第十九話 歪んだ正義
公爵家の敷地を出て、しばらく進んだあと。
いつの間か隣にいた、その名を呼ぶ。
「……ノア。」
アンとカイル、レナンは、不思議そうに足を止めた。
当然だ。三人には見えていない。
「教えて。ルイーゼ様は、事故じゃなかったのよね……?」
ノアは、静かに目を伏せた。
否定も、肯定もしない。
——それだけで、十分だった。
「……ルイーゼのことは、助けられなかった。」
その一言が、胸を強く打つ。
「……可愛いルイーゼ」
遠くを見るような目。
小さく息を吐く。
「……ごめんね」
長い時間が滲む声だった。
「だから」
再び、私を見る。
「ロイは——」
「——逃した」
その言葉に、歩みが止まる。
「……逃した?」
「うん」
当たり前のように言う。
「ロイを逃せば——」
一歩、近づく。
「いずれ、あなたが戻ってくるって」
「……視えてたから」
その言葉が、深く落ちる。
(……戻ってくる)
拳が、わずかに震えた。
「じゃあ、おじいちゃんは……本当は、あの時、死ぬはずだったの?」
ノアは、わずかに目を伏せる。
——それが、答えだった。
震える拳を、握りしめる。
おじいちゃんの寂しそうな背中と
セレーネ様の優しい笑顔が浮かぶ。
アヤカは一瞬目を伏せ、すぐに顔を上げる。
「……公爵家で、ドルジェのお父さんの部屋に触れたとき……声が聞こえたの。でも、それは未来じゃなかった。」
ノアはまっすぐに私を見る。
「それは、記憶。」
「記憶……?」
「ただの過去じゃないよ」
静かな声。
「消えないんだよ。強く残ったものは」
一歩、近づく。
指先が、わずかに震える。
「触れると——混ざる」
ノアが、ゆっくりと目を細める。
「時間ごと」
短く、それだけ言った。
(……あの時と同じだ)
触れた瞬間、流れ込んできた声。
「じゃあ……あれは」
「うん。あの部屋に刻まれた、公爵の記憶」
一拍。
「じゃあ……誰が」
震える声。
「契約の相手って、誰なの……」
ノアは、わずかに間を置く。
「厄災の正体」
「あなたも見てるでしょう」
「形を持たない」
「——“あれ”だよ」
言葉が、出ない。
「……じゃあ」
かすれる声。
「この国で起きてることって……」
ノアは、静かに頷く。
「全部じゃないけどね」
「でも、繋がってる」
——その一言で、すべてが線になる。
(……人が、呼んだ)
(だから、起きてる)
拳が、震える。
「……どうして」
絞り出す。
「そんなことまでして……」
ノアは答えなかった。
代わりに——
そっと、額を重ねる。
その瞬間。
——“声”が、流れ込んできた。
視界が、塗り替わる。
————
——
男系継承に、強く拘る男だった。
女が王になるなど——あってはならない。
そう、信じて疑わなかった。
だが、王や王女に手を下せば、自らの立場が危うくなる。
そして——
王妃の傍には、常にルイーゼがいた。
未来を見る力を持つ巫女。
——ルイーゼは、邪魔だった。
あの存在がいる限り、どんな策も見抜かれる。
(……ならば、どうする?)
歪みは、そこに生まれた。
焦り。
恐れ。
——正しさの形をした歪み。
——その隙を、厄災は見逃さなかった。
「力が欲しいか」
囁きは、あまりにも甘かった。
————
——
はっと、息を吸う。
視界が戻る。
足が、ふらつく。
「アヤカ!」
アンの声。
支えられる腕。
現実の重みが、遅れて落ちてくる。
「……今の……」
喉が、うまく動かない。
「見たの?」
ゆっくりと頷く。
「……全部、繋がってる」
震える声。
「ルイーゼ様は……事故じゃない」
「殺されたんだ」
沈黙。
空気が、重く沈む。
アンの手が、ぎゅっと握られた。
「……伯母様は」
かすれる声。
「知っているの……?」
目を閉じる。
「……たぶん、全部じゃない」
「でも——」
目を開く。
「関わってる」
その言葉に、アンの表情が変わる。
レナンの顔が、強張った。
揺れが消え、代わりに——覚悟が宿る。
「……行きましょう」
アンの、静かな声。
「伯母様のところへ」
カイルが、一歩前に出る。
「危険です」
即座に言う。
「もしそれが事実なら、相手は——」
「わかってる」
アンは遮る。
「それでも、行くわ」
迷いはない。
(……強い)
私は、小さく頷く。
「……私も行く」
ノアは、何も言わない。
ただ、静かに見ていた。
その瞳だけが——わずかに、深くなる。
城へ戻る道。
空気が、重い。
何もかもが、繋がって見える。
人の営み。
崩れた街。
病に伏す人々。
(全部……)
(あの“歪み”から始まってる)
拳を、握る。
怖い。
それでも——
(逃げない)
城門が見えてくる。
ざわめき。
兵たちの緊張。
「アン様!」
駆け寄る兵。
「王妃様が……!」
全員が足を止める。
「……なにがあったの」
兵は、一瞬躊躇い——
「巫女様を呼べ、と」
喉を鳴らす。
「自室にて、お待ちでございます」
背筋に、冷たいものが走る。
(……来た)
もう、始まっている。
「行くわ」
アンが言い、歩き出す。
その背中は——もう、迷っていない。
扉の前に立つ。
ドルジェの、部屋の前。
ここに入るのは、初めてだ。
重く閉ざされた、その向こう。
(ここに——いる)
手を伸ばしかけた、その瞬間。
——ぐらり、と視界が揺れた。
“声”が、蘇る。
——
「男系継承は、この国の根幹だ」
「女が王になるなど、あってはならない」
——
「お前は、息子を産め」
「その子が王となる。」
「お前は、王太后となって、国の頂点に立て」
——
歪んだ正義。
抗えない圧。
——場面が変わる。
暗い部屋。
「……どうして」
「どうして、できないの」
震える声。
「望みがあるのか」
振り返る。
黒い外套。
顔は見えない。
「息子が欲しいのだろう?」
心臓が、大きく鳴る。
「望みは、叶う」
「その代わり——」
「世界は、少しずつ歪む」
——
赤子の泣き声。
祝福。歓声。
だが——
どこかで、何かが軋む。
事故。災い。
説明のつかない“ズレ”。
そして——
広がる、“歪み”。
「……違う」
「私は、間違っていない」
「すべては——手に入れたのだから」
——
はっと、息を吸う。
視界が戻る。
目の前には、重い扉。
(……全部、繋がった)
震える指先。
それでも——顔を上げる。
「……開けて」
扉が、軋んだ。




