第十三話 触れた未来
夜が明ける。
眠ったはずなのに、体は重かった。
夢じゃない。
あれは、確かに“見た”。
(……触れた)
手のひらを見る。
何も変わっていないはずなのに、
何かが変わってしまった気がした。
——じっとしていられなかった。
街へ出る。
けれど、そこにあったのは——
活気のない、沈んだ空気だった。
人はいる。
だが、誰もが足早に通り過ぎる。
会話は小さく、笑い声はない。
店の戸は閉ざされ、
通りには、重たい静けさが落ちていた。
(……怖がってる)
理由は、わかっている。
厄災。
目に見えない“何か”が、
この国を蝕んでいる。
(……見える)
視界の奥で、
“流れ”が揺れる。
この先に起きること。
まだ起きていない現実。
足が、動いた。
「……どこ行くの」
いつの間にか、隣にノアがいる。
「……街の外。」
短く答える。
ノアは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
——街を抜ける。
人気の少ない道。
乾いた風。
遠くに、小さな村が見えた。
(あんなところに、村なんてあったんだ……)
その途中で——
ガラガラ、と音がした。
荷車。
馬を引いた、行商人。
荷台には、布で覆われた箱。
視界が、揺れる。
——乾いた地面。
ひび割れた道。
荷車の車輪が、軋む。
(……外れる)
次の瞬間。
がくん、と傾く荷車。
馬が暴れる。
男の体が、大きく引きずられる。
(危ない)
考えるより先に、体が動いた。
「危ない!」
腕を掴む。
強く引き寄せる。
次の瞬間——
車輪が外れた。
荷車が、大きく傾く。
積み荷が、地面に叩きつけられる。
箱が割れる。
中身が、散らばる。
「……っ!」
男が息を呑む。
「た、助かった……」
その場にへたり込みながら、息を吐く。
アヤカも、遅れて息を吐いた。
(……助けた)
確かに、助けた。
男は、生きている。
その時。
地面に散らばった瓶が、目に入る。
割れた容器。
流れ出た液体。
「……これ」
男が、顔をしかめる。
「薬だ」
その一言が、胸に落ちる。
「村に運ぶはずだったんだが……急ぎでな」
壊れた荷車を見て、苦く笑う。
「こりゃ、一度街に戻るしかないな」
軽く頭を下げる。
「助けてくれて、ありがとな」
そう言って、男は馬を落ち着かせながら、
街の方へ引き返していく。
その背中を——
アヤカは、ただ見ていた。
(……薬?)
その瞬間。
視界が、再び揺れる。
——別の“流れ”。
同じ道。
同じ荷車。
だが——
今度は、アヤカは動かない。
車輪が外れる。
馬が暴れる。
男は、地面に叩きつけられる。
鈍い音。
血が、滲む。
(……っ)
だが。
荷車は、完全には壊れない。
積み荷も、無事。
男は、歯を食いしばりながら立ち上がる。
体を引きずるようにして、荷車を押す。
——場面が変わる。
小さな家。
寝込んでいる子供。
その横で、母親が手を握っている。
扉が、開く。
男が、薬を差し出す。
震える手で、受け取る。
飲ませる。
呼吸が、戻る。
——助かる。
(……あ)
息が、止まる。
視界が、戻る。
目の前には——
もういない、行商人の背中。
遠ざかっていく。
街の方へ。
(……届かない)
さっき、自分が選んだ未来。
薬は、届かない。
子供は——
助からない。
「……なんで」
声が、震える。
助けたはずなのに。
救ったはずなのに。
「……なんで、こうなるの」
膝が、わずかに揺れる。
「……全部、助けられないの」
風が、乾いていた。
その時。
「——今の、見えたでしょ」
すぐ後ろから、声。
振り返る。
「……ノア」
いつの間にか、そこにいた。
静かな顔で、アヤカを見ている。
「……見えた」
かすれる声。
ノアは、ゆっくりと頷く。
「そっか」
一歩、近づく。
「じゃあ、わかったはずだよ」
「……何が」
ノアは、少しだけ首を傾ける。
「同時には、救えないってこと」
言葉が、胸に落ちる。
アヤカは、唇を噛んだ。
「……そんなの」
声が震える。
「助けただけなのに」
「うん」
あっさりと、肯定する。
「間違ってないよ」
その一言で、少しだけ呼吸が戻る。
でも——
「でもね」
ノアの声が、わずかに低くなる。
「——全部は無理」
はっきりと、言い切る。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
アヤカは、言葉を失った。
(……全部は無理)
頭の中で、繰り返される。
さっき見た光景が、離れない。
助かった命と、
助からなかった命。
拳が、わずかに震える。
「助けたことで、失われる未来もある」
言葉が、突き刺さる。
アヤカは、目を逸らす。
「……じゃあ」
絞り出す。
「どうすればいいの」
ノアは、少しだけ考えるように目を細めた。
そして——
「慣れること」
迷いなく、言い切る。
「……っ」
「あとね」
ゆっくりと、手を伸ばす。
額に、軽く触れる。
「もっと先を見なよ」
「え?」
「今みたいに、“目の前”だけ見てるから」
「その場で、選ぶことになる」
視線が、まっすぐ向けられる。
「もっと遠くまで見えれば——」
一拍。
「そもそも、その状況を避けられる」
息が、止まる。
「……避ける……」
小さく、繰り返す。
「そう」
ノアが頷く。
「二択になる前に、潰す」
静かな声。
でも、確かな答え。
「未来は、そこまで続いてるから」
アヤカは、言葉を失った。
「……そんなの」
できるのか。
問いは、声にならない。
ノアは、ふっと笑う。
「だから練習してるんでしょ」
そして——
少しだけ、柔らかく。
「ツキヨミの巫女なんだから」
その言葉が、静かに落ちる。
アヤカは、俯いたまま。
拳を、強く握る。
(……全部は無理)
一度では、理解しきれない。
助けたはずの命と、
失われた命が、頭の中で重なる。
(……全部は、無理)
(でも)
ゆっくりと、顔を上げる。
「……それでも」
小さく、呟く。
「減らすことは、できる」
ノアが、少しだけ目を細めた。
「うん」
静かに、頷く。
乾いた風が、吹く。
遠くの村。
まだ知らない結末。
それでも——
選択は——
もう、始まっている。




