番外編 旅の断片
── ロウの蜂蜜 ──
旅を始めて五日目の夕方、ロウが村の小さな市場で立ち止まった。
蜂蜜売りの屋台だった。
「……少し待て」
ロウは、そう言って屋台のおじさんと話し始めた。試食の蜂蜜を一口なめて、それから別の瓶を一口なめて、また別の瓶を一口なめた。
「ロウ、ずっと試食してますが……」
「品定めをしている」
「もう五回食べてますよ」
「うるさい」
結局、ロウは瓶を三本買った。おじさんはにこにこしていた。ロウのような客は、また来てくれるから好きらしい。
「なぜ三本も?」
「旅が長くなりそうだから」
「どのくらいの頻度で食べるんですか」
「気分次第だ」
「死神って、甘いものが好きなんですか。蜂蜜だけじゃなくて」
「好みはある。だが、食べなくても死なないから、好きなものだけ食べる」
「合理的ですね」
「死神なりの贅沢だ」
その後、ロウは歩きながら蜂蜜を指につけてなめた。子供みたいな食べ方で、なんとも言えない光景だった。
でも、わたしはその光景が少し好きになっていた。
── ミミのこと ──
ミミが初めてわたしにすり寄ってきたのは、旅を始めて四日目の夜だった。
廃屋に野営していたとき、ずっとロウの足元にいたミミが、突然わたしの方に来て、膝の上に乗った。
「ミミ、いいんですか。ロウじゃなくてわたしで」
「……猫は気まぐれだ」とロウが言った。少し不満そうだった。
「嫉妬してますか」
「していない」
でも、ロウはその後しばらく、ミミがわたしの膝から離れるのを待っているようだった。
ミミが戻ると、ロウは何事もなかったかのようにミミの喉元を撫で始めた。
そういうところが、憎めない。
わたしは、そう思いながら、証言書の続きを書き始めた。
── 境界人の夜目 ──
夜が怖くなくなった。
生きていた頃は、夜が来るたびに少し心細い気がしていた。闇の中に何があるか分からないという、漠然とした不安。
でも、境界人になってから、夜はただ静かな時間になった。目が利くから暗くても見える。耳が鋭くなったから、遠くの音まで聞こえる。闇が怖いのではなく、ただ、見えていなかっただけだったと分かった。
「ロウ、夜って好きですか」
「嫌いじゃない」
「わたし、好きになりました。最近」
「そうか」
「見えるようになると、怖くなくなるんですね」
「見えないものを怖がるのは、正しい反応だ。だが、見えるようになれば、怖がる必要がなくなる。その順序で、多くのことが変わる」
「封印のことも、そうですかね。正しく見えていなかったから、ずっと怖かった」
「……そうかもしれない」
夜の道を、二人と一匹で歩く。
わたしには、それが今のところ、一番安心できる光景だった。
── エルへの手紙 ──
旅の途中で、わたしは一通の手紙を書いた。
送る相手は、もういない。でも、書かずにはいられなかった。
「エルへ。あなたに会ってから、いろいろなことがありました。ガラという子のことも知りました。二百四十七人という数のことも。旅をするたびに、あなたみたいな子がいたんだと分かって、その度に、怒りと悲しみと、でも諦めたくない気持ちと、全部が混ざりました。あなたが最初に話しかけてくれなかったら、わたしはここまで来られなかったと思います。ありがとう。必ず、全部、終わらせます」
書き終えて、読み返して、それから火に燃やした。
ロウが見ていた。
「何を燃やした」
「手紙です。返事は来ないから、届けるより燃やす方がいいと思って」
「……煙が届くと言う者もいる」
「本当ですか」
「分からない。ただ、そう思いたい者がいるのは確かだ」
わたしは、煙が消えていく方向を見上げた。空は、今日も青かった。
── 証言書の夜 ──
旅の十一日目の夜、わたしはランプの明かりの下で、証言書の全ページを読み直した。
最初のページ。ガラ、十五歳。土地の境界線を巡る争いの制裁として選ばれた。
次のページ。タオ、十二歳。同じ村の子。詳しい理由は不明。
次の村の子。その次の村の子。名前が並ぶ。年齢が並ぶ。理由が並ぶ。
途中で何度か手が止まった。止まるたびに、一度深く息を吐いて、また読み始めた。
全部読み終わったのは、夜中を過ぎた頃だった。
「何をしていた」とロウが言った。
「全員分、読みました」
「全員?」
「二百四十七人。一人ひとり」
ロウは、少しの間黙った。
「声に出して読んだか」
「全員分、名前だけは声に出しました。時間がかかりましたけど」
「そうか」
ロウはそれ以上何も言わなかった。でも、その後しばらく、ミミを撫でる手が止まっていた。
── カインへの問い ──
大聖堂に入る直前、わたしはロウに言った。
「一つだけ、カインに聞きたいことがあります」
「何だ」
「カインは本当に、自分が正しいと思っているんでしょうか。それとも、自分が間違っているのを知りながら、見ないふりをしているんでしょうか」
ロウは、少しの間考えてから答えた。
「……私の経験では、どちらでもある人間が、一番長続きする」
「どういう意味ですか」
「正しいと信じている部分と、疑っている部分が、人の中で共存していることがある。疑いを感じると自分の信念で塗りつぶす。それを繰り返すうちに、疑いの方が見えなくなる」
「そうなると、もう変われない?」
「変われる可能性はある。だが、証拠を突きつけられても変わらない。変われるとすれば、自分の内側から来るときだけだ」
「それを待つ余裕は、わたしにはないです」
「だから、仕組みを変える。本人が変わるのを待たなくていい」
わたしは頷いて、大聖堂の扉を開けた。
── 旅の終わりに、旅の始まりに ──
丘の上から、次の村が見えている。
わたしは、その村に誰が住んでいるのかを知らない。どんな問題があるのかも知らない。
でも、行けば分かる。話を聞けば分かる。
「ロウ、一つ聞いていいですか」
「また何だ」
「旅って、楽しいですか」
「……楽しい、という言葉が正しいかどうか分からないが」
「正しくなくていいです。感覚的に、どうですか」
ロウは、少しの間だけ空を見てから言った。
「悪くない」
「わたしも、悪くないです」
「死んで戻ってきて、悪くないとは、妙な感想だな」
「ロウと一緒だからだと思います」
「……うるさい」
「褒めてるんですよ」
「分かってる」
ミミが、先に歩き出した。いつの間にか、ミミが先頭を行くことが多くなっていた。どこへ行くのか分かっているかのように、迷わず歩く。
わたしとロウは、ミミの後を追うように歩き出した。
旅は、続く。
終わりが来るまで、どこまでも。




