。
ただ、前へ。
——どくん。
中心が、脈打つ。
そこに——あった。
黒の中で、唯一揺らがないもの。
すべてを引き寄せる、一点。
(……あれが、核)
その瞬間。
すべての影が——こちらを向く。
「アヤカ!!」
遠くで、アンの声。
(ここまで来た)
あと、一歩。
——その時。
影が、一斉に襲いかかる。
避けきれない。
その瞬間——
「邪魔しないで!」
アンの剣が、影を弾く。
「行きなさい!!」
背を押される。
踏み込む。
核の目前。
世界が、歪む。
無数の未来が、開いた。
届く未来。
届かない未来。
間に合わない未来。
——そして。
“届くけど、何かを失う未来”
息が止まる。
(……選ぶ)
ノアの声が、頭の中で響く。
——“選ぶってことは、消すってことだよ”
震える手。
(……わかってる)
ひとつを選ぶ。
それ以外が——静かに消える。
胸が、軋む。
それでも。
振り抜く。
短刀が、核に触れる。
ひびが入る。
「……やった……?」
まだだ。
核が、暴れる。
崩れながら、再生しようとする。
(……足りない)
視界が揺れる。
限界が近い。
それでも——
「——終わらせる」
最後の一歩。
深く、突き立てる。
パキン。
黒が、砕けた。
音もなく。
ただ、消えた。
——静寂。
空が、戻る。
影が、消える。
その中心に——
アヤカが立っていた。
「……アヤカ?」
アンの声。
返事はない。
短刀が落ちる。
体が揺れる。
「っ……!」
カイルが駆ける。
その前に——
アヤカは、崩れ落ちた。
意識が沈む。
その直前。
「……やりすぎ」
静かな声。
(……ノア)
——暗転。




