第十八話 公爵邸へ
その屋敷は、不気味な気配に包まれていた。
重く、澱んだような空気。
敷地に足を踏み入れた瞬間から、肌にまとわりつくような違和感が離れない。
働いている使用人たちも、どこか様子がおかしかった。
視線は合わない。
動きも、どこか鈍い。
まるで——意思が希薄になっているような。
「……殿下?」
低く、抑えた声。
振り向くと、白髪の男が立っていた。
背筋は伸びているが、その目にはどこか陰がある。
「なぜ、こちらに……」
「この屋敷の執事長、ジルです」
レナンが静かに告げる。
「本日は急な訪問で申し訳ありません。今日ここに来たことは、母上には内密にお願いします。」
一瞬の沈黙。
ジルの視線が、アヤカとアン、カイルへと移る。
その目に、わずかな警戒が浮かんだ。
「……承知いたしました」
だが、その返事には、どこか引っかかるものがあった。
(この人……)
アヤカは眉を寄せる。
(アンは現国王の娘なのに……敬意が、ない)
それだけじゃない。
敷地に入ってからずっと感じている、この気配。
(この感じ……)
城の廊下で感じた視線。
あの黒いモヤ。
(同じ……)
胸の奥で、不安がざわついた。
屋敷の奥へと進む。
進むほどに、空気は濃くなる。
重く、息苦しい。
そして——
ある扉の前で、足が止まった。
「……っ」
ぞくり、と背筋が震える。
他とは明らかに違う。
この扉の向こうから、濃い“何か”が滲み出ていた。
「レナン。この部屋は?」
アンが問いかける。
「……そこは」
レナンは、わずかに言葉を選んだ。
「今は使われていない部屋です。生前、祖父が使っていた書斎で……」
(祖父……ドルジェの父——)
「……生前?」
「僕が生まれる前に、亡くなったと聞いています」
その言葉に、アヤカの胸がざわつく。
(亡くなった……?じゃあ、この気配は……なに?)
「……鍵がかかっているわね」
アンが扉に手をかけ、小さく息をつく。
「開かない」
「アン。少し、貸して」
アヤカはそう言って、扉に手を触れた。
——その瞬間。
ぐらり、と視界が歪む。
“声”が、流れ込んできた。
——
「……本物だ」
「この力は……本物だった……!」
「邪魔だ」
「消えろ」
——
(なに、これ——)
頭の奥に、直接響くような声。
(これは……未来じゃない)
(過去……?)
息が浅くなる。
「……アヤカ?」
アンの声が遠い。
アヤカは、ゆっくりと顔を上げた。
「……レナン」
わずかに震える声。
「この部屋の鍵……開けられる?」
レナンは一瞬迷い、やがて頷く。
「ジルが管理しています。呼びましょう」
数分後。
ぎぃ、と重い音を立てて扉が開いた。
長く閉ざされていたことが、一目でわかる。
中は薄暗く、空気は淀んでいた。
積もった埃。
止まったままの時間。
そして——
「……っ」
アヤカは息を呑む。
部屋の奥。机の上。
そこだけが、不自然に整っている。
まるで——
「……ここだけ、最近触られてる」
アンが低く呟いた。
レナンの表情も強張る。
アヤカはゆっくりと歩み寄る。
その机の、引き出しに手をかけた。
そこにあったのは、一冊の古びた手帳だった。
革張りの、重たい日記。
手に取る。
——冷たい。
乾いた紙の匂い。
ページをめくる。
——
『王位継承について、再考の余地あり』
『女に王は務まらぬ。これは理ではなく現実だ』
——
「……これは……」
アンの声が震える。
さらに読み進める。
——
『あの者がいる限り、計画は進まぬ』
『排除すべきか——』
『いや、まだ早い』
——
文字が徐々に乱れていく。
焦りと、歪んだ執念が滲んでいた。
——
『機会を待つ』
『必ず、正す』
『この国を、本来あるべき形へ』
——
ページをめくる指が止まらない。
——
『声がした』
『“望みを叶えてやろう”と』
『馬鹿な——だが』
——
黒い染みが、紙に広がっている。
——
『ルイーゼは、消えた』
『事故だ』
『そう、事故だ』
——
息が詰まる。
——
『足りぬ』
『まだ足りぬ』
『ロイも——』
——
「……っ」
その名で、手が止まった。
そして——
最後のページ。
「……なに、これ……」
そこだけ、インクではなかった。
黒ずんだ赤。
乾いた血。
震える筆跡で、こう記されていた。
——
『契約ハ、遂行サレタ』
——
沈黙。
空気が、凍りつく。
「……まさか……」
アヤカの声が、かすれる。
「ルイーゼ様の死は……」
ゆっくりと顔を上げる。
「事故じゃ……なかったの……?」
その瞬間——
部屋の奥で。
“何か”が、わずかに、蠢いた。
「誰だ!」
部屋の外で控えていたカイルの声が響く。
「カイル!」
アンが声を上げる。
バン!と扉が開き、カイルが部屋に入ってきた。
「アン様!今何者かがこの部屋から……」
——出るはずがない。
扉は閉まっていたのだから。
その場の全員がその不気味さに息を呑む。
「……戻りましょう。ここには長くいない方がいい。」
「……そうね。」
アンはうなづき、アヤカの手を握る。
「行きましょう。」
「……ええ。」
アヤカは、日記帳を静かに机の中に戻した。
「……持っていかないの?」
アンの声。
「うん。これは……外に出さないほうがいい。」
——直感だった。
「この日記に書かれていたことは、この場にいる全員の証言として、この先きっとドルジェを追い詰められる。」
アヤカは、ちら、とレナンを見る。
レナンは、アヤカの視線に気がつくと、ふ、と口元を緩めた。
「……はい。今は、戻りましょう。」
公爵邸を出る時、アヤカは振り返った。
頭の中に浮かんでいた疑惑は、確信へと変わっていた——




