第二話 見知らぬ世界
目が覚めると、知らない天井だった。
しばらく、何も考えられない。
ただ、ぼんやりとそれを見つめる。
やがて、ゆっくりと視線を動かした。
石造りの壁。
粗末な机。
そして——
布を一枚敷いただけの、簡素なベッド。
「……なに、これ」
喉が、ひどく乾いている。
さっきまで——
(……雨)
思い出す。
大雨の中。
横断歩道。
飛び出した子供。
迫るトラック。
「……私」
「死んだの?」
その瞬間、背筋がぞくりとした。
(……じゃあ、ここはどこ?)
軋む音と共に、木の扉がゆっくりと開く。
「目が覚めたかい」
入ってきたのは、初老の男性だった。
手には盆。
その上には、湯気の立つコップ。
「悪いね。白湯しかないんだ」
差し出されたそれを、反射的に受け取る。
口に含むと、冷えきった体に、じんわりと温かさが広がった。
(……夢じゃない)
「……あの」
コップを持ったまま、顔を上げる。
「ここは……?」
「あんた、森の中に倒れていたんだよ」
「見ない顔だ。この辺の子かい?」
「森……?」
その言葉に、違和感が走る。
その瞬間——
ズキ、と頭が痛んだ。
「っ……!」
「大丈夫かい」
「……ええ」
額を押さえながら、息を整える。
「あんた、名前は?」
「……アヤカ」
「アヤカ……?」
少し、不思議そうに目を細める。
「珍しい名前だね」
(珍しい……?)
小さな違和感が、胸に残る。
ふと、視線を横に向けた。
窓の外を見る。
「……え?」
そこに広がっていたのは、
見たことのない街だった。
石造りの建物。
遠くに見える森。
(……知らない)
その一言が、胸に落ちる。
(私……帰れるの?)
不安が、ゆっくりと広がる。
だが——
それよりも、目に入ったその光景に、息を呑んだ。
「……壊れてる」
崩れた壁。
剥がれた石畳。
屋根を失った家。
「驚いたかい?」
男性が静かに言う。
「この辺はもう、どこもこんなものさ」
「最近は特に酷くてね」
「地震に、嵐に、はやり病……」
一拍、置いて。
「魔獣まで出るようになった」
「……魔獣?」
聞き慣れない言葉。
その違和感と同時に——
また、頭が痛む。
「……っ」
視界が揺れる。
(……見える)
崩れる天井。
落ちてくる梁。
「……崩れる」
「は?」
「おじいさん、ここ——」
「崩れる!!」
ドォンッ!!
大きな揺れ。
「っ……!」
とっさに、男性の手を掴む。
(怖い)
それでも——
「こっち!!」
外へ飛び出す。
直後——
建物が崩れ落ちた。
あと一歩で、下敷きだった。
「……助かったよ」
男性が低く呟く。
「……偶然です」
そう言うしかなかった。
——見えた、なんて言えるはずがない。
「私はアルド。ここらで木こりをしてる」
「助けてもらった礼もある。今日は泊まっていきなさい」
アルドはそう言うと、崩れた瓦礫を慣れたように片付け始めた——。
翌朝。
静かな朝。
固いパンと、薄いスープ。
「口に合うかわからんがな」
アルドが言う。
「……いただきます」
パンに手を伸ばす。
その時——
「……っ」
手が止まる。
(……来る)
胸の奥が、ざわつく。
嫌な予感。
あの時と同じ——
「……アヤカ?」
「……子供が」
「は?」
「……男の子が……襲われてる」
息が浅くなる。
「……もう、来てる」
立ち上がる。
椅子が音を立てる。
「おい、どうした」
「……川、ありますか」
「……あるが」
「そこで、襲われる」
言い切る。
アルドの目が変わる。
次の瞬間——
アヤカは走り出していた。
「おい、待て!」
アルドも、すぐに追いかける。
外に飛び出す。
風の匂い。
土の感触。
足が、勝手に向かう。
(こっち)
迷いはなかった。
走る。
ただ、走る。
そして——
「……っ!」
森の手前。
そこに、その光景はあった。
「た、助けて——!!」
小さな男の子が、必死に走っている。
その背後。
地を這うような黒い影。
「……魔獣だ……!」
アルドが息を呑む。
黒い獣が、低く唸りながら追い詰めていく。
魔獣?あれが……。
(でもあれ……)
真っ黒な狼のようで、でも影がない。
いや、影がないというより、それ自体が影のような。
(本当にあれ、生き物なの……?)
