第十五話 波の前触れ
「……来る、って……何がだ」
カイルの低い声が、静かに落ちる。
「海が——」
一度、息を呑む。
「街ごと、飲み込む」
呼吸が浅くなる。
さっき見えた光景が、まだ頭から離れない。
引きずられる人影。
飲み込まれて、見えなくなる手。
「……っ」
「アヤカ」
アンの声が、すぐ近くで響いた。
「落ち着いて。ゆっくりでいいわ」
その言葉に、少しだけ呼吸が整う。
「……海が荒れるとか……そういうレベルじゃない」
目を閉じる。
「全部、飲み込まれる……そんな感じ……」
沈黙。
重く、張り詰めた空気。
「……場所は」
カイルが問う。
アヤカは、ゆっくりと目を開けた。
「……港」
はっきりと、言い切る。
「石の防波堤があって……船が並んでて……」
そこまで言って、はっとする。
「……あそこ、か」
カイルが呟いた。
「西の港町だな」
「……知ってるの?」
「この城から一番近い港だ」
短く答える。
アンの表情が、わずかに強張る。
「西の港……」
その名を、噛みしめるように繰り返す。
「最近、報告が上がっていたわ」
「……報告?」
アヤカが顔を上げる。
「漁が、おかしいの」
アンは静かに言った。
「魚が急に獲れなくなったり……」
「逆に、大量に打ち上げられたり」
「海の色が濁っているとも」
背筋が、ぞくりとした。
「……それ」
アヤカの声が、かすかに震える。
「前触れ、かもしれない」
カイルが、ゆっくりと目を閉じた。
「……一致しているな」
「西の港へ向かう。急げ」
その一言で、空気が変わる。
海の匂いが、濃い。
「……ここが、西の港」
アヤカは、ゆっくりと周囲を見渡した。
石造りの防波堤。
並ぶ漁船。
人はまばらだが、一見すれば、どこにでもある港町。
けれど——
「……海の色が、変。」
ぽつりと、呟く。
「気づいたか」
隣でカイルが低く言った。
うっすら、黒が混ざっている。
「魚が獲れないって話もあるしな」
「……うん」
アヤカは小さく頷く。
胸の奥が、ざわついている。
(来る)
確信に近い感覚だった。
「まずは様子を——」
アンが言いかけた、その時。
「きゃっ……!」
甲高い悲鳴が、港に響いた。
振り返る。
小さな子供が、足を滑らせて——海へ落ちる。
「……っ!」
時間が、止まったように感じた。
水面が、大きく揺れる。
その瞬間——
見えた。
黒い波。
押し寄せる巨大なうねり。
だがそれは——
“波”ではなかった。
(まだ……じゃない)
でも——
(始まってる)
「アヤカ!」
アンの声。
次の瞬間、アヤカは走り出していた。
「待て!」
制止の声を振り切る。
防波堤へ。
靴が滑る。
それでも、止まらない。
(間に合わせる)
水面に手を伸ばす。
「……っ、こっち!」
子供の腕を掴む。
冷たい。
重い。
「……くっ」
腕に力を込める。
その瞬間——
視界が、研ぎ澄まされる。
余計な音が消える。
見えるのは、“次に起きる動き”だけ。
「カイル!」
叫ぶ。
「……っ、ああ!」
カイルが、アヤカの隣から子供に手を伸ばす。
「離すな!」
「……離さない!」
二人がかりで引き上げる。
ずぶ濡れの子供が、地面に転がる。
「……っ、はぁ……」
息が荒い。
腕が震える。
でも——
確かに、掴んでいた。
命を。
「……大丈夫か」
「……うん」
顔を上げた、その瞬間。
——ぞくり、とした。
海が、うねっている。
風が、止んだ。
「……来る」
小さく、呟く。
「今度は、全体で来る」
遠くの水平線。
その向こうに——
異様な“盛り上がり”。
「……逃げて!!」
アヤカが叫ぶ。
「全員、高いところへ!!」
ざわめきが、爆発する。
人々が走り出す。
「走れ!!」
カイルの怒鳴り声。
混乱が広がる。
アヤカの足が止まる。
「……まだ、いる」
「どこだ」
「倉庫の裏!」
走り出す。
「……っ、いた!」
倒れた木箱の隙間。
老人が、足を押さえてうめいている。
「大丈夫ですか!」
アヤカが駆け寄る。
「う、動けん……!」
木箱が、しっかりと足を押さえつけている。
「……下がれ」
カイルが前に出る。
木箱に手をかける。
「……っ、重いな」
「……私も」
アヤカも手を添える。
「無理だ、離れろ」
「無理じゃない!」
思わず、声を張る。
ぐっと、力を込める。
その瞬間。
何かが、弾けた。
——未来が、重なる。
「……っ!?」
体の奥から、力が溢れる。
視界が、妙にクリアになる。
「……動かせる」
無意識に、そう呟く。
「カイル、今!」
「……っ、ああ!」
二人で、一気に持ち上げる。
鈍い音とともに、
木箱がずれる。
「今のうちに!」
老人を引きずり出す。
「立てますか!?」
「な、なんとか……」
肩を貸しながら、走る。
その時——
地鳴りのような音が響いた。
「……来るぞ」
カイルが、低く言う。
振り返る。
そこにあったのは——
壁だった。
空を、隠すほどの。
海が、そのまま立ち上がったような——
「……っ」
言葉を失う。
逃げる人々の背中が、あまりにも小さい。
(間に合って)
心の中で、強く願う。
高台へ続く坂。
「あと少しだ!」
カイルが叫ぶ。
その瞬間。
アヤカの頭に、閃く。
(……そこ、崩れる)
坂の途中。
古びた石壁。
「……止まって!!」
叫ぶ。
「そこ——崩れる!!」
一瞬の静止。
次の瞬間——
石壁が、音を立てて崩れ落ちた。
「……っ!?」
進んでいた人々が、
ギリギリで立ち止まる。
もし、そのまま進んでいたら——
カイルが、息を呑む。
「……助かった」
誰かの、震える声。
その一言が、胸に突き刺さる。
(……助けられた)
でも——
「走れ!!」
現実は、待ってくれない。
振り返れば、もうすぐそこまで迫っている。
「あと少しだ!」
高台。
最後の力で、駆け上がる。
そして——
全員が高台へ辿り着いた、その瞬間。
轟音とともに、
海が——“壁”になって、押し寄せた。
叩きつける音。
砕ける音。
やがて——
すべてを飲み込んだあとで、静寂。
高台から見下ろした先。
そこにあったはずの港は——もう、なかった。
(……変えられた)
確かに、助かった命はある。
でも——
(全部じゃない)
拳を握る。
「お前がいなければ、もっと死んでいた」
ふいに、隣でカイルがそう、呟く。
その言葉に、胸が揺れる。
「……ありがとう」
アンの声が、続く。
アヤカは、ゆっくりと首を振る。
「……まだ、終わってない」
視線を、港の先へ向ける。
「……これで、終わりじゃない。」
空気が、わずかに張り詰める。
「……なら」
アンが言う。
「次は王都で備えるわ」
風が、吹く。
アヤカは、そっと手を握った。
(全部は救えない)
それでも——
(減らすことは、できる)
(だから、選ぶ)
その瞳に、強い意志が宿る。
そして。
まだ見ぬ“次”を、見据えていた。