その時、男の子の足がもつれる。
森とこちらを隔てるように流れている川に男の子が足をかけた時だった。
転ぶ。
「……っ」
その瞬間。
アヤカの体が、また動いた。
「やめて!!」
叫ぶ。
その声に、
魔獣が一瞬だけ動きを止める。
その隙に——
アルドが飛び出す。
「こっちだ!!」
バシャバシャと川の中を歩き、男の子を引き寄せる。
ギリギリの距離。
魔獣の爪が、地面を抉る。
魔獣は、川を渡れないようだった。
川の縁をウロウロと何周か回ると、そのまま森の奥へと退いていった。
静寂。
荒い呼吸だけが残る。
「……はぁ……はぁ……」
男の子は、無事だった。
ほんの少し、
腕に擦り傷があるだけ。
「……助かった……」
誰かが呟く。
「子供が一人で森に入るなんて危ないだろう。」
アルドが嗜めるように男の子の前にしゃがんだ。
「でも、この森に生えてるきのこは栄養があるんだ。それを食べればきっと母さんも……。」
男の子が目に涙を溜めながらそう言って、服の裾をギュウっと握りしめる。
「お母さん?」
「……病だ。この子の母親は数年前から床にふせている。この子の母親だけじゃない。今この国には原因不明の病に苦しむ人たちがたくさんいる。」
アルドはそう言うと、ゆっくりと振り返った。
アヤカを見る。
その目は、昨日とは違っていた。
「……今のは」
低く、呟く。
「……偶然じゃ、ないな」
一歩、近づく。
「昨日の家のこともそうだ」
「そして、今の……」
アヤカを見つめる。
「あんたは、見えるのか?」
心臓が、強く鳴る。
「……その力は」
ほんのわずか、言葉を切る。
そして——
「……まさか」
確信を込めて、言った。
「レイス家の……」
「……レイス?」
聞き慣れない言葉。
「もう一度聞く」
アルドは、まっすぐにアヤカを見た。
「あんた……どこから来た?」
答えようとして——
言葉が詰まる。
(……わからない)
「私は……」
アルドは、
しばらくアヤカを見つめたあと——
静かに言った。
「あんたに……会ってもらいたい方がいる」
アルドに連れられて歩く。
歩きながら、あたりの景色を改めて見る。
(ここは本当に、私のいた世界じゃない)
やがて——
「……城」
思わず、足が止まる。
その城を見た時
なぜだかわからない。
だけど、懐かしさに胸がギュウ、と軋んだような気がした。
初めて来る場所なのに。
なぜだろう。
涙が出そうになった。
(これは……私の感情?)
門の前には騎士。
アルドが何かを伝えると、
騎士は一度奥へと消えた。
しばらくして、戻ってくる。
「——来い」
「セラフィ様がお待ちだ」
石造りの建物。
城の外門付近。
中に通される。
そこにいたのは——
古いローブを纏った、一人の老人。
「其方が……」
ゆっくりと顔を上げる。
そして——
目が合った瞬間。
「……っ」
老人が、息を呑んだ。
「……ルイーゼ」
「……は?」
「……いや」
小さく首を振る。
「すまない」
視線を、まっすぐに向ける。
「名は?」
「……アヤカです」
「アヤカ……」
一度、その名を繰り返す。
そして——
「聞くが」
静かに、言葉を落とす。
「其方は——未来が見えるのか?」
アヤカは、
ぎゅっと手を握った。




